第37話 新しい世界
夜の森。静かな森。木々の隙間から月光が差し込んでいる。風は穏やかだった。虫の声も聞こえる。どこか懐かしい夜だった。その空間が突然裂ける。音もなく。世界そのものが裂けたように。黒い亀裂が開く。そして。二つの影が姿を現した。アカネ。そしてサフィラ。
「着いた」
アカネが言う。サフィラは周囲を見回した。森。木々。月。夜風。何も変わらない。少なくとも見た目は。
「正直、実感がないな」
「最初はそんな感じ」
アカネが答える。サフィラは改めて周囲を見る。別の世界。そう言われても信じられない。だが確かに違う。空気の匂い。魔力の流れ。何かが違う。
「ちゃんと渡れたのか?」
「渡れてる」
アカネが即答した。
「私も最初そうだった」
サフィラは少し笑う。どうやらこれが普通らしい。そして少しだけ肩の力を抜いた。戦争が終わって。旅立って。次の世界へ来た。だが。到着した瞬間に戦場だったりはしないらしい。
「よかった」サフィラが言う。
「流石に到着した瞬間戦場、なんてのは嫌だ」
「それは私も嫌」
アカネが頷く。二人が少しだけ笑った。その時だった。
キンッ!鋭い金属音。続いて。ドゴォォォン!!森を揺らす轟音。二人が同時に顔を上げる。また。
キィィィン!!今度はもっと近い。
「……」「……」
二人が顔を見合わせる。
「嫌な予感がするな」サフィラが言った。
「私も」
アカネも頷く。平和な時間は五分も続かなかった。音の方向へ向かう。木々の間を駆け抜ける。戦闘音は次第に大きくなる。そして。開けた場所へ出た。そこにはヴォイドがいた。四体。大型犬ほどの大きさ。鋭い牙。黒い外殻。そして。それらと戦う一つの影。漆黒の鎧だった。人型。だが人間には見えない。黒い装甲。異様なまでに太い腕。鋭い鉤爪。まるで怪物。その存在がヴォイドを殴り飛ばす。轟音。
一体の頭部が砕け散る。
さらに踏み込む。振るわれる拳。砕ける外殻。吹き飛ぶ肉体。圧倒的な力。洗練された技術ではない。だが実戦的だった。力と速度で押し潰す。そんな戦い方。
「強いな」サフィラが呟く。
「あれだけなら大型種くらいの強さがあるかも」
アカネも頷いた。だが違和感がある。小さいのだ。鎧の大きさが。大人にしては明らかに小さい。
「子供か?」
サフィラが眉をひそめる。その時。最後のヴォイドが飛び掛かった。漆黒の鎧が迎え撃つ。黒い腕が大きく変形する。巨大な槌のような形状。そして振り下ろした。ドンッ!!地面が揺れる。ヴォイドの身体が原形も残さず潰れた。静寂。戦いが終わる。漆黒の鎧がその場に立つ。荒い呼吸。だが無事らしい。そして。黒い装甲が崩れ始めた。液体のように。生き物のように。鎧が溶ける。そして左腕へ吸い込まれていく。数秒後。そこに立っていたのは。黒い髪。青い瞳。十二歳ほどの少女だった。
「……」
サフィラが固まる。
「本当に子供じゃないか」
思わず口から出た。少女がこちらを見る。警戒したような目。当然だった。夜の森。突然現れた見知らぬ二人。警戒しないわけがない。アカネも少女を見る。黒い髪。青い瞳。細い身体。そして。左腕。だが今は分からない。少女もまた二人を見ていた。白髪に赤い瞳の少女。水色の髪に金の瞳の女性。どちらも見覚えがない。この辺りの人間でもない。三人の間に沈黙が落ちる。最初に口を開いたのはアカネだった。
「こんばんは」
少女が一歩下がった。警戒が強まった。
「怪しい者じゃないよ」
アカネが続ける。サフィラが横を見る。その台詞は怪しい者が言う台詞だと思った。案の定。少女の警戒心はまったく解けていなかった。青い瞳が二人をじっと見つめている。そして少女は思った。
(誰だろう、この人たち)少女は思った。
(誰だろう、この子)サフィラも思った。
沈黙が続いた。なんとも微妙な空気だった。最初に動いたのは少女だった。一歩。また一歩。ゆっくり後ろへ下がる。逃げる準備だ。
「待って」
アカネが慌てて声を掛ける。
「本当に怪しくないから」
「怪しい人はみんなそう言うよ」
即答だった。アカネが黙る。反論できない。
「確かに」サフィラが頷いた。
「確かにじゃない」アカネが抗議する。
キアラは少しだけ警戒を緩めた。少なくとも二人組の雰囲気は悪くない。悪人にも見えない。だが。見たこともない服装だった。見たこともない武器だった。見たこともない雰囲気だった。警戒しない方がおかしい。
「あなた達何者?」少女が聞く。
「旅人」アカネが答える。
「どこから?」
「遠く」
「遠くって、どのくらい?」
「すごく遠く」
少女がじっと見る。誤魔化しているようにしか見えない。サフィラが横で頭を抱える。
「アカネ」
「ん?」
「説明が下手すぎる、代われ」
「そうかな」
「そうだ」
キアラが少し笑った。ほんの少しだけ。その様子を見てアカネも安心する。完全な敵認定はされていないらしい。
「私はサフィラ、こっちはアカネ」サフィラが名乗った。
「キアラ」少し迷った後で答える。
「キアラ・ハーリー」
「よろしく」
アカネが言う。
「よろしく……はまだ分からない」
「厳しい」
「神父様も知らない人には気を付けろって言ってた」
「正しいな」
サフィラが頷く。むしろ満点の対応だった。少女が夜の森で知らない大人に付いていく方が問題である。
「神父?」アカネが聞く。
「教会の神父様、わたしみたいな孤児を引き取って面倒みてくれてるの」
だがアカネは少しだけ表情を曇らせる。似ているからだ。自分と。キアラは気付いていない。だがサフィラは気付いた。だから話題を変える。
「さっきの鎧」
キアラがぴくりと反応した。左腕を少しだけ隠す。
「見てたの?」
「見ていた」
「すごかった」
アカネが素直に言う。
「強かったし」
「ほんと?」
「うん」
キアラが少し照れる。褒められることには慣れていないらしい。
「リリのおかげだから」
「リリ?」
「この左腕のことだよ」
そう言って左腕を撫でる。一見すると普通の腕だった。傷もない。変色もない。普通の少女の腕。だがアカネだけが少し違和感を覚えていた。何だろう。説明できない。
「その腕」
思わず口に出る。キアラが一瞬だけ身構えた。
「どうしたの?」
「いや」
アカネは首を振る。
「なんでもない」
本当に分からない。分からないことを言うべきではない。だから飲み込んだ。キアラも少しだけ安心したようだった。
「リリはね」左腕を見ながら言う。
「私を助けてくれたんだ」
「助けた?」
「うん」
少し考える。どこまで話すべきか。だが二人は悪い人には見えない。
「一年前、森でヴォイドに襲われたの」
アカネとサフィラの表情が変わる。
「その時、左腕を無くしたの」
月明かりの下。キアラは淡々と語る。
「川に落ちて、気付いたら生きてて、そしたらリリがいた」
「……」
アカネは黙る。サフィラも黙る。軽く話している。だがどれだけ壮絶だったかくらい想像できた。
「怖くなかったのか?」
サフィラが聞く。キアラは少し考える。
「怖かったよ」即答だった。
「今でもたまに怖い」左腕を見る。
「でも、リリは優しいから」
小さく笑う。アカネとサフィラは顔を見合わせた。優しい。その表現は予想していなかった。
「何回も助けてくれたんだ、危ない時も、怪我した時も、だから家族みたいなもの」
そう言って笑う。その笑顔に嘘はなかった。少なくともキアラは本気でそう思っている。アカネはもう一度だけ左腕を見る。やはり違和感は消えない。だが敵意はない。少なくとも今は。
「ところで」
キアラが首を傾げた。
「二人ともどこ行くの?」
アカネとサフィラが固まる。そういえば。この世界に来たばかりだった。
「決めてない」
アカネが答える。
「え?」
「宿もない」
「えぇ!?」
「お金も使えるか分からない」
「.......」
キアラの目が丸くなる。
「旅人ってそういうものなの?」
「結構そう」
「大変だね……」
心の底から同情された。
サフィラはため息を吐く。
旅の初日。どうやら先が思いやられそうだった。




