第22話 嵐の前
決戦まで一日。王都は静かだった。少なくとも表面上は。街には人がいる。商人が歩く。子供たちが走る。市場も開いている。いつも通りの日常。だが軍人たちは違った。皆忙しい。防壁の補修。弾薬の搬入。食料の備蓄。決戦へ向けて全てが動いていた。その頃。ヴァルター家の庭。
「暇だ……」
サフィラは再び呟いた。軍へ行けない。訓練も禁止。龍の谷へ行くのも禁止された。アーノルドが本気だった。完全に休ませる気らしい。
「暇だな」
「うん」
アカネも頷く。二人並んで東屋に座っていた。何とも締まらない光景だった。そこへパタパタと足音が聞こえる。
「お姉ちゃん!」
リリアだった。相変わらず元気である。
「何だ」
「買い物行こう!」
サフィラが固まる。
「買い物?」
「うん!」
「何故私が」
「休暇だから!」
またそれだった。最近そればかり言われている気がする。
「アカネさんも行こう!」
「いいよ」
即答だった。裏切り者がいた。結局。三人は街へ来ていた。王都中央市場。人で溢れている。リリアは先頭。アカネは後ろ。サフィラは護衛みたいになっていた。
「これ見て!」
リリアが店を指差す。髪飾りだった。色とりどりの装飾品が並んでいる。
「可愛い!」
「そうだな」
サフィラが頷く。すると。リリアが突然アカネを見る。
「アカネさん」
「何?」
「付けてみて!」
アカネが固まる。
「私?」
「うん!」
数秒後。白髪に小さな赤い花飾りが付いていた。
「……」
アカネが無言になる。その姿を見た瞬間。サフィラは思わず吹き出した。今までのアカネは。
どこか現実離れしていた。ヴォイドを斬り。コアを追い。龍王と対等に話す。そんな少女だった。だが今目の前にいるのは。花飾りを付けられて固まっているだけの女の子だった。少しだけ年相応で。少しだけ可愛らしくて。何だか安心した。
「似合うな」
「そう?」
「うん!」
リリアも満足そうだった。アカネはよく分かっていない。だが外そうともしなかった。帰り道。夕日が街を赤く染めていた。リリアは先に帰っている。今はサフィラとアカネだけ。静かな時間だった。
「サフィラ」
「何だ?」
「怖い?」
サフィラが足を止める。その質問は。龍の試練の前にもされた気がした。
「そうだな」
少し考える。
「怖い」
今度は素直に認めた。
「コアも怖い」
「負けるのも怖い」
「部下を失うのも怖い」
静かな声だった。軍では絶対に言わない。だがアカネには言える。
「でも行く」
「うん」
アカネが頷く。
「サフィラだし」
またそれだった。根拠になっていない。だが何故か安心する。不思議だった。その時。アカネがふと立ち止まった。赤い瞳が北を向く。
「アカネ?」
返事は無い。代わりに。アカネの瞳が淡く赤く輝いた。そして静かに呟く。
「エリス」
能力が発動する。
「パノラマ」
赤い光が瞳の奥で揺れた。サフィラは知っている。これは感知だ。アカネが遠くを見ている。目ではなく。もっと別の方法で。世界そのものを。視界が広がる。王都を越え。城壁を越え。雪原を越え。氷雪山脈を越え。まるで空の上から世界を見下ろすような感覚。広大な白銀の大地。吹雪く山脈。凍った湖。そしてさらに北。黒く染まった谷。黒氷の谷。そこには無数の存在がいた。赤い光。赤い瞳。赤い悪意。谷を埋め尽くすほどのヴォイド。その中心には。巨大な闇。コア。数秒。アカネは動かなかった。まるで遥か彼方を見下ろしているようだった。そして。
「見えた」
静かな声。サフィラの表情が変わる。
「何がだ」
「ヴォイド」
空気が変わる。さっきまでの日常が消える。軍人の顔になる。
「どこだ」
アカネは北を見る。氷雪山脈の方向。そのさらに向こう。
「黒氷の谷」
短く答える。そして。
「もう集まってる」
サフィラの背筋に冷たいものが走る。
「数は」
「多い」
アカネが僅かに眉を寄せる。珍しい反応だった。
「かなり多い」
嫌な予感がする。
「進軍しているのか?」
「まだ」
アカネは首を振る。
「でも準備してる」
その言葉にサフィラは息を呑む。アカネはさらに続ける。
「今の速度なら」
一度空を見る。計算するように。
「一日」
赤い瞳がサフィラを見る。
「一日で王都に届く」
決戦予定日と一致していた。つまり。予想は正しかった。だが。それは同時に。もう猶予が無いということでもある。サフィラは静かに頷いた。
「分かった」
その声に迷いは無い。休暇は終わりだ。軍へ戻る。準備を整える。守るために。戦うために。
「父上には後で謝るか」
小さく呟く。アカネが首を傾げた。
「怒られる」
「知っている」
サフィラは苦笑する。そして次の瞬間には。もう軍人の顔になっていた。
「軍本部へ行くぞ」
「うん」
二人は歩き出す。迫る戦いへ向けて。アカネが小さく呟く。
「始まる」
夕日が沈む。王都の空が暗くなる。そして。遥か北方。黒氷の谷では。無数の赤い瞳が闇の中で揺れていた。
軍本部へ到着した頃には。既に夜になっていた。王都の灯りが窓の外に広がっている。だが本部の中はまだ慌ただしかった。兵士が走る。伝令が飛び交う。参謀たちが地図を抱えて歩いている。戦いへ向けて動いていた。そんな中。サフィラは真っ直ぐ会議室へ向かう。そして。勢いよく扉を開いた。
「失礼します」
室内の視線が一斉に向く。アーノルド。レオン。ミリア。各師団長。参謀たち。そして皇帝。全員揃っていた。アーノルドの眉がぴくりと動く。
「サフィラ」
「はい」
「休暇中ではなかったか」
「終了しました」
「誰が許可した」
「私です」
即答だった。アーノルドが額を押さえる。レオンが吹き出した。ミリアも少し笑っている。
「後で説教だ」
「了解しました」
サフィラは敬礼した。全く反省していない。
◇
「報告があります」
会議室の空気が変わる。全員が真面目な顔になる。サフィラは隣を見る。
「アカネ」
「うん」
アカネが前へ出る。将校たちの視線が集まる。未だに正体不明の旅人。だが龍王を説得した人物でもある。無視できない。
「ヴォイドが動く」
短い言葉。将校たちが顔を見合わせる。
「根拠は?」
参謀の一人が聞く。
「見た」
沈黙。レオンが咳払いした。
「説明を省くな」
「難しい」
「頑張れ」
アカネが少し考える。そして。
「能力」
「黒氷の谷を観測」
「ヴォイド多数」
「コア確認」
「現在集結中」
会議室が静かになる。だが信じ切れてはいない。
当然だった。能力で遠くを見た。それだけでは証拠にならない。その時だった。扉が開く。伝令兵が飛び込んでくる。顔色が悪い。
「失礼します!」
全員が振り向く。アーノルドが立ち上がる。
「何だ」
「北方監視塔より緊急報告!」
空気が張り詰める。
「報告しろ」
「黒氷の谷周辺にて大規模ヴォイド集結を確認!」
会議室が静まり返った。伝令は続ける。
「数は不明!」
「現在も増加中!」
「進軍準備と思われます!」
沈黙。誰も喋らない。数秒後。ミリアが静かに言った。
「一致しましたね」
レオンも頷く。
「ああ」
「完全にな」
将校たちの視線がアカネへ向く。アカネは首を傾げた。
「だから言った」
それだけだった。皇帝が椅子へ深く腰掛ける。
「状況は理解した」
静かな声。だが重い。
「到達予測は」
ミリアが地図を見る。
「最速で明日夕刻」
「遅くとも明後日未明」
予想通りだった。猶予は無い。その時。アーノルドが口を開く。
「龍の戦力は」
サフィラが答える。
「二百」
未だに頭のおかしい数字だった。
「先行部隊は既に移動を開始しています」
将校たちがざわめく。
「間に合うのか」
「間に合います」
サフィラは断言した。何故なら。ユルムガンドがそう言ったからだ。あの龍王は約束を守る。それを知っている。
「ならば」
皇帝が立ち上がる。全員が姿勢を正す。
「防衛戦の準備を開始する」
静かな声だった。だが。誰も逆らわない。
「王都を守る」
「民を守る」
「そして」
黄金の瞳がサフィラを見る。
「コアを討て」
その言葉に。サフィラは敬礼した。
「必ず」
迷いは無かった。アカネも静かに頷く。決戦は近い。
もう。後戻りは出来なかった。会議が終わる頃には。王都全体が戦時体制へ移行し始めていた。
決戦まで。
あと半日。




