第48話 ヒント
その日の夕方。砦の食堂。夕食を終えた兵士たちが談笑している。キアラもいつもの席に座っていた。
だが今日は少し静かだった。
「考えてる?」
アカネが言う。
「考えてる」
即答だった。珍しい。いつものキアラなら食事中も喋り続ける。だが今日は違う。リリ。同化。もっと知れ。もっと繋がれ。アカネとサフィラの宿題が頭から離れない。
「分からないよ~」
キアラが唸る。
「知ってる」
アカネが答える。キアラが頬を押さえた。そんなに分かりやすいのだろうか。その時。
「少し時間をもらえますか」
エドガーが声を掛けた。二人が振り向く。エドガーは椅子を引いて座った。珍しい。何か話があるらしい。
「キアラ」
「はい」
「少し話をしましょう」
キアラが首を傾げる。アカネとサフィラは何となく察した。これは説教ではない。講義だ。
「人間の身体は面白いものです」
エドガーが話し始める。
「例えば筋肉、例えば神経」
キアラが頷く。
「人は身体を百パーセント使えていると思いますか?」
「全部使えてるんじゃないの?」
「実は違います」
キアラが少し驚く。
「怪我をした時を想像してください」
「うん」
「痛くても走れたことは?重い物を持てたことは?普段なら出来ないことを出来たことは?」
「聞いたことはあります、危ない時にうんと重いものを持ち上げたとか」
エドガーが頷く。
「つまり身体には余力があるだが、普段は使わない、壊れるからです」
キアラは真面目に聞いていた。珍しい。サフィラが少し感心する。
「神経もそうです」
エドガーが続ける。
「筋肉もそうです」
「身体は思った以上に複雑で、思った以上に無駄が多い、そして」
そこでキアラを見る。
「お前の左腕もそうです」
キアラが左腕を見る。リリ。
「神父様はリリのこと知ってるの?」
「少しだけ」
エドガーは笑う。
「ですが一つだけ言える」
「何?」
「お前はまだリリを腕だと思っている」
キアラが固まった。それは。サフィラが言っていたことと似ていた。
「違うの?」
「違うかもしれない」
エドガーは答える。
「逆に聞きます」
「うん」
「左腕だけがリリですか?」
沈黙。
キアラが考える。
「左腕だよ?」
「本当に?」
エドガーが笑う。
「では何故あの黒い怪物はお前へ戻ったのでしょう」
「それは」
「何故お前の身体まで強化されたのでしょう」
「……」
「何故お前はリリの状態が何となく分かるのでしょう」
答えられない。キアラは黙る。
「私は医者ではありません、研究者でもありません」
エドガーは肩を竦めた。
「ですが、もしかすると、リリは左腕だけではないのかもしれません」
静かな言葉だった。キアラは完全に考え込んでいた。左腕だけじゃない。全身。神経。筋肉。骨。血。
もしそうだとしたら。今までの考え方そのものが変わる。
「まあ」
エドガーは立ち上がる。
「後はお前が考えなさい」
「え?」
「答えを教える気はありません」
キアラが不満そうな顔をする。だがエドガーは笑った。
「それに、アカネさんとサフィラさんも同じ考えでしょう?」
サフィラが少し驚く。そして苦笑した。
「見抜かれていたか」
「ええ」
エドガーも笑う。
「二人とも答えを教えるつもりはない、自分で見つけさせる気でしょう」
アカネが頷く。
「その方が強くなる」
「その通り」
エドガーも同意した。そして。少しだけ遠くを見る。
「我ながら甘いですね」
ぽつりと呟いた。
「本来ならもっと厳しくするべきでしょうに、結局手を貸してしまう」
「親みたいなものだからな」
サフィラが笑う。
エドガーが苦笑した。
「否定できません」
「本当に甘い方だ」
サフィラも笑う。
「私ならもっと早く叩き出している」
「それはそれで問題だ」
アカネが言う。三人が少し笑った。その間キアラだけは考えていた。左腕を見る。握る。開く。そして初めて思う。もしリリが左腕じゃなかったら?もしもっと広がっているなら?もし全身だったら?
その瞬間左腕の紋様が僅かに脈打った。まるでその考えを肯定するように。誰にも気付かれないほど小さく。静かに。
その日の夜。キアラは眠れなかった。ベッドの上。天井を見上げる。隣の部屋からは兵士たちの話し声が聞こえる。静かな夜だった。だが頭の中は全く静かではない。
「左腕だけじゃない……」
ぽつりと呟く。エドガーの言葉。アカネたちの宿題。全部繋がっている。キアラはゆっくり左腕を持ち上げる。月明かり。黒い紋様が見える。
「リリ」
呼ぶ。返事はない。いつも通りだ。だが今までとは違う気持ちで見ていた。左腕じゃない。もっと広い。もっと大きい。そう考えてみる。そしてふと気付く。
「私、なんでナスク使えるんだろ」
今さらだった。だが重要だった。ナスク。全身鎧。あれは左腕だけではない。肩も。胸も。背中も。足も。全部覆う。なら最初からリリは全身へ伸びていたのではないか。
「……あ」
そこで初めて。何かが繋がった。キアラは目を閉じる。左腕を意識する。今まではそこだけだった。
そこだけを見ていた。だが今日は違う。肩。首。胸。背中。腹。脚。指先。全身を意識する。すると。
微かな感覚があった。何かがいる。身体の中に。ずっと前から。当たり前のように。そこに血管のように。神経のように。全身へ広がっている。
「……リリ?」
その瞬間。左腕の紋様が淡く光った。びくりと身体が震える。だが痛みはない。むしろ逆だった。暖かい。安心する。そんな感覚。キアラはさらに集中する。そして初めて見えた。黒い糸のようなもの。身体の中を走る無数の線。腕から肩へ。肩から胸へ。胸から全身へ。まるで第二の神経。第二の血管。そんなものが存在している。
「え……」
思わず声が漏れた。ずっとあった。ずっと自分の中に。気付いていなかっただけで。そして。その黒い糸へ意識を向ける。すると。身体が軽くなった。ほんの少し。本当に少しだけ。だが分かる。筋肉が動く。いつもより滑らかに。いつもより自然に。まるで身体が自分のものじゃないくらい。
「そういうこと……?」
リリは左腕じゃない。左腕から始まっただけ。今はもう違う。全身へ広がっている。だから。黒い怪物は戻れた。だから。自分自身も強くなった。だからあの時。力が流れ込んだ。全部繋がる。その時だった。ぐうぅぅ。腹が鳴った。キアラが固まる。
「え?」
次の瞬間。猛烈な空腹が襲ってきた。立てないほどではない。だが明らかに異常だった。
「な、なにこれ」
昼に食べた。夕食も食べた。それなのに。腹が減る。信じられないほど。身体の奥が。何かを求めている。食べたい。もっと。もっと。もっと。その感覚にキアラは少しだけ怖くなった。しかし。同時に理解する。
「成長してる……?」
身体が。リリが。変わっている。そして。変化にはエネルギーがいる。それは当たり前のことだった結局。その夜。キアラは食堂へ忍び込み。パンを四つ。干し肉を二袋。スープを三杯。平らげた。
翌朝。
「何故食料庫が荒らされているんですか」
エドガーが頭を抱えた。キアラは目を逸らした。アカネは笑った。サフィラも笑った。そして。その日の訓練で。初めて変化が現れる。キアラ自身も予想していなかった形で。




