第14話 龍の国
龍の後を追い始めてから数時間。二人は山脈のさらに奥へ進んでいた。雪は深い。風も強い。
普通の人間ならとっくに遭難している。だが。先導する龍は止まらない。迷いもない。巨大な翼で空を裂きながら飛んでいく。
「まだ着かないのか?」
サフィラが聞く。返事はない。聞こえているはずだが無視された。
「嫌われてる?」
アカネが聞く。
「龍は元々こういうものだ」
たぶん。少し自信が無かった。すると。前方の景色が変わる。巨大な崖。そして。その先にあったものを見てサフィラは息を呑んだ。
「……っ」
谷だった。だが。ただの谷ではない。龍がいた。一体や二体ではない。十。二十。百。いや。もっとだ。巨大な龍たちが谷の至る所に存在している。岩山の上。氷河の上。空。洞窟。どこを見ても龍だった。白い龍。青い龍。銀色の龍。中には人間の家ほどもある個体もいる。そして。山より大きい個体もいた。
「……」
サフィラは言葉を失う。伝承では知っていた。だが。実際に見るのでは全く違う。圧倒される。まるで別の世界だった。
「すごい」
アカネがぽつりと言う。珍しく素直な感想だった。
「そうだな……」
サフィラも頷く。すると。谷のあちこちから視線を感じた。龍たちが見ている。二人を。特に。アカネを。
「見られてる」
「私もそう思う」
歓迎されている感じではない。品定めだ。そんな空気だった。すると。近くの岩山にいた銀色の龍が声を上げる。
『人間だ』
低い声。
『珍しい』
『皇の血か』
『あの短剣は本物だな』
次々と声が聞こえる。会話している。人間と変わらない。いや。むしろ人間以上に知性を感じる。アカネが空を見上げる。
「変」
「何がだ?」
サフィラが聞く。
「ドラゴンなのに話してる」
「だから話すと言っただろう」
「変」
アカネは譲らない。サフィラは苦笑した。その時。空気が変わった。谷全体が静まり返る。龍たちの会話が止まる。風も。音も。何もかもが止まったような感覚。そして。誰かが呟いた。
『長だ』
その瞬間。遠くの山が動いた。いや。違う。山だと思っていたものが動いた。
「……え」
サフィラが固まる。遥か彼方。氷山の頂上。そこに居た存在がゆっくりと首を上げる。大きすぎる。
比較対象がおかしい。周囲の龍たちですら小さく見える。山脈の主。五千の龍を統べる王。
氷龍王ユルムガンド。蒼白の瞳が開く。それだけで。世界が見られている気がした。サフィラは息を呑む。身体が震える。本能だった。強者を前にした生物の反応。圧倒的。ただそれだけ。そしてユルムガンドの視線が二人へ向く。まずサフィラ。次にアカネ。その瞬間だった。龍王の瞳が僅かに細められる。
『……なるほど』
谷全体に響く声。老いた王の声だった。
『妙なものを連れてきたな』
龍たちがざわめく。サフィラは理解した。まただ。下位の龍と同じ。ユルムガンドも。自分ではなく。アカネを見ている。アカネは首を傾げた。
「こんにちは」
龍王を前にして第一声がそれだった。谷の空気が凍り付く。何百もの龍が固まる。サフィラは頭を抱えた。だが数秒後。ユルムガンドは。笑った。まるで氷河が砕けるような重低音だった。
『面白い』
それが氷龍王ユルムガンドとアカネの初めての会話だった。
谷に静寂が落ちる。何百という龍が頭を垂れていた。巨大な翼を持つ龍。銀色の鱗を持つ龍。
氷のように青い龍。その全てが。一つの存在へ敬意を向けている。ユルムガンド。五千の龍を統べる王。その姿は圧倒的だった。巨大な四肢。山脈を削り出したような白銀の鱗。背から伸びる巨大な翼は広げれば雲すら覆い隠すだろう。長い尾は山肌を這い。黄金の瞳はまるで太陽のように輝いている。サフィラは息を呑む。伝承は知っていた。だが。実際に見るのでは全く違う。存在そのものが違う。まるで自然災害だ。王というより。世界の一部だった。
『面白い』
ユルムガンドが言う。低い声。だが谷全体へ響き渡る。
『皇の血を引く者』
巨大な瞳がサフィラを見る。
『久しいな』
サフィラは片膝をついた。
「氷龍王ユルムガンド、お目通り叶い光栄です」
ユルムガンドは鼻を鳴らす。吹雪が発生した。近くの若い龍たちが慌てて距離を取る。
『堅苦しい、余はそういうのが嫌いだ』
サフィラが少し困る。皇帝より偉そうだ。実際強いのだから仕方ない。
『顔を上げよ』
言われるまま顔を上げる。ユルムガンドの黄金の瞳が細くなった。
『ふむ、シュヴァリエの血か』
サフィラが驚く。皇帝家の名だ。
『面影がある』
どこか懐かしそうだった。
『昔はもっと生意気だった』
「陛下のご先祖様ですか?」
『うむ』
ユルムガンドが頷く。
『余の鼻先で剣を抜きおった』
「……」
『面白い男だった』
周囲の龍たちが苦笑している。どうやら有名な話らしい。そしてユルムガンドの視線が動く。アカネへ向いた。空気が変わる。先程までとは違う。探るような視線。
『して、妙な娘よ』
アカネが首を傾げる。
「アカネ」
『それは聞いた』
即答だった。周囲の龍たちがざわめく。龍王に対してその返答をする人間は初めてだった。
『余が聞いているのは名ではない、何者だ』
アカネは少し考える。難しい質問だった。
「旅人」
いつもの答え。ユルムガンドは沈黙する。長い沈黙。やがて。
『嘘は言っておらぬな』
そう呟いた。
『だが全てでもない』
黄金の瞳が細められる。
『お前、人間の匂いが薄いな』
サフィラの表情が変わる。周囲の龍たちもざわめいた。だがアカネは平然としている。
「そうかも」
否定しない。ユルムガンドが少し笑う。
『面白い、本当に面白い』
氷河が砕けるような笑い声だった。
『だが安心しろ、余はお前の秘密に興味はない』
そして。巨大な首がサフィラへ向く。一瞬で空気が変わる。先程までの穏やかさが消える。龍王の威圧。王としての顔。
『さて、皇の血を引く娘』
サフィラの背筋が伸びる。
『何を求める』
分かっている。ここからが本題だ。
「力を」
サフィラは答える。
「世界を守る力を」
ユルムガンドは黙る。黄金の瞳がサフィラを見つめる。まるで魂の奥まで覗き込むように。長い沈黙。やがて龍王は言った。
『嘘だな』
谷が静まり返る。サフィラが固まる。ユルムガンドの瞳が細められる。
『半分は本当だ、だが半分は違う』
龍王の口元が僅かに吊り上がる。獲物を見つけた猛獣のように。
『お前、もっと別の理由があるだろう』
サフィラの心臓が跳ねた。まるで見透かされたようだった。そして。ユルムガンドはゆっくりと笑った。
『良い、ならば試してやろう』
『心が折れるか』
『魂が折れるか』
『それとも最後まで立ち上がるか』
巨大な翼が広がる。吹雪が巻き上がる。何百もの龍が一斉に空を見上げる。
『試練を始めるぞ』
その言葉と共に。龍たちの咆哮が谷を揺らした。




