第15話 試練
谷が揺れる。何百もの龍たちが見守っていた。誰も止めない。誰も助けない。試練だからだ。ユルムガンドがゆっくりと立ち上がる。それだけで地鳴りが起きた。巨大な四肢。巨大な翼。巨大な尾。圧倒的な質量。サフィラは剣を抜いた。喉が渇く。心臓が速い。それでも。視線は逸らさない。
『来い』
その一言。サフィラが地面を蹴る。一瞬で距離を詰める。氷の軌跡が雪原を走る。
「はあああああっ!!」
全力の斬撃。氷の魔力を纏った一撃。だが届かない。ユルムガンドは避けない。防がない。受けもしない。ただそこに居るだけ。剣が鱗へ触れる。甲高い音。火花。そして。終わりだった。
「っ!?」
斬れない。傷一つ付かない。次の瞬間。龍王の尾が動く。見えなかった。轟音。サフィラの身体が吹き飛ぶ。地面を転がる。岩へ激突する。骨が軋む音がした。
「がっ……!」
肺の空気が全部吐き出される。呼吸ができない。立てない。強い。そんな言葉では足りなかった。次元が違う。
『遅い』
ユルムガンドが言う。
『軽い』
『脆い』
事実だった。反論できない。サフィラは剣を支えに立ち上がる。血が流れる。腕が震える。それでも。
前を見る。
『ほう』
ユルムガンドの瞳が細くなる。少しだけ感心したようだった。
『まだ立つか』
「当たり前だ……!」
サフィラが叫ぶ。再び走る。氷を生み出す。無数の氷槍。吹雪。斬撃。全てを叩き込む。だが結果は変わらない。ユルムガンドは歩く。それだけ。氷槍が砕ける。吹雪が消える。斬撃が弾かれる。まるで子供だ。大人へ木の枝で挑んでいるような。そんな差だった。そして再び尾が振られる。今度はまともに入った。骨が砕ける。身体が宙を舞う。地面へ叩き付けられる。もう立てない。右腕が折れている。肋骨も何本か逝った。血の味がする。視界が滲む。そこでサフィラは笑った。
『何がおかしい』
龍王が問う。サフィラは血を吐く。
「まだ……死んでない……」
ユルムガンドの目が細くなる。そして。サフィラは呟く。
「アブソリュートゼロ」
空気が凍る。周囲の雪が蒼く輝く。魔力が集まる。折れた骨。裂けた肉。流れる血。全てが凍り付き。
そして再生する。龍たちがざわめいた。珍しい能力だった。サフィラは立ち上がる。傷は消えた。
呼吸も戻った。万全。そう。万全だ。
『それで?』
ユルムガンドが言う。静かな声だった。
『治ったな』
サフィラが剣を構える。
『だから何だ』
絶望的な言葉だった。事実だから。傷は治った。だが。実力差は一ミリも埋まっていない。何も変わらない。サフィラも理解している。それでも。剣を下ろさない。
『良い』
ユルムガンドが笑う。
『ようやく少し面白くなってきた』
龍王が一歩踏み出す。山が動いたようだった。圧力が増す。空気が重くなる。そして。黄金の瞳がサフィラを射抜く。
『では聞こう』
『何故そこまでして強くなりたい』
サフィラは息を呑む。その問いに。すぐには答えられなかった。家族。部下。民。守りたいものは沢山ある。だが。それだけではない。胸の奥にある。もっと個人的な理由。もっと身勝手な願い。ユルムガンドは見抜いていた。そして少し離れた場所で。アカネは静かにそれを見ていた。
何も言わず。ただ見守っていた。
『何故そこまでして強くなりたい』
谷が静まり返る。龍たちも黙っていた。試練を見守っている。サフィラは剣を握る。呼吸を整える。
だが答えが出ない。
「家族を守りたい」
最初に出たのはその言葉だった。
『うむ』
ユルムガンドが頷く。
「部下を守りたい」
『うむ』
「民を守りたい」
『うむ』
龍王は否定しない。だが黄金の瞳は変わらない。まだだ、そう言っている。
『それで?』
サフィラの眉が寄る。
「それで……?」
『それは理由の一部だ』
ユルムガンドの声が響く。
『嘘ではない、だが全てでもない』
サフィラが息を呑む。図星だった。
『お前は軍人だ、故にそう答える』
『そう答えるべきだと思っている』
言葉が刺さる。反論できない。それは確かに自分だった。
『だが、余が聞いているのは』
龍王の瞳が細められる。
『お前自身の願いだ』
サフィラが黙る。風が吹く。雪が舞う。そして。少し離れた場所。アカネが静かに見ている。その姿が視界へ入った。白髪。赤い瞳。世界を渡る旅人。自分より強い存在。ずっと前を歩いている人。
『言え』
ユルムガンドが言う。
『誰のためでもない』
『お前自身の理由を』
サフィラは拳を握る。そして。思い出す。初めて会った日のこと。防壁。絶望。終わりかけた戦場。そこへ現れた少女。あの日から。ずっと胸の奥に残っていた感情。憧れ。悔しさ。焦り。羨望。全部混ざった感情。
「私は……」
声が震える。龍たちが見ている。アカネも見ている。だが。構わなかった。
「私は」
サフィラは顔を上げる。黄金の瞳を見返す。
「置いていかれたくない」
谷が静かになる。初めて口にした。本当の気持ち。
「守りたいものはある」
「家族も」
「部下も」
「民も」
「全部本当だ」
だが。それだけじゃない。
「私は」
サフィラは視線を動かす。アカネを見る。ほんの一瞬だけ。
「アカネの隣に立ちたい」
風が止まる。雪が止まる。世界が静かになる。
「守られるだけじゃ嫌だ」
「追い掛けるだけも嫌だ」
「隣で戦いたい」
「同じ景色を見たい」
「だから強くなりたい」
全部言った。隠していたもの。格好つけていたもの。全部。吐き出した。沈黙。長い沈黙。そして。
『はっ』
ユルムガンドが笑った。氷山が崩れるような笑い声。
『そうだ、それで良い』
巨大な龍王は楽しそうだった。
『最初からそう言えば良いものを』
サフィラが顔をしかめる。
「簡単に言いますね」
『簡単なことだからな』
ユルムガンドは言う。
『誰かのため』
『世界のため』
『立派な理由だ』
『だが』
黄金の瞳が細められる。
『本当に強い者は』
『まず自分の願いのために立つ』
龍たちが頷く。それは彼らにとって当たり前なのだろう。
『良い』
ユルムガンドが立ち上がる。巨大な翼が広がる。谷に吹雪が走る。
『気に入った』
サフィラが息を呑む。
『ならば次だ』
「次?」
その瞬間。ユルムガンドの尾が動く。見えなかった。轟音。
サフィラが再び吹き飛ぶ。谷を転がる。岩へ叩き付けられる。
「がっ!?」
龍たちが笑う。ユルムガンドも笑う。
『心は折れなかった』
『なら次は身体だ』
黄金の瞳が輝く。
『立て、ここからが本番だ』
サフィラは血を吐く。そして。笑った。何故か。少しだけ。楽しくなってきたからだった。




