第49話 届く拳
翌朝。砦の中庭。いつもの訓練場だった。兵士たちも仕事の合間に集まっている。最近ではちょっとした見世物になっていた。
「今日は元気そうだな」
ロバートが言う。
「元気!」
キアラが答える。実際元気だった。昨日までの重苦しさがない。身体も軽い。不思議なくらい軽い。
「食料庫も元気だったらしい」
サフィラが言う。兵士たちが吹き出した。キアラの顔が赤くなる。
「ち、違うもん!」
「パン四つ、干し肉二袋、スープ三杯」
アカネが指を折りながら数える。
「全部食べた」
「なんで知ってるの!?」
「エドガーが言ってた」
キアラは頭を抱えた。兵士たちの笑い声が広がる。エドガーは遠くでため息を吐いていた。
「さて訓練だ」
サフィラが前へ出る。キアラの表情が変わる。真面目な顔。拳を握る。
「来い」
サフィラが構える。武器は持たない。純粋な体術。キアラも拳を構えた。そして踏み込む。速い。以前より明らかに。だがサフィラから見ればまだ見える。躱す。いつも通り。のはずだった。
「ん?」
サフィラの目が僅かに細くなる。キアラの動き。何かが違う。拳が来る。躱す。さらに拳が来る。躱す。そこで気付く。無駄が減っている。筋肉の動き。重心移動。身体の使い方。昨日より明らかに良い。
「なるほど」
サフィラが呟く。キアラ自身は気付いていない。だがリリとの同化が始まっている。神経。筋肉。骨格。それらの制御精度が上がっている。
「もっとだ」
サフィラが言う。キアラが踏み込む。拳。蹴り。肘。連撃。その速度が少しずつ上がる。兵士たちも気付いていた。
「速くなってないか?」
「なってるな」
「昨日より明らかに強いぞ」
ロバートも腕を組む。戦闘経験豊富な彼だからこそ分かる。あれはただの身体能力向上ではない。身体の使い方そのものが変わっている。そして。
「もう一回」
キアラが踏み込む。その瞬間だった。身体の中の黒い糸。昨夜感じたもの。それへ無意識に意識が向く。ほんの一瞬。本当に一瞬だけ。すると。脚が動いた。いつもより深く。いつもより強く。地面を蹴る。次の瞬間。サフィラの目が見開かれた。
「っ」
拳が。届いた。頬を掠める。本当に掠めただけ。だが当たった。今まで一度も届かなかった攻撃が。初めてサフィラへ届いた。静寂。兵士たちも固まる。キアラ自身も固まる。
「え?」
自分が一番驚いていた。サフィラがゆっくり頬を触る。赤くなっている。僅かに。だが確かに。
「へぇ」
笑った。嬉しそうに。本当に嬉しそうに。
「今のは良かった」
キアラが目を丸くする。
「当たった?」
「掠った」
「当たった?」
「掠ったんだ」
「当たった!」
「あぁ、そうだな」
サフィラが認めた。その瞬間。兵士たちから歓声が上がる。
「おおおおお!」
「初めてじゃないか!」
「やったなキアラ!」
キアラも思わず笑う。嬉しかった。本当に。だがアカネは別のところを見ていた。
「見えたか?」
サフィラが聞く。
「うん」
アカネは頷く。今の一瞬。キアラの身体の中。黒い何かが動いた。リリ。間違いない。
「始まった」
アカネが言う。
「始まったな」
サフィラも頷く。キアラはまだ理解していない。だが確実に前へ進んでいる。左腕を使うのではない。リリを纏うのでもない。リリと共に動く。その第一歩だった。
訓練が終わった頃には昼になっていた。兵士たちは持ち場へ戻り。ロバートも報告書と格闘している。
キアラはまだ興奮していた。
「見た!?見た!?当たったよ!」
「掠った」
アカネが訂正する。
「当たった!」
「掠った」
サフィラまで加わる。
「二人とも酷い!」
キアラが抗議する。だが顔は笑っていた。嬉しいのだ。初めてサフィラへ攻撃が届いた。それだけで十分な成果だった。
「でも」
キアラが少し真面目な顔になる。
「なんか変だった」
「変?」
アカネが聞く。キアラは自分の胸を押さえた。
「身体が勝手に動いた感じ」
サフィラとアカネが顔を見合わせる。予想通りだった。
「勝手じゃない」
アカネが言う。
「え?」
「リリを使おうとした」
キアラは少し考える。そして頷いた。確かに。あの瞬間。身体の中の黒い糸を意識した。
「それだ」
サフィラも言う。
「今までのお前はリリへ命令していた」
「命令?」
「鎧になれ、腕を変形しろ、そういう使い方だ」
キアラも理解できた。確かにそうだ。
「だが今のは違う」
サフィラが続ける。
「リリがお前を反射で補助した」
「補助……」
キアラは自分の手を見る。握る。開く。何も変わらない。だが確かに何かが違う。その時だった。
ゴォォォォン!!
警鐘が鳴った。砦中に響く。全員の顔色が変わる。
「敵襲!」
兵士の声。ロバートが飛び出してくる。
「どこだ!」
壁の上から叫び声が返ってくる。
「空です!」
その一言で。全員が空を見上げた。青空。そして黒い点。一つ。二つ。三つ。いやもっといる。徐々に大きくなる。翼。長い尾。巨大な影。
「飛んでる……」
キアラが呟く。兵士たちもざわつく。今までのヴォイドとは違う。地上じゃない。空だ。
「初めて見るな」
ロバートが顔をしかめる。アカネの目が細くなる。嫌な感じがした。とても嫌な感じが。やがて。先頭の個体が姿を現した。巨大な翼。鋭い爪。長い首。まるで竜。だが本物ではない。ヴォイドだ。
「ワイバーン?」
サフィラが呟く。キアラはその姿を見ていた。次の瞬間。先頭のワイバーンが口を開く。喉が赤く光る。アカネの表情が変わった。
「避けて!」
叫ぶ。直後。炎が放たれた。轟音。火柱。砦の壁へ直撃する。
「なっ!?」
兵士たちが驚愕する。爆発。熱風。石壁が砕ける。空を飛ぶだけではない。遠距離攻撃まで持っている。
「面倒だな」
サフィラが呟く。だがアカネはワイバーンを見ていた。いやワイバーンが見ている方向を。その視線は。砦全体ではない。兵士たちでもない。サフィラでもない。真っ直ぐ。キアラへ向いていた。
「……あ」
アカネは理解する。コアの差し金だ。これは偶然じゃない。狙っている。学習した。何かを学習して。こいつらを作った。
「キアラ」
アカネが振り返る。
「中へ入って」
「え?」
「早く!」
珍しく強い口調だった。キアラも驚く。その時。二体目のワイバーンが口を開いた。赤熱する喉。
燃え上がる炎。そして。今度は明らかだった。狙いは。キアラだった。




