第32話 目覚め
それから三日後だった。サフィラはいつものように病室を訪れていた。もう日課になっている。朝の軍務を終え。昼の報告までの僅かな時間。必ずここへ来る。椅子に腰掛ける。窓の外では雪解けが進んでいた。春が近い。世界は少しずつ前へ進んでいる。なのに。目の前の少女だけが時間を止めたままだった。
「……」
サフィラはアカネを見る。相変わらず静かに眠っている。白い髪。整った顔立ち。戦場ではあんなに無茶をするのに。こうしていると年相応の少女にしか見えない。
「お前は本当に」
思わず苦笑する。
「起きる気があるのか」
返事はない。当然だ。今までもずっとそうだった。だから。今回もそうだと思った。
「私は決めたぞ」
ぽつりと呟く。聞こえていなくても構わなかった。
「お前について行く」
少しだけ笑う。
「驚くなよ、今さら置いていかれてたまるか」
返事はない。だが。その時だった。
「……水」
小さな声。サフィラの思考が止まる。
「……は?」
聞き間違いかと思った。だが。
「喉渇いた」
今度ははっきり聞こえた。サフィラが勢いよく立ち上がる。ベッドを見る。赤い瞳。見慣れた瞳がこちらを見ていた。アカネだった。
「アカネ!?」
「うん」
「うんじゃない!」
珍しく大声が出た。アカネが少しだけ首を傾げる。
「何?」
「何ではない!」
思わず肩を掴みそうになって止まる。怪我人だった。 いや。もう怪我人ではないのかもしれない。よく分からない。頭が追いつかない。
「一か月だぞ!」
「そうなんだ」
「そうなんだではない!」
アカネは少し考える。アカネが少しだけ申し訳なさそうな顔をする。
「ごめん」
素直だった。サフィラは深く息を吐く。怒る気が失せた。目の前の少女は本気で分かっていない。そう思うと同時に自分が涙を流していることに気が付く。
「本当に心配したんだぞ」
「ごめん」
「皆心配していた」
「ごめん」
「私も」
そこで言葉が止まる。アカネがこちらを見る。サフィラは視線を逸らした。心臓が妙にうるさい。今までなら誤魔化せた。だがもう無理だった。自覚してしまったから。涙を拭い。
「……水を持ってくる」
逃げるように立ち上がる。
「ありがとう」
アカネは素直に言った。その声を聞いて。サフィラは思わず笑ってしまう。本当に。この少女は調子を狂わせる。少しして。医者が飛んできた。次にミリア。レオン。リリア。エレナ。最後には皇帝まで現れた。病室は大騒ぎだった。
「アカネさん!」
リリアが泣きながら抱きつく。
「苦しい」
「生きてる!」
「うん」
「よかったぁ!」
エレナも目元を押さえている。レオンは露骨に安堵していた。ミリアなどその場で座り込んでしまった。皇帝だけは腕を組んで笑っている。
「やっと起きたか」
「おはよう」
「昼だ」
「そうなんだ」
全員が吹き出した。一か月ぶりの再会。なのに。どこかいつも通りだった。そしてサフィラは思う。やはり。この少女は行ってしまう。世界を渡り。また戦う。また危険な場所へ向かう。だから。今度は自分が言わなければならない。決めたことを。伝えなければならない。病室の窓から春の光が差し込む。
旅立ちの日は。もう遠くなかった。
アカネが目を覚ましてから三日後。ようやく病室から出る許可が下りた。本来ならもっと安静にするべきだと医者は主張した。だがアカネが大丈夫と言った。そして全員が諦めた。いつものことだった。今は城の中庭。雪解けの進む庭園だった。まだ冷たい風は吹く。だが冬の終わりを感じさせる空気があった。
ベンチに腰掛けるアカネ。その隣にサフィラ。二人だけだった。しばらく無言が続く。別に気まずいわけではない。ただサフィラが何を話すか迷っていた。軍議で話す方がよほど楽だった。ヴォイドの大群に突撃する方が気楽かもしれない。そんなことまで思う。
「サフィラ」
先にアカネが口を開いた。
「どうした」
「何か話がある?」
サフィラが固まる。
「分かるのか」
「何となく」
何となくで当てられた。この少女は本当に勘がいい。観念する。逃げても仕方ない。
「ある」
短く答える。アカネは黙って待った。だからサフィラも覚悟を決める。
「お前は旅立つのか」
「うん」
即答だった。迷いがない。
「まだ行かなきゃいけない場所がある」
「そうか」
やはり。分かっていたことだった。それでも少し寂しい。だが次の言葉はもう決めていた。
「なら私も行く」
アカネが瞬きをする。
「え?」
「付いて行く」
「何で?」
素だった。本当に不思議そうだった。サフィラは思わず額を押さえる。
「何で、ではない」
「いや」
アカネは首を傾げる。
「国は?」
「許可は貰った」
「軍は?」
「任せてきた」
「家族は?」
「背中を押された」
アカネが黙る。本当に予想していなかったらしい。
「危ないよ」
「知っている」
「私の世界は滅んだ」
「聞いた」
「助けられなかった世界もある」
「それも聞いた」
「次は守れないかもしれない」
それが本音だった。アカネは英雄ではない。万能でもない。救えなかった世界がある。見捨てた世界がある。だから。サフィラを巻き込みたくなかった。だがサフィラは笑った。
「それでも行く」
迷いのない声だった。
「お前一人に背負わせる気はない」
アカネはしばらく黙る。やがて。小さく息を吐いた。
「分かった」
それだけだった。
「いいのか?」
「うん」
少しだけ笑う。
「サフィラ強くなったし」
「それが理由か」
「大事」
間違いない。アカネらしい理由だった。サフィラは苦笑する。だが本当に言いたいことはまだ残っていた。むしろここからだった。心臓がうるさい。顔が熱い。戦場より緊張している。情けないと思う。それでも。言わなければならない。
「それと」
アカネがこちらを見る。赤い瞳。真っ直ぐな視線。逃げ場はない。
「私は」
息を吸う。
「お前が好きだ」
言った。ついに。全部。隠さずに。言った。沈黙。数秒。十秒。二十秒。長い。とても長い。アカネが固まっていた。
「え」
ようやく出た言葉がそれだった。
「え?」
もう一回言った。理解が追いついていないらしい。
「だから」
サフィラは観念したように言う。
「好きだと言った」
「……」
アカネが黙る。混乱している顔だった。すこし顔が赤くなっている、本当に混乱している。
「嫌だったか」
少しだけ不安になる。すると。アカネは慌てて首を振った。
「違う、嫌じゃない」
その言葉に少しだけ安心する。
「むしろ」
アカネが考え込む。
「嬉しい」
素直だった。あまりにも。
「でも」
そこで困ったように笑う。
「よく分からない」
サフィラは目を瞬く。
「恋愛とか」
「好きとか」
「私あんまり知らないから」
その答えは予想外ではなかった。むしろ。少しだけ納得した。アカネらしい。
「だから」
アカネは続ける。
「少し待ってほしい」
真っ直ぐだった。誤魔化さない。逃げない。
「ちゃんと考える、それで、返事する」
サフィラはしばらく黙る。そして。小さく笑った。
「分かった」
それで十分だった。断られたわけではない。逃げられたわけでもない。ちゃんと考えてくれる。それだけで十分だ。
「ありがとう」
サフィラが言う。
「何で?」
「知らん」
二人で少しだけ笑った。冬は終わった。旅立ちは近い。だが今だけは。
少しだけ穏やかな時間が流れていた。




