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第29話 雪解け



 百メートル。ただそれだけ。普段なら一瞬だった。だが今は違う。アカネの視界は霞む。呼吸は乱れる。身体中が焼けるように痛い。オーバーヒート。能力の酷使。連戦。負傷。全てが限界だった。それでも。止まれない。後ろにはサフィラがいる。戦って。傷付いて。全てを託してくれた。だから。前へ進む。それだけだった。


「ブースト」


 時間が伸びる。雪が止まる。風が遅くなる。世界が静かになる。そして。アカネだけが進む。十メートル。二十メートル。三十メートル。コアが叫ぶ。初めてだった。言葉ではない。感情だった。恐怖。焦燥。生存本能。死にたくない。その感情が伝わる。巨大な根が持ち上がる。無数の槍。無数の刃。全てがアカネへ向かう。


「舞姫」


 六振りの剣が迎撃する。砕く。裂く。弾く。だが数が多い。一振り。また一振り。舞姫が弾かれる。限界だった。それでも。前へ進む。


 四十メートル。

 五十メートル。

 六十メートル。


 コアが脈打つ。巨大な樹が震える。種を守ろうとしている。だがもう遅い。パノラマが捉えている。見えている。幹の奥。無数の魔力の流れ。その中心。全ての起点。小さな黒い種。あれだ。あれを壊せば終わる。


 七十メートル。

 八十メートル。


 肩が裂ける。脚が震える。それでも。止まらない。その時だった。ふと。声を思い出す。蓮。父親のような人。


---


「無理だと思った時が本番だ」


---


 アカネは少しだけ笑った。


「本当に」


 息を吐く。


「無茶ばっかり」


 誰に向けた言葉だったのか。自分でも分からない。


 九十メートル。


 そして。


 最後の十メートル。


 コアが暴れる。巨大な根が振り下ろされる。避けられない。防げない。なら。


「カッペン」


 発動。一瞬。本当に一瞬だけ。世界が切れる。根が断たれる。空間ごと裂ける。そして。道が開く。最後の一歩。アカネは跳んだ。コアの目前。巨大な幹。その奥。黒い種。世界を滅ぼした元凶。数え切れない命を喰らったもの。旅の始まり。全ての原因。だから。迷わない。刀を握る。残った力。本当に最後の力。全部込める。そして。


「終わりだ」


 振り下ろした。赤い閃光。カッペン。絶対切断。刃が種へ届く。そして。黒い種が。二つに割れた。


 静寂。一瞬。


 本当に一瞬だけ。世界が止まる。


 次の瞬間。コアが絶叫した。耳を塞ぎたくなるような悲鳴だった。黒い樹が震える。枝が砕ける。根が暴れる。まるで。死を拒絶するように。だがもう遅かった。種は割れた。全ての始まり。全ての中心。コアの本体。それが失われた。だから。終わりだった。幹に亀裂が走る。一本。二本。三本。そして。無数。黒い光が漏れ出す。崩壊。それは一瞬だった。巨大な樹が内側から砕け散る。空へ。無数の光となって。舞い上がった。まるで。黒い雪だった。そして。戦場全体へ変化が起きる。ヴォイドが止まる。大型種が止まる。タンニーンが止まる。まるで糸が切れた人形のように。動きを失う。次の瞬間。崩れ落ちた。塵となって。風へ消える。兵士たちが呆然と立ち尽くす。


「……終わった?」


 誰かが呟く。そして。静寂。長かった戦いが。本当に終わった。その瞬間だった。


「うおおおおおおおおおおおおお!!」


 歓声が上がる。兵士たち。将校たち。龍たち。戦場の全てから。勝利の声が響いた。生き残った。守り切った。世界はまだ終わらない。その事実に。誰もが叫んでいた。一方。コアの目前。アカネは立っていた。いや。立とうとしていた。視界が揺れる。身体が重い。もう。指一本動かすのも辛い。


「終わった……」


 小さく呟く。そして。安心した。本当に少しだけ。気を抜いた。その瞬間。膝が折れた。


「アカネ!」


 遠くから声が聞こえる。サフィラだった。立てないはずなのに。這うように進んでいる。血だらけで傷だらけで。それでも。必死にこちらへ来ていた。


「馬鹿……」


 アカネが呟く。自分も似たようなものなのに。少しだけ笑う。そして。意識が遠のく。その時。巨大な影が落ちた。ユルムガンドだった。龍たちに支えられながら。ゆっくりと歩いてくる。白銀の鱗。その黒い浸食は。もう消え始めていた。


『終わったか』


 静かな声。アカネは頷く。


「うん」


『そうか』


 それだけだった。だが。どこか安堵しているようにも見えた。数百年。あるいはそれ以上。戦い続けた王。その役目も。ようやく終わったのだ。


『見事だった』


 ユルムガンドが言う。誰に向けてか。アカネか。サフィラか。あるいは二人ともか。分からない。だが確かに王は認めた。その時サフィラが辿り着く。息を切らして。傷だらけで。膝をつく。


「無事か」


 その言葉に。アカネは少し考えて。


「たぶん」


 と答えた。サフィラは額を押さえた。


「それは無事ではない」


 思わず笑う。アカネも少し笑う。ユルムガンドも鼻を鳴らす。そして。雪が降る。静かな雪だった。今までのような。凍てつく吹雪ではない。柔らかい雪。優しい雪。冬の終わりを告げる雪。誰も気付いていなかった。遠く。氷の山脈の一角から。ぽたり。と。一滴の雫が落ちたことを。春など来ないはずの大地で。初めて氷が溶け始めていたことを。サフィラの世界は。


 長い冬を越えようとしていた。



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