第62話 約束
翌朝。アカネはいつも通りだった。朝起きる。ご飯を食べる。縁側で昼寝する。何も変わらない。本当に何も変わらない。
「……」
サフィラはじっと見ていた。変わらなすぎる。昨夜。一応。そのそういう話になったはずなのだ。
だが当の本人は普段通り。まるで昨日のことなど忘れたかのようだった。
「アカネ」
「ん」
「お前」
「ん」
「何かないのか」
アカネが首を傾げる。
「?」
分かっていない。サフィラは額を押さえた。駄目だ。期待するだけ無駄だった。そんな二人を見ていた人物がいる。エドガーである。
「仲が良いですね」
「そうか?」
「そう」
アカネが即答した。サフィラは少しだけ顔を逸らすエドガーは笑う。何か察した。だが言わない。大人だった。昼過ぎ。孤児たちは仕事へ出ていた。教会は静かだ。アカネとサフィラはキアラの部屋へ向かう。毎日の習慣だった。扉を開ける。キアラは眠っている。変わらず。三週間近く。ずっと。眠ったままだ。呼吸は安定している。熱も下がっている。だが起きない。
「まだか」
サフィラが呟く。アカネは椅子へ座る。そして。キアラを見る。
「頑張ってる」
「そうだな」
きっと今も戦っている。自分の中で。コアの情報と。膨大な力と。折り合いを付けながら。その時だった。ぴくり。二人の視線が動く。
「ん?」
アカネが立ち上がる。今確かに動いた。キアラの指先。本当に僅かだ。だが確かに。
「サフィラ」
「ああ」
二人とも見た。間違いない。反応だ。そして再び。ぴくり。今度は少し大きい。アカネの顔が明るくなる。本当に少しだけ。
「起きる?」
「近いかもしれん」
サフィラも笑う。三週間。長かった。本当に。長かった。その日の夕方。教会の中庭。アカネは木箱へ腰掛けていた。空を見ている。そこへサフィラがやって来る。飲み物を二つ持って。
「ほら」
「ん」
受け取る。少しだけ沈黙。心地良い沈黙だった。
「なあ」
サフィラが言う。
「ん」
「旅に出たら」
「うん」
「またこういう時間は減るだろうな」
アカネが考える。確かにそうだ。世界を渡る。コアを探す。戦う。今みたいな時間は珍しい。
「そうかも」
「だろうな」
サフィラは空を見る。そして。少しだけ笑った。
「だから覚えておこう」
「何を?」
「今をだよ」
アカネは黙る。それから。ゆっくり頷いた。
「うん」
忘れない。きっと。旅を続けても。戦い続けても。この町を。エドガーを。孤児たちを。キアラを。忘れない。そしてもう一つ。サフィラの手が伸びる。自然に。当たり前のように。アカネの手へ触れる。握る。アカネは少し驚いた。だが振り払わない。そのまま。握り返した。サフィラが笑う。アカネも少し笑う。ほんの少しだけ。夕日が二人を照らしていた。そしてその頃。教会の一室。眠るキアラの夢の中で。黒い根が揺れる。巨大な樹。世界を貫く脈。流れていく膨大な光。そして。遠く。本当に遠く。何かの笑い声が響いた。キアラの指先が。もう一度だけ。ぴくりと動いた。
朝。教会はいつも通りだった。一の鐘。孤児たちが起きる。朝食。お祈り。掃除。変わらない日常。それは良いことだった。守りたかった日常だから。そして変わったこともある。ヴォイドがいない。もう誰も怯えない。夜になっても門は閉まるが。恐怖はない。世界は確かに救われていた。その頃教会の一室。静かな部屋。カーテンの隙間から朝日が差し込む。キアラは眠っていた。だが今までと違う。意識が浮上している。長い夢だった。長すぎる夢だった。無数の光景。無数の記憶。理解できない情報。知らない世界。知らない景色。知らない死。知らない滅び。その全てが少しずつ遠ざかっていく。そして。ゆっくりと。目を開けた。天井。見慣れた天井。教会の部屋。
「……あ」
声が掠れる。身体が重い。だが動く。ゆっくり起き上がる。頭が痛い。まだ少し。けれど。以前のような激痛ではない。そこでようやく気付く。椅子。ベッドの横。誰かが寝ている。白い髪。小柄な身体。アカネだった。椅子に座ったまま。腕を組んで寝ている。キアラが瞬きをする。そして。少し笑った。
「なにそれ……」
その声で。アカネの目が開く。数秒。固まる。そして。
「キアラ」
立ち上がる。本当に珍しく。少し慌てていた。
「起きた」
「うん」
「起きた」
もう一回言った。それほど嬉しかったらしい。キアラが笑う。
「ただいま」
「おかえり」
その時だった。アカネが扉を開ける。全力で叫ぶ
「サフィラ!エドガー!起きたー!」
数秒後。足音。凄まじい勢いで近付いてくる。まずエドガー。そしてサフィラ。二人とも部屋へ飛び込んできた。
「キアラ!」
「キアラさん!」
キアラは少し驚いた。そこまで心配されていたとは思わなかった。エドガーなど目が潤んでいる。
「本当に……」
言葉に詰まる。そして。頭を撫でた。優しく。何度も。
「無事で良かった」
キアラは少し照れる。
「心配かけた?」
「大変でした」
即答だった。サフィラも頷く。
「三週間だぞ」
「そんなに?」
流石に驚いた。三日くらいだと思っていた。三週間。思った以上に長い。その後。少し落ち着いてから。四人は部屋へ集まった。エドガー。アカネ。サフィラ。そしてキアラ。全員が座る。空気が変わる。ここからは雑談ではない。キアラ自身も分かっていた。聞かなければならないことがある。伝えなければならないことがある。
「覚えてる?」
アカネが聞く。キアラは頷いた。
「全部じゃない、でも」
頭へ手を当てる。まだ少し重い。だが確かに残っている。断片が。記憶が。
「コアは自然のものじゃない」
三人が黙る。
「誰かが作った、兵器みたいなもの」
サフィラの表情が険しくなる。予想はしていた。だが確定すると重みが違う。キアラは続ける。
「世界には流れがある、力の流れ、世界によって地脈とか龍脈とか呼ばれてる、そういうもの」
エドガーが頷く。聞いたことはある。この世界にも似た概念は存在する。
「コアはそこへ寄生してた」
「寄生?」
「うん」
キアラは目を閉じる。思い出す。夢の中で見た光景。巨大な黒い根。世界へ食い込む異物。
「力を吸ってた世界の力を」
部屋が静かになる。
「そして」
キアラの顔が険しくなる。
「吸った力をどこかへ送ってた」
「どこか?」
サフィラが聞く。キアラは首を振る。
「そこまでは、まだ分からない、見えなかったの、でも」
確信だけはある。
「主人がいる」
その言葉に。全員の表情が変わった。コアの上。さらに上。元凶。黒幕。それが存在する。
「名前は?」
アカネ。
「分からない」
「姿は?」
サフィラ。
「分からない」
「何者なんです?」
エドガー。
「それも分からない」
本当に断片しかない、だが一つだけ分かる。キアラはゆっくり顔を上げる。
「そいつは」
拳を握る。
「まだいる」
部屋の空気が重くなる。世界は救われた。この世界は。だが終わっていない。まだ何も終わっていない。そしてキアラは左腕を見る。 黒い紋様。以前より濃い。以前より強い。コアを取り込んだことで。
自分も変わった。身体も。能力も。そして目的も。アカネはそんなキアラを見ていた。静かに。少しだけ嬉しそうに。まるで成長した妹を見る姉のように。




