第61話 平和な日々
コア討伐から五日。町は変わっていた。目に見えて。はっきりと。変わっていた。まず静かだ。夜になっても怯える人がいない。門が閉まっても不安そうな顔をする者がいない。森からヴォイドが出てこない。それだけで人々の表情は明るくなる。商人も増えた。荷馬車も増えた。町全体に活気が戻り始めていた。そして。その変化を最も喜んでいるのは。
「神父様!」
「神父ー!」
「見て見て!」
子供たちだった。教会の中庭。エドガーは朝から大忙しである。以前よりも笑顔が増えた。それは孤児たちも同じだった。キアラが眠っていることは心配だ。だが生きている。それだけで十分だった。そんな中。アカネは縁側で昼寝をしていた。気持ち良さそうに。本当に気持ち良さそうに。
「アカネさん」
エドガーが声を掛ける。返事はない。寝ている。
「アカネさん」
もう一度。
「んー……」
まだ寝ている。エドガーは少し笑った。平和になったのだなと思う。以前なら。こんな無防備に眠ることなどなかっただろう。その頃。サフィラは教室にいた。
「では次の問題です」
黒板へ文字を書く。孤児たちが一斉に嫌そうな顔をした。
「えー」
「まだやるの?」
「やります」
即答だった。相変わらず容赦がない。
「文字を読めるということは武器です、算術も同じです、将来必ず役に立ちます」
真面目だった。とても。子供たちは不満そうだ。だがちゃんと聞いている。なぜなら。フィラは優しいからだ。厳しいけれど。優しい。それが伝わっている。だから皆好きだった。授業が終わる。昼過ぎ。サフィラが外へ出ると。そこにはアカネがいた。起きていた。
「珍しいな」
「起きた」
当たり前の返答だった。サフィラは苦笑する。
「町へ行くか」
「ん」
二人は歩き出した。石畳の道。市場。露店。人々。以前よりずっと賑やかだ。
「おお!」
肉屋の店主が気付く。
「英雄様じゃねえか!」
その一言で周囲が振り返った。
「あ!」
「本当だ!」
「アカネさん!」
「サフィラさん!」
あっという間だった。囲まれる。子供。商人。狩人。老人。皆笑っている。
「助かったよ!」
「ありがとう!」
「おかげで安心して暮らせる!」
感謝。感謝。感謝。アカネは少し困っていた。こういうのは苦手だ。サフィラも照れている。
「私は大したことは」
「しましたよ!」
即座に否定された。商人のおばちゃんである。
「アンタらがいなかったら終わってたんだから!」
サフィラが言葉に詰まる。アカネは少し笑った。そんな様子を見て。おばちゃんも笑う。
「仲良いねぇ」
その一言でサフィラが固まった。
「え?」
「恋人かい?」
「ぶっ」
盛大に吹き出した。サフィラだった。周囲が笑う。アカネは首を傾げた。
「?」
理解していない。サフィラは顔を押さえる。
「違います」
「本当に?」
「本当にです!」
必死だった。余計怪しい。周囲の笑い声が大きくなる。アカネはまだ分かっていない。
「なんで?」
「お前は黙ってろ!」
思わず叫んでしまった。さらに笑いが広がる。平和だった。本当に。驚くほど。平和だった。そして二人は市場を後にする。夕日が町を赤く染めている。帰り道。しばらく無言だった。やがて。アカネがぽつりと言った。
「恋人」
「言うな」
即答だった。
「なんで?」
「言うな」
耳が赤い。
アカネはじっと見る。
「サフィラ」
「なんだ」
「赤い」
「黙れ」
その返事に。アカネは少し笑った。珍しく。本当に少しだけ。それを見て。サフィラはため息を吐く。だが悪い気はしなかった。夕日を見ながら歩く。戦いのない帰り道。そんな時間が少しだけ心地良かった。
夜。教会の屋根の上。静かな風が吹いていた。町はもう眠り始めている。遠くに灯りが見える。穏やかな夜だった。サフィラは一人で座っていた。こういう時間は嫌いじゃない。何も考えなくていい。ただ風を感じていればいい。そう思っていた。
「いた」
聞き慣れた声。振り返る。アカネだった。屋根へひょいと登ってくる。相変わらず身軽だった。
「どうした」
隣へ座る。距離は近い。いつものことだ。
「話」
アカネが言う。
「珍しいな」
サフィラが笑う。基本的に話を振るのは自分の方だ。アカネから来ることは少ない。
「大事なことか?」
「たぶん」
たぶん。相変わらずだった。サフィラは苦笑する。そして。空を見上げた。
「聞こう」
アカネは少し黙る。考えている。言葉を選んでいる。珍しいことだった。本当に。珍しいことだった。
「考えた」
「ん?」
「返事」
サフィラが固まった。数秒。本当に数秒。思考が止まった。そして。
「今か!?」
思わず叫ぶ。アカネが頷く。
「今」
「今なのか!?」
「今」
真顔だった。サフィラは頭を抱えた。忘れていたわけではない。だがまさか今来るとは思わない。
ヴァルター邸。旅立ちの前。確かに言った。好きだと。同行したいと。その返事。今まで保留。ずっと保留そして。まさか今。このタイミングで来るとは思わなかった。
「……聞こう」
覚悟を決める。アカネが頷く。そして。少しだけ空を見る。星が綺麗だった。
「分からなかった」
最初の言葉はそれだった。
「好きとか、恋とか、そういうの」
サフィラは黙って聞く。
「今も分からない」
正直だった。アカネらしい。嘘がない。だから続きを待つ。
「でも」
アカネが言う。
「サフィラといるの好き」
サフィラの心臓が止まりそうになる。
「旅も楽しい、一緒にご飯食べるのも好き、話すのも好き、戦うのも」
一つずつ。本当に一つずつ。言葉を積み重ねる。
「サフィラがいないの」
少し考える。そして。
「嫌」
その一言だった。サフィラが目を閉じる。駄目だ。嬉しい。思った以上に嬉しい。
「だから」
アカネが続ける。
「たぶん好き」
たぶん。やっぱりそこは変わらない。サフィラが吹き出した。
「たぶんか」
「うん」
「そうか」
笑う。止まらない。こんな返事。普通ならどうかと思う。でもカネだから。これ以上ないくらい。アカネらしい返事だった。
「アカネ」
「ん」
「私はお前が好きだ」
真っ直ぐ言う。今度は迷わない。隠さない。
「知ってる」
アカネが答える。そして少しだけ。本当に少しだけ。サフィラの肩へ寄りかかった。サフィラが固まる。
「アカネ?」
「ん」
「これは?」
「好き」
即答だった。サフィラは顔を覆った。ずるい。本当にずるい。本人は何も分かっていない。そのくせ。一番効くことを平然とやる。
「参ったな……」
小さく呟く。アカネは首を傾げた。
「?」
「いや」
サフィラは笑う。そしてそっと頭を撫でた。白い髪。柔らかい。アカネも嫌がらない。静かな夜だった。戦いは終わった。世界は救われた。それでも旅は続く。きっとまた戦う。苦しいこともある。悲しいこともある。それでも。今だけは。この時間を大切にしたかった。遠く。教会の一室。眠る少女がいる。まだ目覚めない。だが。もうすぐだ。きっと。もうすぐ目を覚ます。二人はまだ知らない。キアラが世界の真実の一端を持って帰ってくることを。




