第54話 出発前夜
応接室に静寂が落ちる。机の上には地図。エドガーの指先は森の最奥を示したままだ。誰も口を開かない。だが全員が同じことを考えていた。ついに見つけた。コアを。アカネは地図を見つめていた。長かった。
「行く?」
キアラが聞く。アカネは頷いた。
「行く」
迷いはない。サフィラも同じだった。
「行くしかないな」
エドガーは三人を見た。そして苦笑する。聞くまでもなかった。止めても行く。それが分かっている。
「なら」
エドガーは椅子にもたれた。
「明日は休みなさい」
三人が目を瞬かせる。
「準備の日です、体調管理も仕事ですよ」
キアラが不満そうな顔をした。
「訓練は?」
「禁止です」
「えぇ!?」
「禁止です」
二回言った。完全に教師の顔だった。サフィラが笑う。
「諦めろ」
「納得いかない」
「休むのも大事なことだ」
「サフィラまで!」
少しだけ笑いが起こる。だが皆分かっている。これが最後になる。少なくとも。この世界での最後の戦いだ。その夜アカネは眠れなかった。珍しいことだった。教会の屋根。夜風が吹く。星が見える。
「起きていたか」
サフィラだった。当然のように隣へ座る。もう慣れている。
「ん」
アカネが頷く。
「眠れない?」
「少しな」
サフィラは驚かなかった。むしろ当然だと思った。コア。世界。命運。背負うには大きすぎる。それをアカネはずっと背負ってきた。
「珍しいな」
「ん」
「緊張しているのか」
少し考える。そして。
「違う」
「なら?」
アカネは空を見る。
「怖い」
サフィラが黙る。アカネからその言葉を聞くのは珍しかった。
「失敗したら」
アカネが言う。
「この町も終わる」
教会。孤児たち。エドガー。キアラ。全部失うかもしれない。その可能性を考えている。サフィラは静かに聞いていた。そして。不意にアカネの頭を軽く叩く。
「いたい」
「当たり前だ」
「?」
「一人で背負うな」
サフィラは少し笑った。
「何度言わせる、今回は私もいる」
アカネを見る。
「キアラもいる、エドガーもいる、ロバートもいる、お前一人の戦いじゃない」
アカネが少し黙る。そして。小さく笑った。
「そうだった」
「そうだ」
サフィラも笑う。その表情はどこか柔らかかった。あの頃とは違う。もう隣に立てる。もう守られるだけじゃない。それが嬉しかった。その頃。二階の部屋。キアラも眠れていなかった。ベッドの上。左腕を見る。リリ。黒い紋様。
「最後だね」
小さく呟く。返事はない。だが脈打つ。ゆっくりと。静かに。キアラは笑った。
「頑張ろう」
それだけだった。怖い。不安もある。でも戦う理由がある。守りたい人がいるだから行く。翌朝。一の鐘が鳴る。教会の朝。子供たちはまだ何も知らない。いつも通り起きて。いつも通り朝食を食べる。いつも通り笑っている。だがアカネたちは知っている。今日が出発の日だ。そしてこの戦いが終われば。
この世界の運命も決まる。その終着点が。もう目の前まで来ていた。
教会の前。荷物は最小限。アカネはいつも通り。サフィラも旅装束。キアラも新しく仕立ててもらった服を着ている。
「本当に行くんだね」
年下の孤児が不安そうに言う。
「行くよ、でもすぐ帰ってくる」
その言葉に。子供たちは少し安心したようだった。そして。エドガーが前へ出る。
「皆心配しなくて大丈夫です、この三人は強い」
その言葉に。アカネとサフィラが顔を見合わせる。キアラだけは少し照れていた。
「神父様」
「何ですか?」
「無理しないでね」
キアラが言う。
エドガーは笑った。
「それはこちらの台詞です」
そして。少しだけ真面目な顔になる。
「私は町に残ります」
それは最初から決まっていた。戦えないわけではない。元兵士だ。一般人より遥かに強い。だがコアとの戦いについていけるほどではない。本人も理解していた。
「だから、私に出来ることをします」
手紙。情報。説得。人脈。今のエドガーにはそれがある。軍。議員。商会。警備隊。退役軍人。教会関係者。ありとあらゆる伝手を使っていた。だが状況は簡単ではない。コアという存在は知られていない。ヴォイドは知られている。だがその根源。世界を侵食する存在。それを信じる人間は少ない。だから時間が掛かる。理解させる時間。説得する時間。戦力を集める時間。どうしても必要だった。
「必ず間に合わせます」
エドガーが言う。
「だから、それまで生きていてください」
アカネが頷く。
「ん」
サフィラも笑う。
「任せろ」
キアラも胸を張った。
「頑張る!」
その後。三人は町を出発した。北へ。街道を進む。森を抜ける。そして。夕方。見えてきた。北の砦。
ロバートたちが守る最前線。見張りが三人に気付く。
「来たぞ!」
声が響く。門が開く。ロバート本人も出てきた。
「待っていた」
その顔には疲労があった。ここ最近休めていないのだろう。
「状況は」
サフィラが聞く。ロバートが頷く。
「悪い」
即答だった。砦へ入りながら説明する。
「ヴォイドの動きが増えている」
「偵察も増えた」
「大型種も確認されている」
そして。一枚の地図を広げる。
「だが」
指差す。森の最奥。
「ここにはまだ近付けていない」
コア周辺。完全に防衛線が構築されている。まるで。何かを守るように。何かが生まれるのを待つように。アカネの目が細くなる。
「準備してる」
「俺もそう思う」
ロバートが頷いた。そして。三人は砦で待機することになる。戦力が揃うまで。決戦のために。数日後。各地から少しずつ人が集まり始めた。軍人。警備隊。傭兵。狩人。退役軍人。数はまだ少ない。
だが確実に増えている。エドガーの手紙が効き始めていた。その夜。砦の壁の上。アカネは森を見ていた。遥か北。見えない場所。コアがいる。そして何かがいる。嫌な予感が消えない。
「気になるか」
隣へサフィラが来る。
「うん」
アカネが答える。
「なんかいる」
短い言葉。だがサフィラも同じ感覚だった。ワイバーンとは違う。大型種とも違う。もっと危険な何か。それが森の奥で待っている。そして。その頃。森の最奥。コアの根が蠢く。巨大な繭。山のような大きさ。その表面に亀裂が走った。ゆっくりと。本当にゆっくりと。中の何かが目を開こうとしていた。決戦の日は近い。もう後戻りは出来なかった。




