しんまで冷えていますね
「――あの、藤堂先生。私、夏でも下半身が氷みたいに冷たくて……。秋に結婚式を控えているのに、こんな体じゃウエディングドレスも綺麗に着こなせなくて、悩んでるんです……」
梅雨の晴れ間、じっとりとした生温かい風が吹く昼下がり。療術院の引き戸をそっと開けて入ってきたのは、二十代後半の、いかにも大人しそうで上品な女性――千尋だった。
まだ本格的な冷房を入れる前だというのに、彼女は首元までボタンのある厚手のカーディガンを羽織り、自分の腕を抱くようにして寒そうに身を縮めている。
「いらっしゃい、千尋さん。どれどれ……あー、なるほど。これは単なる冷え性なんてレベルじゃないですね。体の『芯(真)』までガチガチに凍りついてますよ」
受付の奥からぬっと出てきた義明は、前回の特大ステーキ丼と超濃厚プロテインココアが完全に見事な実を結び、体重百キロ超のどっしりとした「完全なる熊男モード」に戻っていた。まるで大樹のような安心感を放つその丸太のような腕を見て、千尋はホッとしたように少しだけ緊張の面持ちを緩める。
「そうなんです、お腹の奥が、ずうっと氷の塊でも入っているみたいに冷たくて……。漢方もお灸も、色んな温活を試したんですけど、全然ダメなんです。お医者さんに行っても『ただの自律神経の乱れ、体質ですね』って言われちゃうだけで……」
「なるほどね。じゃあ、まずは内臓の血流を呼び戻すために、お腹――『腸もみ』の施術からいきましょうか。お腹を柔らかくすれば、全身に血が巡り始めますから」
義明は千尋を施術ベッドに仰向けに寝かせ、上からふんわりと厚手のバスタオルをかけた。そして、彼女の緊張をほぐすように優しく声をかけながら、下腹部へとそっと両手を当てた。
――その瞬間。義明の手のひらを通じて、脳髄まで突き抜けるような、背筋が凍りつく「霊的な冷気」がダイレクトに伝わってきた。
それは、人間の血管の収縮などで起こる、通常の血行不良などでは断じてない。
義明の眼には、バスタオルの向こう側、千尋の下腹部を小さな両手でぎゅっと健気に抱きしめるようにして、ぴったりと縋りついている、小さな子どもの霊がはっきりと見えていた。
ただただ寂しくて、悲しくて。大好きな母親である千尋の温もりを求めて、必死に小さなお腹にしがみついているのだ。だが、霊体が放つ冷気が、皮肉にも千尋の肉体を「芯まで冷やす」最大の原因になってしまっていた。
(……やっぱりか。でも、この冷気には、彼女を呪うような攻撃性がまるでない。ただ、寒くて、寂しくて、お母さんに気づいてほしくて震えてるんだな)
義明の目に、切ないものを愛おしむような、深い優しさが宿る。
彼は小さく息を吐き、隣で器具を片付けていた葵に合図を送った。
長年の付き合いである葵は、義明のその目つきだけで、ベッドの上で何が起きているかを瞬時に察知した。彼女は何も言わず、すぐに施術室の隅にある香炉へと向かい、邪気を払い心を落ち着かせるお香を新しく焚き染めると、部屋のエアコンのリモコンを操作して、設定温度をそっと数度引き上げた。
「千尋さん。少しだけ、お腹を深く押しますね。……呼吸を止めずに、鼻から大きく吸って、口からゆっくり吐き出してください」
義明は熊のような大きな手で、千尋のデリケートなお腹を丸ごと包み込むように優しく、じっくりと、密着させるように圧をかけていく。
その手のひらから、太陽の熱のような温かいエネルギーが千尋の体内へと浸透していく。それと同時に、義明の肉体から凄まじい勢いでエネルギーが消費され、激しく削り取られていった。
みるみるうちに義明の巨体が縮んでいく。お腹が凹み、分厚かった胸板が薄くなり、白衣が風を孕んだようにぶかぶかになっていく。数分も経たないうちに、義明は鋭くも儚げな、どこか憂いを帯びた「超絶イケメンモード」へと変貌を遂げていた。
自らの命の炎を薪にして燃やし、千尋の凍りついたお腹を、その奥にいる小さな魂ごと温めているのだ。
「……千尋さん。ちょっと、昔のお話を聞いてもいいですか」
義明は激痩せしたシャープな顔を少し伏せ、睫毛を揺らしながら、掠れた声で優しく問いかけた。
「え……? 昔の話、ですか?」
「はい。あなたの体の芯にあるのは、単なる血行不良じゃない。……隠された『真実』と向き合うのを怖がって、心がずっと震えているんです。――以前、とても悲しいお別れがありませんでしたか?」
千尋はハッと目を見開いた。その瞳が激しく揺れ、みるみるうちに大粒の涙が溢れ出して、こめかみを伝って髪を濡らしていく。
「……どうして、それを。……はい、そうです。今の婚約者と付き合う前、学生の頃にお付き合いしていた人との間に、小さな命を授かりました。でも、お互いに若すぎて、育てる経済力もなくて……泣く泣く、諦める選択をしたんです。今の優しい彼には、どうしてもその過去が言えなくて。私だけがこんなに幸せになっていいのかなって、ずっと、ずっと強い罪悪感があって……」
千尋は両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。
秋の結婚式を前に、誰にも言えず、心の奥底の冷たい氷の中に閉じ込めて鍵をかけていた、一番触れられたくない「真実」だった。
義明は、激痩せして細くなった指先で、千尋のお腹にいる小さな霊の頭を、よしよしとあやすように優しく撫でながら、硬くなった腸のコリを揉みほぐした。
『――もう大丈夫だよ。お母さんはね、君を忘れたことなんて一度もないんだ。今でもこんなに、君のことを想って涙を流してくれてるだろ』
心の中の領域で静かに語りかけると、義明の手のひらから、黄金色の温かい光が子どもをふんわりと包み込んだ。
小さな子どもは、ずっと冷たかったお母さんのお腹が、ひだまりのようにぽかぽかと温かくなったことに満足したように、義明の頭の中でキャッキャと嬉しそうな産声を上げた。そして、泣いている千尋の涙を拭うようにその頬を小さな手でひと撫でして、光の粒子となってフワリと天井へ、空へと還っていった。
「――っ、あたたかい……」
千尋が、自分のお腹に触れた。
「先生……お腹の奥が、信じられないくらい熱いです。ずっと凍っていた冷たい塊が、今、サァッと溶けて流れていくみたい……」
「心のコリが解ければ、体は自然と温まりますから」
ぶかぶかの白衣の袖を少し余らせた、超絶イケメン(義明)が、美しく穏やかに微笑んだ。
「過去を無理に忘れる必要はありません。その悲しみを知っているあなただからこそ、これから新しく生まれてくる命を、もっと深く愛せるはずです。旦那さんと、どうか幸せになってくださいね」
「……はい! はい……っ。先生、本当に、本当にありがとうございました!」
千尋は涙を拭き、頬を桜色に染めた、見違えるほど健康的で温かい笑顔を咲かせて療術院を後にした。
ピシャッと引き戸が閉まると同時に、義明はベッドの横の床にどさりと崩れ落ちた。
「うぅ……今回も劇的に削られた……。子どものピュアな冷気はダイレクトに芯にくるから、指先が凍りつきそうに寒かったよ……」
「お疲れ様でした、師匠」
背後から、葵が呆れ顔を見せつつも、すかさず特大のお盆を差し出す。そこには、湯気を立てる洗面器サイズの大鉢に盛られた、お豆腐とネギがたっぷりの特製「すき焼き(五人前)」と、白米が山盛りになった丼が三つ置かれていた。もちろん、食後の栄養補給用プロテインも完備されている。
「結婚前の女の子の、一番繊細で傷ついてるトコを優しくほぐしてあげるなんて、ニクいことしますね。ほら、冷めないうちに極上の牛肉をかっ喰らって、早くいつものデカい師匠に戻ってください!」
「肉! 豆腐! 白米! ありがたい……!!」
ガリガリの儚げなイケメン(義明)は、飢えた獣のような目で箸を握りしめ、一心不乱に肉や野菜を口に運びながら、「やっぱり、人の真実に触れるのは、めちゃくちゃお腹が減るねぇ……」と、ハフハフと熱い息を漏らすのだった。




