第19話 祝福の終わり
谷を龍たちの咆哮が満たしていた。祝福。歓迎.それは人間の拍手などとは比較にならない。何百もの龍が翼を広げる。吹雪が舞う。山々が震える。サフィラはその中心に立っていた。まだ実感が無い。本当に認められたのか。本当に届いたのか。だが。身体は覚えている。ドラゴンフォース。身体の奥で眠る新たな力。首筋に浮かぶ蒼白い鱗。氷龍の魔力。全てが現実だった。
『顔を上げよ』
ユルムガンドが言う。サフィラが顔を上げる。
『よくやった』
短い言葉。だが。それだけで十分だった。この一週間。何度折れそうになったか分からない。何度諦めかけたか分からない。それでも。立ち続けた。その結果だった。
「ありがとうございます」
サフィラが頭を下げる。珍しく素直だった。ユルムガンドは笑う。
『うむ、良い顔だ』
そして。その時だった。
「サフィラ」
声がした。アカネだった。いつの間にか近くまで来ている。
「何だ?」
サフィラが振り返る。アカネはユルムガンドを見ていた。真っすぐ。じっと。赤い瞳が龍王を捉えている。その表情を見て。サフィラの胸がざわついた。知っている。その顔を。戦場で何度か見た。ヴォイドを見つけた時の顔。コアを見つけた時の顔。
「アカネ?」
返事はない。代わりに。ユルムガンドが静かに目を閉じた。
『そうか』
龍王が呟く。
『もう隠せぬか』
谷の空気が変わる。龍たちがざわめく。サフィラの表情も変わる。
「何の話ですか」
ユルムガンドは答えない。巨大な身体をゆっくり起こす。そして。胸元へ視線を向けた。
鱗。その隙間。黒い霧のようなもの。以前より濃くなっている。サフィラの血の気が引いた。
「それは……」
見覚えがある。防壁。戦場。ヴォイド。あの黒い靄。似ている。いや。同じだ。
「まさか」
ユルムガンドが頷く。
『そのまさかだ』
谷が静まり返る。龍たちも黙る。
『余は侵食されている』
サフィラが言葉を失う。何を言われたのか。一瞬理解できなかった。理解したくなかった。
「嘘だ」
思わず口から出る。
「あなたが?氷龍王ユルムガンドが?」
『うむ』
龍王は笑う。だがその笑みはどこか寂しかった。
『余も生き物だからな』
『病にもなる』
『傷も負う』
『負けもする』
サフィラは拳を握る。納得できない。目の前の存在は。あまりにも強かった。あまりにも大きかった。だから。そんな姿を想像できなかった。
「いつからですか」
『数年前だ』
サフィラが息を呑む。数年。そんな長い間。
『見つけた時には遅かった』
ユルムガンドの瞳が遠くを見る。
『コアだ』
その言葉に。サフィラがアカネを見る。アカネは頷いた。
「ヴォイドの親玉」
静かな声。
「一つの世界に一体」
「そいつがヴォイドを増やす」
サフィラの背筋に冷たいものが走る。
ならば。今までの侵攻も。これからの侵攻も。全部。そいつが原因なのか。
『余は探した』
ユルムガンドが言う。
『手遅れになる前に、だが見つからなかった』
『見つけた頃には侵食が始まっていた』
龍王の巨大な爪が胸元へ触れる。黒い靄が揺れる。
『今はまだ抑えられている』
『だが永遠ではない』
サフィラが唇を噛む。その時。アカネが聞いた。
「どこ」
短い言葉。ユルムガンドが笑う。
『流石だ、話が早い』
そして。黄金の瞳が北を向く。山脈のさらに奥。誰も近付かない禁域。
『黒氷の谷』
その名前が響く。龍たちの表情が変わる。知っているらしい。良くない場所なのだろう。
『奴はそこに居る』
ユルムガンドが言う。
『この世界を蝕むコアがな』
風が吹く。吹雪が舞う。サフィラは静かに剣を握った。試練は終わった。だが本当の戦いは。
今始まろうとしていた。そして。ユルムガンドは二人を見て。どこか嬉しそうに笑った。まるで未来を託す相手を見つけたように。
その日の夜。龍たちの谷には重い空気が流れていた。試練が終わった喜びは消えている。代わりにあるのは緊張。そして怒り。龍たちはコアの存在を知った。ユルムガンドを蝕んでいる元凶。自分たちの王を傷付けている存在。許せるはずがなかった。巨大な洞窟。龍たちが集まっている。数は数十。その全てが長く生きた上位種だ。若い龍は入れない。王の会議だからだ。そして。人間が二人。サフィラとアカネ。場違いなほど小さい。だが誰も追い出そうとはしない。もう認められていた。
『黒氷の谷へ攻め込む』
銀龍が言う。
『今すぐだ』
『王を蝕む害悪を放置する理由は無い』
周囲の龍たちも頷く。だが。
『駄目だ』
ユルムガンドが言う。一言で空気が変わる。
『何故です』
『簡単だ』
龍王の瞳が細くなる。
『負ける』
静寂。誰も反論しない。出来ない。ユルムガンドがそう言うなら。それは事実だからだ。
『コアそのものは大したことはない』
アカネが顔を上げる。同意だった。自分の世界でもそうだった。問題は。
『周囲のヴォイドだ』
龍王が続ける。
『数が多い、多すぎる』
龍たちが黙る。ユルムガンドほどの存在ですら面倒だと言うほど。想像したくない。
『それに』
龍王の視線がサフィラへ向く。
『人間の国も守らねばならぬ』
サフィラが頷く。そこが重要だった。龍だけなら戦える。だが人間には街がある。民がいる。守るべき場所がある。防衛戦を放棄できない。
『ならどうする』
青龍が問う。誰も答えない。すると。
「一個ずつ」
声がした。アカネだった。全員が見る。
「一個ずつ?」
サフィラが聞く。アカネは頷く。
「まず防衛線は維持する」
静かな声だった。
「人も龍も守る」
龍たちが耳を傾ける。
「その間にヴォイド減らす」
「戦力を削るということか」
銀龍が確認する。
「うん」
アカネは頷いた。
「数を減らす、包囲を崩す」
「押し返す、コアを孤立させる」
短い言葉だが。先ほどまでとは違う。確かな意図があった。
「それから」
アカネの赤い瞳が細くなる。
「コア殺す」
洞窟の空気が張り詰める。
「終わらせる」
誰も笑わなかった。単純な作戦だ、だが。最も現実的でもあった。
『ふははは!』
ユルムガンドが笑った。
『実にお前らしい!』
龍たちも苦笑している。サフィラは頭を押さえた。
「アカネ」
「何?」
「もう少し説明してくれ」
「難しい」
「頑張れ」
アカネは少し考える。十秒ほど。かなり長い。そして。
「防衛戦は続ける」
先ほどよりも真剣な声だった。
「ヴォイドを街へ行かせない」
サフィラが頷く。
「そのために龍と人が前線を支える」
「うん」
「敵の数を減らし続ける」
「うん」
「十分に戦力を削ったら」
アカネは一度言葉を切った。全員の視線を受けながら。
「私がコアを倒す」
そこでサフィラが首を振る。
「却下だ」
即答だった。龍たちが少し驚く。アカネも首を傾げた。
「何で?」
「何でも何もない」
サフィラはため息を吐く。
「私はお前の隣に立つためにここへ来たんだ」
会議の空気が止まる。龍たちが面白そうな顔になる。アカネは気付いていない。ユルムガンドは笑いを堪えていた。
「だから」
サフィラは続ける。
「お前一人で行かせる気は無い」
「危ない」
「知っている」
「死ぬかも」
「知っている」
「私も死ぬかも」
「だから一緒に行くんだろう」
アカネが黙る。少しだけ。本当に少しだけ。困った顔をした。ユルムガンドが笑う。
『良い』
黄金の瞳が二人を見る。
『実に良い』
そして。巨大な身体を起こした。空気が変わる。王としての顔だった。
『ならば決まりだ』
龍たちが静まる。
『人間どもはコアを討つ』
『我らは防衛線へ加わる』
サフィラの目が開く。龍が。参戦する。それは歴史が変わる出来事だった。
『王よ』
銀龍が頭を下げる。
『我らも黒氷の谷へ』
『ならぬ』
即答だった。
『何故です』
ユルムガンドは静かに答える。
『お前たちは生きろ』
その言葉に。龍たちが黙る。
『余は長だ』
『だから最後まで残る』
『それだけだ』
誰も反論しなかった。出来なかった。その時。サフィラが立ち上がる。
「ユルムガンド」
龍王が見る。
「必ず戻ります」
真っ直ぐな瞳だった。
「コアを殺して」
「あなたも助けます」
龍王はしばらく黙っていた。そして。笑った。どこか呆れたように。どこか嬉しそうに。
『本当に、お前たちは人間らしいな』
そう言って。氷龍王ユルムガンドは静かに目を閉じた。その顔は。どこか安心しているようにも見えた。こうして。人と龍の連合軍は結成された。後に歴史書では。
**黒氷戦役の始まり**
そう記されることになる。




