第51話 食べるということ
ワイバーンは倒れていた。まだ生きている。だが動けない。喉は潰れ。翼は切られ。立ち上がる力も残っていない。苦しそうな呼吸だけが続いている。キアラも肩で息をしていた。
「はぁ……はぁ……」
勝った。それは分かる。だが終わっていない。左腕が熱い。今までで一番強く。リリが脈打っていた。ドクン。ドクン。ドクン。まるで心臓が二つあるみたいだった。
「リリ?」
問いかける。返事はない。だが感覚は流れ込んでくる。欲しい。取り込みたい。喰いたい。理解したい。そんな衝動。キアラは思わず一歩下がった。
「え」
怖かった。その感覚が。あまりにも自然だったから。悪意じゃない。怒りでもない。ただお腹が空いたから食べる。それと同じ。あまりにも当たり前の感覚。だから余計に怖い。
「……これが」
森でヴォイドを喰っていた存在。あれが見ていた世界。その一端を理解してしまった。その時だった。
ワイバーンが僅かに動く。苦しそうに。逃げようとする。それを見て。リリが反応した。ドクン。強く脈打つ。そしてキアラの左腕が変化した。
「えっ!?」
黒い装甲。黒い触手。黒い牙。今まで見たことのない形。ナスクとも違う。武器でもない。捕食器官。
そんな言葉が頭に浮かぶ。アラは理解した。リリは選択肢を示している。喰うか。喰わないか。決めるのは自分だと。その瞬間。
「キアラ!」
聞き覚えのある声。サフィラだった。屋根を飛び越えて降りてくる。周囲のワイバーンは既に片付いたらしい。少し遅れてロバートたちもやって来る。
「無事か!」
「うん!」
キアラが慌てて左腕を戻す。だがサフィラは見逃さなかった。今の変化を。そして倒れているワイバーンを見る。喉を破壊されている。見事だった。
「倒したのか」
「倒したよ」
キアラが少し誇らしげに言う。サフィラは笑った。
「大したものだ」
褒められると嬉しい。だがキアラの表情はどこか曇っていた。アカネなら気付いただろう。サフィラも気付いた。
「何があった」
小さく聞く。キアラは少し迷う。そして。
「リリが、食べたがってた」
サフィラの表情が僅かに変わる。予想はしていた。だが実際に来たか。
「そうか」
短く答える。キアラが不安そうに聞く。
「変かな」
「いや」
サフィラは首を振る。
「むしろ自然だろう」
「自然?」
「それもリリの本質なのだろう」
捕食。吸収。再構築。アカネから聞いていた情報。そして今回の戦闘。全部繋がる。
「食べるのも仕事みたいなものだ」
「でも、なんか嫌」
キアラがワイバーンを見る。正直な感想だった。サフィラは少し笑った。
「なら今は食べるな」
「え?」
「決めるのはお前だ」
その言葉に。キアラは目を瞬かせる。
「力に使われるな、力を使え、アカネならそう言う」
思わず笑ってしまった。確かに言いそうだった。その時遠くから兵士の歓声が聞こえる。空を見上げる。残っていたワイバーンたちが撤退していた。アカネがやったのだろう。コアもまた逃げたらしい。今回も取り逃がした。だが得たものもある。キアラは左腕を見る。リリ。少しだけ分かった気がした。リリは武器じゃない。鎧でもない。ただの怪物でもない。もっと根本的な何かだ。そしてその理解はまだ始まったばかりだった。森の奥。撤退するコア。観測結果更新。対象。キアラ・ハーリー。危険度上昇。
炎有効。飛行有効。だが。新たな情報追加。捕食能力確認。再解析開始。コアは学習を続ける。
そしてアカネはそのさらに奥で木の幹に腰を預けながら小さく呟いた。
「また逃げた」
少しだけ不満そうに。しかし。焦りはなかった。今度は自分一人じゃない。だから。次こそは仕留める。そんな確信があった。ワイバーン襲撃から二日。砦には再び平穏が戻っていた。もちろん本当の意味での平穏ではない。コアは生きている。ヴォイドもいる。ただ次の嵐までの静けさに過ぎなかった。その日の夕方。キアラは砦の裏手にいた。一人で。左腕を見つめている。
「捕食かぁ……」
ぽつりと呟く。あの日。ワイバーンを倒した後。リリは確かに喰いたがった。あれが本能だとしたら。避けては通れない気がしていた。
「でもどうやるんだろ」
その時。
「試してみればいい」
後ろから声がした。アカネだった。サフィラもいる。
「試す?」
「うん」
アカネが頷く。その手には小さなヴォイドの死骸。兵士が討伐したものらしい。
「え」
「リリの力、知りたいんでしょ」
キアラは死骸を見る。少し嫌だった。だが知りたい気持ちもある。
「どうすればいいの」
アカネは肩を竦めた。
「私も知らない」
「役に立たないね」
「うん」
堂々と認めた。サフィラが笑う。キアラは少し迷った。そして。死骸の前へ座る。左腕を見る。
「リリ」
呼ぶ。返事はない。だが反応はあった。黒い紋様が脈打つ。ドクン。ドクン。ドクン。そしてキアラは思い出す。あの時の感覚。喰う。吸収する。取り込む。その本能。それを意識する。すると左腕が変化した。黒い装甲が蠢く。腕が膨らむ。形を変える。そして先端が開いた。
「うわっ」
キアラが思わず声を上げる。まるで巨大な口だった。鋭い牙が並んでいる。生物の顎のようにも見える。だが人間のものではない。異形。その一言だった。
「なるほど」
サフィラが興味深そうに眺める。
「捕食器官か」
キアラも見つめる。怖い。でも嫌ではない。不思議な感覚だった。
「食べる?」
アカネが聞く。
「うん」
キアラが頷く。巨大な口がヴォイドの死骸へ伸びる。そして噛みついた。バキン。骨が砕ける。肉が裂ける。黒い靄が溢れる。次の瞬間。それら全てが口の中へ吸い込まれた。消える。本当に消えた。死骸が跡形もなく。
「え」
キアラが目を見開く。その直後。情報が流れ込んできた。筋肉。骨格。戦闘方法。感覚。一瞬。本当に一瞬だけ。そのヴォイドだったものを理解した気がした。
「っ」
頭を押さえる。痛いわけではない。ただ。情報量が多い。
「大丈夫?」
「うん……」
キアラが息を吐く。そして。自分の拳を見る。握る。少しだけ。本当に少しだけ。強くなった気がした。
「これが」
捕食。吸収。再構築。リリの本質。その力だった。アカネは満足そうに頷く。
「使えそう?」
「使えると思う」
キアラが答える。だが。同時に理解していた。この力は危険だ。便利だからこそ。頼りすぎたらまずい。
「良い顔してる」
アカネが言う。
「え?」
「ちゃんと考えてる顔」
キアラは少し照れた。その時。砦の見張り台から声が響く。
「伝令!」
全員が振り向く。馬が来ている。全力疾走で。そして。伝令兵は叫んだ。
「北方第二監視所が壊滅!」
場の空気が凍り付く。
「大型ヴォイド出現!生存者は僅か!」
アカネも。サフィラも。表情を引き締めた。どうやら。コアは次の手を打ってきたらしい。




