第44話 試したいこと
森の中は静まり返っていた。調査隊の痕跡。大量のヴォイドの死骸。そして生き残りの兵士。その全てが異常だった。
「黒い怪物だ」
兵士の震える声が森に響く。隊長が顔をしかめる。アカネは黙っていた。サフィラは少し考えていた。
やがて。
「試してみたいことがある」
そう言った。アカネが顔を向ける。
「何?」
「仮説だ」
サフィラは周囲の死骸を見る。
「もしあの怪物に殺意がないのなら、こちらから攻撃しなければ戦闘にならないかもしれない」
隊長が眉をひそめた。
「危険では?」
「危険だとも」
サフィラは認める。
「だが昨日の戦闘を思い出してほしい、兵士たちが先に攻撃した、怪物は反撃した、しかし誰も殺していない」
確かにそうだった。あれだけの力がある。本気なら死者が出ていた。
「偶然ではないと思う」
サフィラが言う、アカネも頷いた。
「私も」
「多分そう」
隊長はしばらく考えていた。そして。
「なるほど」
小さく頷く。納得したらしい。
「ですが」
今度は隊長の顔になる。
「兵士を巻き込むわけにはいきません」
責任者の顔だった。アカネは少しだけその人を見た。まだ若い。三十代前半くらいだろうか。疲れた顔をしているが。ちゃんと隊長だった。
「名前聞いてなかった」
アカネが言う。隊長が少し意外そうな顔をする。
「ロバートです」
「ロバート隊長」
「はい」
「真面目」
「褒め言葉として受け取っておきます」
少しだけ笑った。その後。ロバートは立ち上がる。
「全員聞け」
兵士たちが振り向く。
「生存者を連れて砦へ帰還する、副官に指揮を委ねる、俺は先へ進む」
兵士たちがざわつく。
「隊長!」
「危険です!」
「知っている」
ロバートは即答した。
「だが責任ある者が真っ先に引くわけにはいかない」
その一言で兵士たちは黙った。アカネが少しだけサフィラを見る。似ている。責任感の強い人間特有の言葉だった。サフィラも同じことを思ったらしい。苦笑していた。数分後。兵士たちは撤退を始めた。生存者を担ぎ。来た道を戻っていく。森に残るのは三人だけ。アカネ。サフィラ。ロバート。
「少人数の方が動きやすい」
サフィラが言う。
「同感です」
ロバートも頷いた。そして。三人はさらに森の奥へ進む。静かだった。風もない。鳥の声もない。まるで森そのものが息を潜めているようだった。一時間ほど進んだ頃。アカネが足を止めた。
「いる」
小さな声。サフィラも気付く。ロバートが銃へ手を掛ける。
「待って」
アカネが言う。
「撃つなよ」
サフィラも続ける。
「あぁ、わかってる」
ロバートはゆっくり、深く息をひとつ、そして手を離した。そして。木々の奥。そこから姿を現した。
黒い怪物。昨日と同じ。漆黒の外殻。異形の身体。人型。だが人ではない。怪物も三人を見ていた。森の中。誰も動かない。緊張だけが漂う。ロバートの額に汗が流れる。怪物はゆっくりと首を傾げた。不思議そうに。まるで。何故攻撃してこないのか分からないかのように。その仕草に。アカネの違和感がさらに大きくなる。
「やっぱり」
ぽつりと呟く。
「何か変だ」
サフィラも同意見だった。大型種ならあり得ない。ヴォイドならあり得ない。だが目の前の怪物は。明らかに何かが違う。そして次の瞬間。何かに気付いたように。私たちの後方を見つめる。アカネも視線を向ける。そして。嫌な予感がした。怪物が見ている先。そこから。誰かが近付いてきている。走って。一直線に。こちらへ。森の奥。誰かが走ってくる。枝を踏み。茂みを掻き分け。真っ直ぐこちらへ。アカネは目を細めた。聞き覚えのある足音だった。
「まさか」
サフィラも気付く。そして。数秒後。
「アカネー!!」
元気な声が森に響いた。黒髪。青い瞳。見慣れた少女。キアラだった。
「やっぱり」
サフィラが額を押さえる。アカネは少しだけ安心した。無事だったからだ。ロバートは固まっている。
「子供?」
当然の反応だった。だが次の瞬間。異変が起きた。黒い怪物が動いた。戦闘ではない。攻撃でもない。ただキアラへ向かって歩き出した。ゆっくり。本当にゆっくり。キアラも足を止める。
「え?」
怪物を見る。怪物もキアラを見る。沈黙。誰も動かない。アカネも。サフィラも。ロバートも。ただ見ていた。そしてキアラが左腕を押さえた。
「リリ?」
小さな声。その瞬間だった。怪物の身体が震えた。黒い外殻が波打つ。液体のように。生き物のように。そして。アカネの違和感が一つに繋がった。
「そういうこと」
思わず呟く。サフィラも理解した。
「なるほど」
怪物はヴォイドではない。大型種でもない。あれは。キアラの左腕と同じものだ。
「リリ」
キアラがもう一度呼ぶ。怪物が一歩近付く。兵士なら悲鳴を上げていただろう。だがキアラは逃げない。怖がらない。ただ見ている。何故なら。分かってしまったから。
「本当にリリなの?」
返事はない。元から喋らない。意思もない。人格もない。それでも。怪物は近付いてくる。そしてキアラの目の前で止まった。森が静まり返る。誰も動かない。怪物がゆっくり左腕を持ち上げる。ロバートが息を呑む。サフィラが構える。アカネは見守る。キアラは動かない。そして。怪物の腕が。そっとキアラの頭へ触れた。まるで確認するように。そこには敵意も殺意もなかった。ただキアラだったから。それだけだった。
「……リリ」
キアラの声が震える。一年間。ずっと一緒だった。誰より近くにいた。だから分かる。目の前の存在は。間違いなくリリだった。次の瞬間。怪物の身体が崩れ始めた。
「え?」
キアラが目を見開く。黒い外殻。巨大な身体。異形の腕。その全てが液体のように溶ける。そして。キアラへ流れ込んだ。左腕へ。肩へ。全身へ。
「っ!」
キアラが膝をつく。熱い。身体の奥が熱い。まるで大量の何かが流れ込んでくる。
「キアラ!」
アカネが駆け寄る。サフィラも続く。だが攻撃ではない。苦しそうではある。しかし違う。何かが起きている。進化。成長。そんな感覚だった。数十秒。やがて黒い液体が全て消える。森に静寂が戻る。キアラだけがその場に残った。荒い呼吸。額の汗。だが生きている。
「大丈夫?」
アカネが聞く。キアラはゆっくり顔を上げた。青い瞳。いつもと同じ。だが左腕だけが違った。黒い紋様。見たことのない模様が浮かび上がっている。
「リリが……」
キアラが呟く。
「お腹いっぱいだって」
沈黙。アカネとサフィラが顔を見合わせる。ロバートも見合わせたかったが相手がいなかった。
「喋るのか?」
サフィラが聞く。
「喋らないよ」
キアラが答える。
「なんとなく分かっただけ」
それはそれで凄かった。アカネは少し考える。そしてようやく理解した。この数日の出来事。大量のヴォイドの死骸。殺さない怪物。キアラの違和感。全部繋がった。リリは分裂していたのだ。そして森を彷徨い。ヴォイドを喰い続けていた。キアラの敵を減らすために。ただそれだけの理由で。サフィラも理解したらしい。
「つまり、お前の左腕が勝手に森を徘徊していたのか」
「多分ね」
キアラも困った顔をした。流石に予想外だった。そして。その時だった。アカネの表情が変わる。
「来る」
全員が顔を上げる。森の奥。さらに深い場所。そこから。ぞわりとした気配が広がった。今までとは違う。明確な悪意。明確な敵意。そしてアカネがよく知る感覚。
「コア」
小さな呟き。それだけで。全員の表情が変わった。どうやら。本命は今かららしかった。




