第4話 接近
「今回は逃がさない」
その声だけは。いつもより少しだけ冷たかった。
防壁を降りる。サフィラとアカネ。二人だけだった。本来なら護衛を付けるべきだろう。偵察部隊を編成するべきだろう。だがそんな時間は無かった。コアは今もこちらへ向かっている。そして何より。アカネが待てない。
「本当に二人で行くのか」
雪原を進みながらサフィラが言う。
「うん」
「もっとこう……慎重にならないのか?」
「なってる」
「そうは見えない」
「見えないだけ」
アカネは真顔だった。本気で慎重らしい。サフィラは諦めた。もうそういう生き物なのだろう。すると。アカネが足を止める。
「来る」
直後だった。雪の下が爆ぜる。巨大な顎。黒い外殻。地中から飛び出したのは巨大なムカデのようなヴォイドだった。
「っ!」
サフィラが剣を抜く。だが。その前に。
「緋依」
六本の剣が現れる。
「舞姫」
銀光。一瞬だった。ヴォイドの身体が十数個に分かれて地面へ落ちる。鮮やかすぎる斬撃。サフィラですら反応できなかった。
「……」
「何?」
アカネが振り返る。
「いや」
サフィラは剣を納めた。
「少しは私にも仕事をさせろ」
「次があったら」
その返事も真面目だった。だが。その時だった。アカネがふらつく。
「おい」
サフィラが肩を支える。アカネは首を振った。
「大丈夫」
「全然大丈夫そうに見えない」
「まだ平気」
まだ。その言い方が気になった。サフィラは何も言わなかったが覚えておくことにする。二人は再び歩き始めた。そして。一時間ほど進んだ頃。ようやく見えた。
コア。
「……なんだあれは」
サフィラが息を呑む。山だった。黒い山。生きていることだけが異常な。全身を黒い外殻で覆われた巨体。その背には無数の突起。呼吸する度に黒い靄が漏れ出している。そして。その靄が形を持つ。狼。
ゴブリン。オーク。次々と。まるで湧き出るように。
「本当に生んでる……」
サフィラは目を見開いた。アカネの言葉は本当だった。ヴォイドは発生している。あの巨体から。まるで巣だ。いや。それ以上かもしれない。災厄そのものだった。
「どうする」
サフィラが聞く。アカネはコアを見つめる。赤い瞳が細くなる。
「倒す」
「作戦は」
「斬る」
「もっと具体的に」
「いっぱい斬る」
サフィラは頭痛を覚えた。その時だった。コアが動く。巨体が軋む。大地が震える。そして。背中の突起が開いた。
「……?」
嫌な予感。次の瞬間。黒い光が空へ放たれる。空が染まる。黒く。暗く。世界そのものが侵食されるように。サフィラの背筋を寒気が走った。
「アカネ」
「うん」
「まずいんじゃないか?」
「まずい」
即答だった。そして。珍しく焦った声で続ける。
「すごくまずい」
アカネが刀へ手を掛ける。表情は変わらない。だが。サフィラには分かった。焦っている。この少女が。初めて。
「何が起きる」
アカネは空を見上げた。黒い光は広がっている。止まらない。そして。静かに告げた。
「増える」
嫌な予感がした。いや。予感ではない。確信だった。直後。空が割れた。いや。空間そのものが裂けた。黒い裂け目。
一つ。
二つ。
三つ。
十。
二十。
百。
次々と現れる。そして。そこから。ヴォイドが落ちてきた。
「冗談だろ……」
サフィラが呟く。空から。地上から。黒い群れが溢れ出す。まるで世界そのものが敵になったかのようだった。アカネは刀を抜く。赤い瞳が群れを見据える。そして。小さく呟いた。
「エミリア」
初めて聞く名前だった。六本の剣。そのうち一本が赤く輝く。アカネの髪が揺れる。空気が震える。
「ブースト」
その瞬間。世界からアカネの姿が消えた。轟音だけが遅れて響いた。
轟音だけが遅れて響いた。サフィラの視界からアカネが消える。
否。消えたように見えただけだ。速すぎる。認識できない。次の瞬間。空から落ちてきたヴォイドが真っ二つになった。
さらに一体。
さらに一体。
さらに一体。
黒い血が雪原へ降り注ぐ。
斬撃。斬撃。斬撃。
それしか見えない。六本の剣が暴れ回る。空を裂く。
大地を駆ける。群れを飲み込む。まるで災害だった。ヴォイドの軍勢が一方的に削られていく。
「……」
サフィラは言葉を失う。強い。そんな言葉では足りない。戦力としての次元が違う。一人で軍そのものだった。その時。赤い閃光がサフィラの横を通り過ぎる。アカネだ。数十メートル先に居たはずなのに。
次の瞬間には別の場所にいる。雪が舞う。黒い血が飛ぶ。ヴォイドが崩れる。終わりが見えない。
「おい!」
サフィラが叫ぶ。
「聞こえてる」
返事だけはすぐだった。姿は見えない。
「無茶をするな!」
「してない!」
「してるだろ!」
「まだ平気!」
その言葉と同時。巨大なオークが吹き飛んだ。数十メートル。いや。百メートル近く。地面を転がりながら砕け散る。サフィラは思った。絶対無茶している。すると。コアが動いた。山のような巨体。背中の突起が開く。黒い光。
「っ!」
アカネの姿が止まる。初めてだった。明確な警戒。そして。
「まずい」
小さく呟く。次の瞬間。大地が裂けた。コアの足元。そこから黒い腕が伸びる。
一本。
二本。
三本。
十本。
百本。
無数。
地面そのものが生きているようだった。腕が集まる。絡み合う。巨大な人型を作り出す。
「なんだあれは……」
サフィラが息を呑む。ヴォイドで出来た巨人。コアを守るための盾。いや。兵器。全長は五十メートル以上ある。その拳が振り上げられる。目標は防衛線。
「まずい!」
サフィラが叫ぶ。距離はまだある。だが。あの一撃が届けば終わる。砦ごと消し飛ぶ。その時だった。
「エミリア」
アカネが再び呟く。赤い光。世界が歪む。
「ブースト」
轟音。大気が爆ぜた。次の瞬間。アカネは巨人の肩に立っていた。あまりにも速い。理解が追い付かない。刀が振られる。巨人の腕が落ちる。さらに振る。胴体が裂ける。
さらに。さらに。さらに。
数秒後。巨人は崩壊していた。黒い霧となって消えていく。だが。
「……はぁ」
アカネの呼吸が乱れていた。初めてだった。肩が上下している。息が荒い。サフィラは見逃さなかった。
「アカネ!」
返事がない。アカネはコアを見ていた。その赤い瞳が僅かに細まる。
「逃げる」
「何?」
コアが後退していた。ゆっくり。だが確実に。北へ。こちらから離れていく。
「追えるか!」
サフィラが叫ぶ。アカネは答えない。その代わり。刀を握る手に力が入る。そして。
「……行く」
その一言だけだった。次の瞬間。アカネの周囲に六本の剣が集まる。
舞姫。そして。ブースト。
二つの力が同時に輝く。
空気が軋む。サフィラの背筋に寒気が走る。理由は分からない。だが。やってはいけないことをやろうとしている。そんな予感がした。
「待て!」
叫ぶ。だが遅い。アカネは空を見上げていた。赤い瞳が遠くを見つめる。その先には。逃げるコア。
「エリス」
聞いたことのない名前。六本の剣。そのうち一本が淡く光る。そして。
「パノラマ」
世界が揺れた。サフィラには何も見えない。だがアカネには見えていた。遥か遠く。コアの逃げる先が。次に。
「ルナ」
さらに別の名前。
「ブリンク」
空間が裂ける。サフィラは目を見開いた。アカネの前に。白い亀裂が生まれている。それは。防壁の上で見たものと同じだった。世界を切り裂く裂け目。
「アカネ!」
叫ぶ。今度は聞こえた。アカネが振り返る。少しだけ。ほんの少しだけ。困ったような顔をしていた。
「ごめん」
珍しい言葉だった。
「今逃がしたら」
息が乱れる。顔色が悪い。それでも。アカネはコアを見ていた。
「次はもっとたくさん死ぬ」
静かな声だった。だからこそ。サフィラは何も言えなかった。アカネは前を向く。そして。
世界の裂け目へ飛び込んだ。その瞬間。嫌な音がした。まるで。何かが限界を迎えたような。
そんな音だった。




