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第53話 ただいま



 町が見えたのは夕方だった。石畳の道。煉瓦造りの建物。煙突から立ち上る煙。夕日に染まる街並み。初めて訪れた時よりもずっと懐かしく感じる。


「帰ってきた!」


 キアラが嬉しそうに声を上げる。そして駆け出そうとして。


「待ちなさい」


 後ろから声が飛んだ。エドガーだった。キアラがぴたりと止まる。


「えー」


「えー、ではありません」


「もう町だよ?」


「だからです」


 エドガーは呆れたようにため息を吐いた。


「最後の最後で怪我をする人間もいるんですよ」


「そんなのしないもん」


「貴方はします」


 アカネがぽつりと言った。


「する」


「アカネまで!?」


 サフィラも頷く。


「するな」


「ひどい!」


 四対一だった。キアラは不満そうに唇を尖らせる。だが歩幅は少し落ちた。その様子にサフィラが笑う。


「親だな」


 エドガーが苦笑した。


「否定はしません」


 キアラは一年前。森で瀕死だった少女だ。気付けば叱り。気付けば心配し。気付けば見守っていた。親ではない。だがそれに近い感情は確かにあった。やがて。教会へ辿り着く。古い石造りの建物。見慣れた扉。そして中から声が聞こえた。


「神父様だ!」


「帰ってきた!」


 次の瞬間。扉が勢いよく開く。孤児たちが飛び出してきた。


「神父様!」


「おかえりなさい!」


「ただいま戻りました」


 エドガーの表情が柔らかくなる。年長の子供たちも。年少組も。みんな集まってくる。そして一拍遅れて。


「キアラ!」


「おかえり!」


「生きてた!」


「それ失礼じゃない!?」


 キアラが叫ぶ。だが顔は笑っていた。小さな女の子が抱きついてくる。男の子が腕を掴む。あっという間に囲まれた。


「ワイバーン倒したって本当!?」


「倒した!」


「空飛ぶやつ!?」


「飛んでた!」


「すごい!」


 目が輝いている。キアラもまんざらではない。胸を張っている。その様子を見てアカネが小さく笑った。


「人気者」


「だな」


 サフィラも頷く。その後ろでは。


「アカネさん!」


「サフィラ先生!」


 年長の子供たちが頭を下げていた。二人も今や教会の恩人だ。特にサフィラは授業を手伝っていたため子供たちにも慕われている。


「ただいま」


 アカネが言う。その言葉に自分でも少し驚いた。ただいま。今は自然に口から出た。夕食は少し豪華だった。パン。スープ。干し肉。それに少しだけ肉料理。戦勝祝いらしい。


「今日だけですよ」


 エドガーが釘を刺す。


「やったー!」


 子供たちが歓声を上げる。完全に甘やかしていた。


「甘いな」


 サフィラが笑う。


「否定できません」


 エドガーも苦笑した。


「皆頑張りましたから」


 その言葉に誰も反論できない。アカネは相変わらず大量に食べていた。子供たちが引くほど。


「アカネってどこに入るの?」


「分からない」


 本人も分からないらしい。夜。子供たちが寝静まった後。教会の中庭。アカネとサフィラがベンチへ座っていた。空には星。静かな夜だった。


「キアラは伸びているな」


 サフィラが言う。


「うん」


 アカネも頷く。


「思ったより早い」


「才能か」


「それもある」


 アカネは少し考える。そして。


「守りたいものがある」


 そう言った。教会。孤児たち。エドガー。この町。キアラには戦う理由がある。それが強さになっている。サフィラは少し微笑んだ。


「それはお前も同じだろう」


 アカネが首を傾げる。


「守りたいから戦っている」


 しばらく考える。そして。


「そうかも」


 少し照れたように答えた。その頃。二階の部屋。キアラは左腕を見つめていた。リリ。身体の中を巡る黒い糸。捕食。吸収。再構築まだ分からないことだらけだ。だが。確実に前へ進んでいる。


「もっと出来るよね」


 左腕へ話しかける。返事はない。だが黒い紋様が微かに脈打った。肯定するように。キアラは笑う。


「じゃあ頑張ろう」


 その頃。遥か北。森の最奥。コアもまた静かに変化を続けていた。大量の根。肉塊。黒い繭。その中心で。何かが形を作り始めている。学習の集大成。決戦のための存在。最後の敵が。静かに産声を上げようとしていた。

 それから数週間。町には束の間の平和が訪れていた。もちろんヴォイドが消えたわけではない。森へ入れば今でも遭遇する。だが大規模な襲撃はない。まるで嵐の前の静けさだった。その時間を無駄にする者は一人もいない。皆それぞれ準備を進めていた。朝。教会の鐘が鳴る。一の鐘。子供たちが起きる。朝食。祈り。掃除。洗濯。いつも通りの日常。そして午前中。アカネは相変わらずだった。中庭のベンチ。

ぽかぽかの日差し。昼寝。完全に昼寝である。


「アカネさん」


 エドガーが声を掛ける。


「んー、眠い」


 エドガーが頭を抱えた。


 その教室では。


 サフィラが黒板代わりの板へ文字を書いている。


「次は算術だ」


 子供たちが悲鳴を上げた。


「えぇー!」


「嫌だ!」


「逃げるなー」


 サフィラが笑う。今ではすっかり先生役が板についていた。そして午後。子供たちが仕事へ出る。

手紙配達。雑用。裁縫。教会を支える大切な仕事だ。その時間。キアラは森にいた。アカネと一緒に。


「もう一回」


 アカネが言う。


「うん!」


 キアラが拳を握る。地面を蹴る。踏み込み。拳。アカネは最小限の動きで避ける。


「大きい」


「またそれ!」


 最近何度も言われている。


「大振り、力みすぎ、隙多い」


 キアラが唸る。だが以前より改善している。それはアカネも認めていた。


「前なら今ので転んでた」


「ほんと?」


「ほんと」


 少しだけ嬉しくなる。だが課題はまだ残る。


「リリ」


 アカネが言う。


「うん」


「使って」


 キアラが目を閉じる。意識する。身体の中。黒い糸。神経のようなもの。最近少しだけ感じられるようになった。そして。拳を握る。以前より自然に。以前より滑らかに。身体が動く。


「おっ」


 アカネが少し驚く。今のは良かった。確実に。リリとの同化が進んでいる。そして。別の日。森の中。キアラは捕食の練習もしていた。討伐したヴォイド。小型種。その死骸へ左腕を向ける。黒い装甲が変形する。巨大な口。鋭い牙。異形の捕食器官。以前よりスムーズだった。迷いも少ない。噛み付く。吸収する。取り込む。そして。身体の中へ情報が流れ込む。少しずつ。本当に少しずつ。リリの力を理解し始めていた。夕方。教会へ戻る。そこにはサフィラもいる。最近は氷翼の訓練をしていた。教会近くでは危険なので。町から離れた湖畔だ。


「どうだ」


 サフィラが聞く。


「少し分かった」


 キアラが答える。サフィラは頷いた。そして。


「私もだ」


 空を見る。氷翼。ユルムガンドの魔力。最初より遥かに扱えるようになっていた。空中機動。氷槍。氷刃。近接戦。磨き続けていた。そして夜。エドガーが教会へ戻る。最近忙しい。昔の伝手を総動員しているからだ。軍。警備隊。商会。情報屋。ありとあらゆる人脈。そして。その日。エドガーの表情は少し違っていた。夕食後。子供たちが寝静まった頃。アカネ。サフィラ。キアラ。三人が呼ばれる。応接室。ランプの灯り。エドガーが一枚の地図を広げた。


「見つかりました」


 その一言で空気が変わる。アカネの目が細くなる。サフィラも真顔になる。キアラも息を呑んだ。


「おそらく、コアです」


 エドガーが地図の一点を指差した。北。さらに北。人が滅多に近付かない大森林の最奥。


「確証はありません。ですが、おそらくここです」


 静寂。誰も喋らない。そして。アカネが小さく呟く。


「やっと」


 その声には。長い旅の重みがあった。エドガーが続ける。


「問題はもう一つあります」


 三人が顔を上げる。


「この周辺で」


 エドガーの表情が険しくなる。


「巨大な影を見たという報告が相次いでいます」


 巨大な影。ワイバーンではない。それより大きい。それより危険な何か。アカネは理解した。コアだ。

準備を終えたのだ。こちらと同じように。決戦の準備を。そして。最後の戦いが。ゆっくりと近付いていた。



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