首がまわらないですね
「……痛たたた。おい、ちょっとすまない。予約した大野だが……」
西日が赤黒く差し込む夕暮れ時。重苦しい足取りで療術院の引き戸を開けて入ってきたのは、仕立ての良い高級なスーツを着こなした五十代の男性だった。都内で中小企業を経営しているという大野は、首を完全にロックされたロボットのように体ごと不自然に横を向いて、苦悶の表情を浮かべている。
「いらっしゃいませ、大野さん。……おや、これはまた、見事なまでに『首が回らなそう』ですね」
受付カウンターの奥から応対した義明は、前回の高級マカロンと、その後に胃袋へ収めた数食分のドカ食いちゃんこ鍋が完全に肉肉しく定着し、体重百キロ超のどっしりとした頼もしい「通常モード(熊男)」だ。
大野は痛みに耐えるように顔をしかめながら、自嘲気味に力なく笑った。
「はは……笑えない冗談だよ、藤堂先生。会社の資金繰りのことなら、今朝ちょうど銀行からの融資が決まってね。おかげさまで、経営的な意味での『首が回らない』事態はギリギリで免れたんだが……。なぜか今度は物理的に、一ミリも首が横に回らなくなってしまってね。おまけに、さっき駅の鏡で見たら、なんだか自分の顔色が異様に悪くて……」
大野の言う通り、彼の表情は土気色を通り越し、まるで薄めた墨汁を刷毛で何度も塗り重ねたかのように、どす黒く澱んでいた。生気が完全に奪われた死相――あるいは、極めて強い「呪い」の兆候だ。
しかし、本当に深刻なのはそんな表面的な変化ではなかった。
義明の鋭い眼には、大野の首元に、恐るべき怪異の姿がはっきりと見えていた。
大野の首には、まるで蛇か縄のように異常に細長く引き伸ばされた「男の霊」が、白目を剥き、歯をガチガチと鳴らしながら、何重にもカチカチに巻き付いていたのだ。
(……うわ、これはきついな。嫌がらせレベルじゃない。成仏していない仏だ。しかも、凄まじい恨みを持って亡くなった人間の念が、大野さんの頸椎を今すぐ内側からへし折らんばかりにギュウギュウに締め付けてる)
義明の顔から、いつものおっとりとした大らかな笑みが一瞬で消え去り、冷徹な治療師の目へと切り替わった。
「葵さん」
義明の、低く張り詰めた声が院内に響く。
「表の看板を『本日の受付は終了』に変えて。それと、入り口の鍵を閉めてくれ」
「……分かりました」
ただごとではない不穏な空気を察した葵が、真剣な表情で素早く動き出し、入り口の鍵を回して厚手の遮光カーテンをパチパチと隙間なく閉め切った。夕暮れの光が遮断され、療術院の中は一気に張り詰めた闇と、お香の煙に包まれる。
「大野さん、ベッドに横になってください。……あなたが背負っているその『重み』の正体、少し確認させてもらいます」
大野がぎこちない動きでうつ伏せになると、義明はその分厚く大きな両手を、大野の強張った首筋へと静かに添えた。
触れた、その刹那。
バチバチバチッ!! と、静電気が爆ぜるような、皮膚がジリジリと焼けるような強烈な拒絶反応が義明の手のひらを襲った。頸椎に巻き付いた男の怨霊が、血走った目を剥いて『邪魔をするな』と剥き出しの敵意で威嚇しているのだ。
「――っ」
義明は奥歯を噛み締め、大野の硬直した首の筋肉をじっくりと、だが確実に、逃がさないように押し込んでいく。
指先から霊的な接触を深めると同時に、大野の脳裏の奥底に沈殿していた、苦痛に満ちた記憶の断片が、義明の意識へと濁流のように流れ込んできた。
それは、およそ半年前の出来事――。
大野の経営する会社が未曾有の倒産の危機に瀕した際、会社を存続させるため、やむを得ずリストラを断行した一人の元社員の男の姿だった。男はその後、再就職が思うようにいかず、生活苦と自暴自棄の果てに、自ら命を絶っていた。
『お前のせいだ……お前が、あのとき俺を切り捨てたからだ……っ! お前が俺を殺したんだ!! 俺の人生を回らなくしたお前の首を、へし折ってやる……!!』
怨霊の、鼓膜を直接掻き毟るような呪詛が義明の頭の中で響き渡る。
それと同時に、これまでとは比較にならない凄まじい吸引力で、義明の肉体からエネルギーが文字通り怒涛の勢いで吸い出されていった。
みるみるうちに百キロ超の巨体が縮み、仕立ての大きな白衣がみるみるブカブカに余っていく。顎のラインが刃物のように尖り、この世の者とは思えないほど美しく儚げな「激痩せイケメンモード」へと瞬く間に変貌していく。
しかし、今回の怨念はあまりにも重すぎた。
これほどの激痩せモードに突入してもなお、怨霊の締め付ける力の方が勝っている。義明の指先が、死者特有の絶対的な寒気によって、小刻みに震え始めた。
「師匠!! おにぎり!? それとも特製ドリンクですか!?」
異変を察知した葵が、青ざめた顔で受付の奥から飛び出してくる。だが、義明はそれを片手でピシャリと制した。
「ダメだ、葵さん……下がってろ。今回は、単純なカロリーじゃ、解決しない……。これは、筋の問題だ」
義明は激しいエネルギーの消耗に喘ぎ、掠れた声を絞り出しながら、ベッドに横たわる大野へと問いかけた。
「大野さん……あなたに聞きます。……会社の、社員のことで。何か、どうしても忘れられない、大変な出来事があったんじゃないですか?」
大野の体が、ビクッと大きく震えた。
顔枕に深く顔を埋めたまま、大野の喉の奥から、血を吐き出すかのような絞り出す声が漏れる。
「……知って、いるのかね、先生。……ああ、そうだ。毎日、忘れたことなど一日たりともないよ。……会社を守るため、残された何十人もの社員とその家族の生活を守るためには、あの時はあれしか道がなかった。だが……彼を、あの男を絶望に追いやったのは、紛れもなく私だ。私が……トップとして、至らなかったんだ……っ」
大野の硬く閉じた目から、大粒の涙がとめどなく溢れ出し、施術ベッドを瞬く間に濡らしていった。
その涙には、自己保身のための言い訳や、綺麗事に飾られた謝罪などは微塵も混ざっていなかった。一人の経営者として、一人の人間として、他者の人生を狂わせてしまったという、本物の「後悔と、血を吐くような覚悟」の涙だった。
その瞬間。
義明の指先に伝わっていた、大野の首を無慈悲に締め付けていた怨霊の縄が、戸惑うように、わずかに、だが確実に緩んだ。
義明はその刹那の隙を、決して逃さなかった。
激痩せして骨張った指先に、体内に残るすべての霊力を一点集中させる。大野の硬直した頸椎の、歪みの起点となっている骨へ的確に親指をかけると、一瞬の呼吸で鋭く押し込んだ。
――パキッ、と。
静まり返った院内に、乾いた、しかし驚くほど心地よい矯正音が響き渡る。
それと同時に、義明は心の中の領域で、呆然と佇む霊の目を真っ直ぐに見据えて、静かに、かつ毅然と語りかけた。
『――おい。あんたも、今の言葉が聞こえただろ』
義明の言葉が、霊の凍てついた心を揺らす。
『この人は、あんたを切り捨てて忘れたわけじゃない。あんたの人生を狂わせた痛みを、その分の重みを全部背負って、会社を続けていく覚悟だ。……あんたの人生の歯車は、理不尽に止まっちまったかもしれない。だけどな、これ以上この人を道連れにして引きずり落としたら、あんたの魂の筋道まで完全に歪んで、二度と戻れなくなっちまうぞ。……もう、いこう。あとは全部、社長に背負わせればいい』
霊は、白濁した目で大野の流す涙をじっと見つめていた。
社長の涙に触れた男の輪郭が、かすかに、人間のそれへと戻っていく。
やがて霊は、深く、長い、諦めとも救いともつかない溜息を、静かにひとつ吐き出した。すると、大野の首を縛り付けていたどす黒い縄がするりと解け、男の姿は夕闇の彼方へと溶け去るように消えていった。
大野の顔全体を覆っていた、死相とも言うべき「黒い霧」が、嘘のように綺麗に霧散していく。
「……あ」
大野が、信じられないといった様子で、ゆっくりと首を左右に振った。
「回る……。首が、回る。それに、なんだか急に、頭の奥の重荷が取れて、視界が『明るく』なったようだ……!」
大野はガバッとベッドから起き上がり、自分の首を何度も手で確かめて歓喜の声をあげた。そして、感動を伝えようと正面を向いた瞬間、目の前に立つ義明を見て、ポカンと口を開けて凝固した。
「……あの、さっきの先生、ですよね? なんだか急に、見違えるほどお痩せになって……。まるで別人のような、憂いを帯びたハンサムに……」
「あはは……。一企業の責任を背負いすぎるのも、体に重い『毒』が溜まりますからね。僕が少し、その毒を代わりに削ぎ落としただけです」
元の仕立ての大きな白衣をぶかぶかに羽織った、あまりにも儚げで美しいイケメン(義明)が、弱々しく、しかし大らかに微笑んだ。
「大野さん。経営も、体も、首が回るようになって本当に良かった。でも、どうか一人で抱え込みすぎないでくださいね」
「……あぁ。ありがとう、藤堂先生。本当に、命を救われたよ」
大野は深く頭を下げ、先ほどまでの悲壮感は消え失せ、どこかすっきりとした、社長としての力強い足取りで療術院を後にした。
ガチャン、と入り口の鍵を閉め直した葵が、慌ててソファーに崩れ落ちた義明の元へと駆け寄る。
「ちょっと師匠! 今回ガチで死にかけてたじゃないですか! 鎖骨まで浮き出てますよ!」
「うぅ……さすがに、他人の業を直接ほぐすのは、物理的に身が削れるよ……。葵さん……頼む、今すぐ、出前を……。ロースカツ丼を、いや、お肉のタンパク質が欲しい……特大ステーキ丼を五人前……いや、十人前頼んでくれ……」
「ギリシャヨーグルトと蜂蜜を入れた超濃厚プロテインココアも付けます! だから死なないでくださいよ!」
ガリガリに痩せ細り、まるで儚い幻影のようになってしまった義明は、葵が急いで淹れてくれた熱々の特製高カロリーココアを、震える手でフーフーとすすりながら、「やっぱり、整体師は体が資本だねぇ……」と、遠い目でぽつり、と呟くのだった。




