第40話 北の森
数日後。アカネは昼寝をしていた。礼拝堂の長椅子。窓から差し込む昼の日差し。暖かい。最高だった。
「アカネさん」
声がした。
「んー」
「起きてください」
エドガーだった。アカネが片目を開く。
「眠い」
「知っています」
「じゃああと十分」
「駄目です」
即答だった。アカネは諦めて身体を起こした。エドガーの表情は普段と変わらない。だが少しだけ真面目だった。
「話があります」
「悪い話?」
「おそらく」
アカネが欠伸を噛み殺す。悪い話らしい。礼拝堂の隅。机には数枚の手紙が置かれていた。サフィラも既に呼ばれている。
「何かあったのか」
サフィラが聞く。エドガーは頷いた。
「軍の知人からです」
手紙を広げる。
「北部でヴォイドの活動が活発化しています」
アカネの表情が変わる。眠気が消えた。
「どれくらい?」
「異常な規模です」
エドガーが答える。
「元々出現頻度は高い地域でした、ですが最近は別です、討伐隊が壊滅しています」
サフィラが眉をひそめる。
「軍がか」
「はい、さらに」
エドガーが一枚の紙を差し出す。
「調査隊が一つ消息を絶っています」
静かな空気が流れた。アカネは地図を見る。北。町から三日ほどの場所。かなり広い森林地帯だった。
「大型種?」
アカネが聞く。
「可能性は高いです」
エドガーは頷く。
「軍もそう考えているようです」
サフィラが腕を組む。
「ただの大型種なら軍も対処できるだろう」
「本来は」
エドガーが答えた。
「ですが最近妙なんです」
「妙?」
「ヴォイドが組織的に動いている、それに共食いのようなことも起きているとか」
アカネとサフィラが顔を見合わせる。嫌な話だった。非常に。
「コアかも」
アカネが呟く。サフィラも同意見だった。今まで聞いた話。軍の被害。活動の活発化。そして異常行動。条件が揃いすぎている。エドガーは二人を見る。
「コアというものが関係しているのですか」
「可能性がある」
アカネは頷いた。
「まだ分からない、でも調べたい」
「そうですか」
エドガーは少し考える。やがて頷いた。
「なら丁度いい」
「丁度いい?」
サフィラが聞く。
「実は明日、補給隊が北へ向かいます」
地図を指差す。
「森の入口にある監視砦へ」
なるほど。調査にはちょうど良い。
「便乗できるように手配しましょう」
エドガーが言った。
「まずは情報収集だな」
「はい」
「そして可能なら」
そこで言葉が止まる。
「消息を絶った者たちの行方も」
静かな願いだった。エドガーは軍人だった。だから分かる。行方不明者の意味を。生きている可能性は低い。それでも。家族は待っている。仲間は待っている。だから確認が必要なのだ。アカネは頷いた。
「分かった、見てくる」
サフィラも異論はない。むしろ行くつもりだった。そして話を聞いていた人物がもう一人いた。礼拝堂の扉の隙間。黒髪の少女。キアラだった。
「北?」
ぽつりと呟く。エドガーが振り返る。
「キアラか?」
「聞いてた」
「聞いていたな」
全く隠れる気がなかった。キアラは部屋へ入ってくる。
「私も行く」
即答だった。エドガーがため息を吐く。
「駄目です」
「なんで」
「危険だからです」
「いつも危険だよ」
「今回はもっと危険です」
キアラがむっとする。だがエドガーは譲らない。珍しく頑固だった。
「駄目です」
「むぅ……」
頬を膨らませる。完全に不満顔だった。アカネはそんな様子を眺めていた。少しだけ懐かしい。昔の自分を見ているようだった。だから。
「連れて行く?」
ぽつりと言った。部屋が静かになる。
「アカネさん」
エドガーが頭を抱えた。
「駄目です」
「強いよ」
「知っています」
「頑張るよ!」
キアラが便乗する。
「駄目です」
即答だった。珍しくエドガーが強かった。そして。それには理由があった。北の森。そこはキアラが普段活動している場所より遥かに危険だからだ。エドガーは元軍人として理解していた。今回の件は。何かがおかしい。だからこそ。まだキアラを行かせる気はなかった。少なくとも今は。だがその決定が。
数日後に覆されることになるとは。この時の誰も知らなかった。
その日の夕方。キアラは不機嫌だった。夕食の席でも。自由時間でも。ずっと不機嫌だった。誰が見ても分かるくらいに。
「キアラ怒ってる」
年下の孤児が言った。
「怒ってない」
怒っていた。子供たちが笑う。普段なら一緒に笑うキアラも今日は笑わない。やがて子供たちも寝る準備を始めた。キアラは教会の裏手にある石段へ腰掛ける。夜風が少し冷たかった。
「いた」
声がした。アカネだった。両手に温かい飲み物を持っている。
「飲む?」
「飲む」
即答だった。キアラは受け取る。一口飲む。少しだけ機嫌が戻った。
「単純」
「うるさい」
アカネが隣へ座る。しばらく沈黙。虫の声。遠くの町の音。平和な夜だった。
「行きたかった?」
アカネが聞く。
「行きたい」
キアラは即答した。
「なんで?」
キアラは少し黙る。そして。
「神父様を助けたいから」
そう言った。アカネは黙って聞く。
「町を守りたい、みんなを守りたい、だから強くなりたい」
月を見上げる。
「でも」
少しだけ声が小さくなる。
「私まだ子供だから」
アカネは意外だった。キアラがそんなことを言うとは思わなかった。
「そう思ってるんだ」
「思うよ」
キアラは苦笑した。
「みんな優しいから、神父様も、町の人も、でも....」
膝を抱える。
「本当は分かってる、私一人じゃ何も出来ない」
その言葉は十二歳の少女にしては重かった。
「だからリリに頼ってる」
左腕を見る。月明かりに照らされた普通の腕。
「リリがいなかったら、私は何も出来ない」
アカネは少し考える。そして。
「違う」
と言った。キアラが顔を上げる。
「違う?」
「うん」
アカネは頷いた。
「リリだけじゃ無理」
「え?」
「キアラだけでも無理」
キアラが首を傾げる。
「でも、二人なら出来る」
アカネが言う。
「それでいい」
キアラは少し黙った。その発想はなかった。リリに頼るのは弱いことだと思っていた。リリが強いだけだと思っていた。でもアカネは違うと言う。
「私もそうだから」
ぽつりとアカネが言った。
「アカネも?」
「うん」
「一人じゃない」
それ以上は語らなかった。だがキアラには少しだけ分かった。アカネにも大切な誰かがいるのだろう。いや。いたのだろう。だから。
「アカネも頑張った?」
キアラが聞く。
「頑張った」
「今も?」
「今も」
即答だった。それが少し嬉しかった。強い人も努力している。それだけで。少し安心する。その時。
「なるほど」
後ろから声がした。二人が振り返る。サフィラだった。
「盗み聞きしないでよ」
キアラが言う。
「聞こえたんだ」
サフィラは悪びれない。そしてキアラの隣へ座った。
「納得したよ」
「何が?」
「お前がアカネに懐く理由だ」
「懐いてない」
「懐いているさ」
即答だった。キアラが抗議する。だがサフィラは無視した。
「似ているんだ」
「どこが」
「無茶をするところ」
二人とも黙った。図星だった。
「神父様が苦労するわけだ」
サフィラがため息を吐く。キアラはむっとする。アカネは少し笑う。そして教会の窓から明かりが漏れる。エドガーの執務室だった。まだ起きているらしい。きっと明日の準備だろう。北の森へ向かう補給隊。最近増えているヴォイド。消息を絶った調査隊。そしてまだ姿を見せない何か。平和な時間は続いている。だが確実に終わりへ向かっていた。
誰もまだ知らない。北の森で目覚めつつあるものが。この町そのものを飲み込むほど危険な存在であることを。




