第18話 龍王の傷
その日の夜。龍たちの谷は静かだった。昼間の喧騒が嘘のように。巨大な龍たちはそれぞれの場所で眠っている。岩山の上。氷河の上。洞窟の中。時折聞こえる寝息だけが響いていた。サフィラは数日ぶりの眠りだ無理もないだろう。今日だけで何度吹き飛ばされたか分からない。アカネは眠れなかった。別に珍しいことではない。昔からこうだった。眠れない夜は沢山あった。だから。一人で歩く。雪を踏む。谷を進む。そして。気付けば。ユルムガンドのいる場所へ来ていた。龍王は起きていた。巨大な身体を雪原へ横たえている。山だった。本当に。近くで見ると余計にそう思う。
「寝ないの?」
アカネが聞く。黄金の瞳が開く。
『お前もな』
「ん」
アカネは近くの岩へ座る。しばらく沈黙。雪が降る。風が吹く。そして。
「疲れてる?」
アカネが聞いた。ユルムガンドが少し黙る。
『ほう』
低い声。
『分かるか』
「なんとなく」
アカネは頷く。
『流石だな』
ユルムガンドは笑う。だが、どこか苦い笑いだった。
「病気?」
『違う』
「怪我?」
『違う』
「じゃあ何?」
ユルムガンドは空を見る。満天の星。そして。北の空。山脈のさらに向こう。誰にも見えない場所。
『腐っている』
静かな声だった。アカネの目が細くなる。
『この世界がな』
沈黙。風が吹く。雪が舞う。アカネは何も言わない。
『余は長く生きた』
『人間の王が何十代も変わるほどに』
『故に分かる』
龍王の瞳が遠くを見る。
『世界の悲鳴がな』
アカネは黙る。それは聞いたことのある話だった。自分の世界でも。同じだった。
『最近特に酷い』
『大地が軋む』
『空が泣く』
『命が腐る』
黄金の瞳がアカネを見る。
『お前は知っているのだろう?』
アカネは少し考える。そして。
「たぶん」
と答えた。
『ヴォイドか』
アカネが固まる。
『やはりな』
ユルムガンドは頷く。
『数年前から違和感はあった』
『そしてお前が来て確信した』
アカネは静かに聞く。
『お前は追っている』
『その災厄を』
「うん」
短い返事。ユルムガンドは笑った。
『なら余の勘は正しかったか』
そして。少しだけ寂しそうな顔になる。
『間に合わなかったな』
アカネが顔を上げる。
「何が?」
『余だ』
龍王が言う。
『もう長くない』
静かな言葉。だが。重い。アカネは黙る。
『寿命ではない』
『勘違いするな』
龍王が鼻を鳴らす。
『余はあと数千年は生きる』
「長い」
『だが』
その声が少し低くなる。
『コアがいる』
アカネの瞳が開く。
『余は奴を見つけられなかった』
『見つけた頃には遅かった』
ユルムガンドの巨大な胸元。そこに。初めてアカネは違和感の正体を見る。鱗の隙間。ほんの僅か。黒い何か。霧のようなもの。見間違いそうなほど小さい。だが。見覚えがある。
「侵食」
ぽつりと呟く。
『そうだ』
ユルムガンドが頷く。
『不覚をとった、余は既に喰われ始めている』
アカネの表情が消える。いつも以上に。感情が無くなる。それは。怒っている時の顔だった。
『その顔をするな』
ユルムガンドが笑う。
『まだ余は負けておらぬ』
「でも」
『まだだ』
龍王が言う。
『だからサフィラを鍛えている』
アカネが黙る。
『あの娘は強くなる』
『お前もそう思うだろう』
「うん」
即答だった。
『なら良い』
ユルムガンドは満足そうだった。そして。
『頼みがある』
アカネを見る。黄金の瞳。王の瞳。
『試練が終わるまで黙っていてくれ』
アカネは少し考える。数秒。
「分かった」
頷く。
『助かる』
ユルムガンドは目を閉じる。
『あの娘は優しい、知ったら試練を投げ出す』
それは間違いない。サフィラならそうする。だから。今は言わない。その時。ユルムガンドがふと笑う。
『しかし』
「?」
『あの娘、お前のことが随分好きだな』
アカネが首を傾げる。
「そう?」
『そうだ』
「分からない」
『だろうな』
ユルムガンドが笑う。アカネも分かっていない。サフィラも分かっていない。だから面白い。
『若いというのは良いものだ』
龍王はそう言った。アカネには意味が分からなかった。ただ。少しだけ。ユルムガンドの笑顔が優しく見えた。
試練は続いていた。七日目。龍たちは既に慣れている。今日も人間が吹き飛ぶのだろう。そんな空気だった。そして。実際吹き飛んでいた。
「がっ!?」
サフィラが雪原を転がる。岩へ激突する。立ち上がる。アブソリュートゼロ。回復。再び走る。もはや日課だった。
『しぶとい』
『本当にしぶとい』
『何度目だ』
『知らん』
龍たちが呆れている。だが。その時だった。ユルムガンドの瞳が細くなる。
『ほう』
サフィラ自身は気付いていない。だが。身体が変わり始めていた。頬。首筋。腕。蒼白い何かが浮かび上がっている。鱗だった。本当に小さい。だが確かに龍の鱗。谷がざわめく。
『まさか』
『人間だぞ』
若い龍たちが驚く。ユルムガンドは笑った。面白そうに。
『なるほど』
サフィラが走る。斬る。吹き飛ばされる。立ち上がる。そして。再びアブソリュートゼロ。蒼い光。その瞬間。谷中の雪が反応した。雪。氷。空気。全てが共鳴する。サフィラは気付いていない。だがユルムガンドには分かった。完成が近い。
『皇の娘』
龍王が呼ぶ。サフィラが顔を上げる。
『お前、この谷で何をしていた』
「……?」
質問の意味が分からない。
『答えよ』
サフィラは考える。
「戦った」
『他には』
「回復した」
『他には』
サフィラはさらに考える。
そして。
「魔力を吸収した」
ユルムガンドが頷く。
『そうだ』
巨大な翼が広がる。吹雪が舞う。
『お前は余の谷に居た』
『氷龍たちに囲まれ』
『氷龍の魔力を吸収し続けた』
サフィラの目が開く。言われてみればそうだ。毎日。毎日。毎日。吸収していた。
『そして、お前の能力は適応した』
谷が静まり返る。
『それがお前の力だ』
アブソリュートゼロ。生き残る力。環境へ適応する力。ならば。氷龍の魔力に適応した結果は。
『見せてみろ』
ユルムガンドが言う。
『お前自身を』
サフィラが息を吸う。身体の奥。今まで感じたことのない何かがある。温かい。いや。冷たい。矛盾した感覚。そして。自然と理解した。名前を。
「ドラゴンフォース」
瞬間。谷が震えた。蒼い魔力が噴き上がる。吹雪が巻き起こる。髪が揺れる。そして。首筋。
腕。肩。全身に蒼白い鱗が現れる。龍の鱗。氷龍の証。サフィラが目を開く。世界が違って見えた。雪の流れ。風の動き。魔力の流れ。全てが見える。
『ほう』
ユルムガンドが笑う。
『成功か』
サフィラが地面を蹴る。消えた。そう見えた。今までより遥かに速い。そして。剣が振り抜かれる。蒼い閃光。轟音。ユルムガンドの前脚へ傷が走る。今までより深い。明らかに。深い。谷が静まり返る。龍たちが目を見開く。そして。ユルムガンドは。大きく笑った。
『合格だ』
その一言。谷全体へ響き渡る。
『良くぞ辿り着いた』
サフィラが息を呑む。そして。膝をつく。疲労。安堵。達成感。全部が一気に押し寄せる。そんなサフィラを見て。
ユルムガンドは静かに頷いた。
『これよりお前は、氷龍の友だ』
何百もの龍たちが翼を広げる。谷が震える。祝福だった。そして。少し離れた場所で。アカネは小さく笑った。本当に小さく。誰にも気付かれないくらい。けれど。確かに笑っていた。




