第43話 来訪者
翌朝。砦の空気は重かった。昨日の戦闘。そして正体不明の黒い怪物。兵士たちの警戒は普段以上になっている。朝から見張りの数も増えていた。
「完全に大型種扱いだな」
サフィラが窓から外を見る。砦の壁の上では兵士たちが慌ただしく動いていた。
「うん」
アカネも頷く。
「でも違う気がする」
「私もそう思う」
大型種ならもっと被害が出ている。兵士たちを殺さなかった理由も説明がつかない。そこへ。
「おはよう!」
元気な声。キアラだった。相変わらず元気である。
「おはよう」
「おはよう」
アカネとサフィラが返す。
「朝から訓練しよう!」
「元気」
「若いな」
「二人も若いでしょ」
キアラが呆れた顔をする。確かにそうだった。年齢だけなら十分若い。特にアカネなど見た目だけならキアラと大差ない。そんなやり取りをしている時だった。砦の外から鐘の音が鳴る。警鐘。兵士たちが一斉に動き出した。
「敵襲!」
怒号が響く。全員が顔を上げる。
「まさかこんな早朝から?珍しいな」
サフィラが立ち上がる。ヴォイドは基本的に夜の活動が多い。昼は珍しい。三人は急いで外へ出た。砦の門の前。兵士たちが集まっている。エドガーは既に到着していた。その視線の先。森の入り口。そこにいた。黒い怪物。昨日と同じ。漆黒の外殻。異形の腕。人型の怪物。キアラが固まる。今度はアカネも気付いた。顔色が変わった。
「キアラ?」
「……」
返事がない。ただ黒い怪物を見つめている。怪物も動かない。兵士たちを見ている。いや違う。兵士たちの後ろ。キアラを見ている。そんな気がした。
「攻撃準備!」
兵士長が叫ぶ。銃口が向けられる。その瞬間。
「待って!」
キアラが叫んだ。全員が驚いて振り返る。
「撃たないで!」
「キアラ?」
エドガーが眉をひそめる。キアラ自身も説明できない。でも。分かる。何故か分かる。あれは敵じゃない。そんな気がした。兵士たちが困惑する。だが指揮官は止まらなかった。号令が出る。引き金が引かれた。乾いた銃声。弾丸が飛ぶ。次の瞬間。黒い怪物が動いた。兵士たちが身構える。戦闘になる。そう思った。だが違った。怪物は避けただけだった。反撃もしない。ただ避ける。そして。一歩。二歩。ゆっくりと後退した。まるで。近付いてはいけないものへ近付いたかのように。
「逃げる?」
サフィラが呟く。怪物が森へ下がる。兵士たちは追撃しようとする。
「待って!」
アカネが叫ぶ。だが遅い。三人の兵士が飛び出す。森へ入る。次の瞬間だった。黒い怪物の腕が変形する。巨大な鞭。兵士たちが吹き飛ぶ。だが死んでいない。骨折程度。致命傷ではない。怪物はそのまま森へ消えた。沈黙。誰も動けない。そして。アカネがゆっくりキアラを見る。キアラも怪物が消えた森を見ていた。左腕を押さえながら。苦しそうに。
「キアラ」
アカネが呼ぶ。キアラが振り返る。その顔は青ざめていた。
「大丈夫?」
「分からない」
本当に分からない。でも胸の奥がざわつく。何かが近くにいる。そんな感覚。左腕が熱い。リリが。
何かに反応している。エドガーもその様子を見ていた。そして初めて確信する。あの怪物と。キアラ。
無関係ではない。
その日の夜。アカネは眠れなかった。違和感が積み重なりすぎている。黒い怪物。キアラの反応。殺意のない戦闘。そして。キアラの左腕。最悪の予想が頭をよぎる。だがその答えは思ったより近くにあった。
同じ夜。森の奥。黒い怪物は大量のヴォイドを捕食していた。そしてその身体の一部が。僅かに変化し始めていた。まるで何かを思い出すように。
翌朝。アカネは珍しく早く起きていた。眠れなかったからだ。窓際に座り、森を眺めている。北の森。昼間でもどこか薄暗い。嫌な森だった。
「起きてたのか」
サフィラが起き上がる。
「うん」
「珍しいな」
「考え事」
サフィラは少し笑った。アカネは普段、考える前に動く。だから珍しい。
「怪物か」
「うん」
アカネは頷く。
「キアラも」
サフィラは黙った。昨日の様子は明らかだった。キアラ自身は気付いていない。だが何かある。それだけは間違いない。
「聞くか?」
「まだ」
アカネは首を振る。
「まだ違う気がする」
証拠もない。確信もない。ただの勘で聞くには重い話だった。その時部屋の扉が開く。
「おはよう!」
キアラだった。元気だった。昨日青ざめていた人物とは思えない。アカネは少し安心する。
「大丈夫?」
「何が?」
「昨日」
「大丈夫だよ」
キアラは笑う。本当に大丈夫そうだった。少なくとも本人は。だがアカネの違和感は消えない。朝食。その後。隊長から今日の予定が伝えられた。
「森の奥へ入る」
地図が広げられる。調査隊が最後に確認された場所。そして怪物の目撃地点。ほぼ同じ方向だった。
「人数は絞る、昨日の件もあるしな」
隊長がそう言う。兵士たちも異論はなかった。あの怪物は危険だ。殺意はなくても。強い。その時だった。
「私も行く」
キアラが言った。即座に。
「私も戦える」
「知っています、でも今日は駄目です」
エドガーが答える。即答だった。キアラがむっとする。だが今回はエドガーにも理由があった。
「今のお前は冷静ではありません」
キアラが固まる。
「昨日から様子がおかしい」
「それは」
「違いますか」
反論できなかった。エドガーは全部見ていた。キアラが怪物を見た時の顔。左腕を押さえていたこと。不安そうだったこと。全部。
「今日は残りなさい」
静かな声だった。
「……はい」
珍しく。キアラが引いた。アカネが少し驚く。だがキアラ自身も分かっていた。昨日からリリがおかしい。左腕が熱い。何かが近くにいる。そんな感覚が消えない。だから。少し怖かった。捜索隊が出発する。アカネ。サフィラ。隊長。そして兵士たち。森の奥へ。キアラは砦から見送った。やがて姿が見えなくなる。そして。左腕が疼いた。
「っ……」
痛みではない。呼ばれている。そんな感覚。誰かに。何かに。近くへ来いと。
「リリ」
左腕を見る。返事はない。いつも通りだ。なのに。何故か。何処へ向かうべきかだけ分かる。森の奥。怪物が消えた方向。そこだった。一方。森を進むアカネたち。数時間後。ついに調査隊の痕跡を発見する。折れた銃。血痕。壊れた荷物。そして。大量のヴォイドの死骸。周囲一帯に散らばっていた。数十体。いや。百近い。
「なんだこれは……」
兵士の顔が青ざめる。アカネも黙る。異常だった。明らかに。そして。その中心に。一人の生存者がいた。壁にもたれかかるように座っている。軍服。痩せ細った身体。だが生きている。
「生存者だ!」
兵士たちが駆け寄る。男がゆっくり顔を上げた。血走った目。ひび割れた唇。そして最初の言葉。
「逃げろ」
だった。全員が止まる。男は震えていた。
「逃げろ、まだいる、まだ森にいる」
恐怖に染まった声。隊長が肩を掴む。
「何がいた」
男の顔がさらに青くなる。そして震える指で森の奥を指差した。
「黒い怪物だ」
静寂が落ちた。アカネの背筋を嫌な予感が走った。




