第13話 旅籠
旅籠へ入る。扉を開けた瞬間。暖かな空気が流れてきた。暖炉。料理の匂い。酒を飲む客たち。笑い声。戦場から遠く離れた日常だった。
「二名だ」
サフィラが受付へ声を掛ける。
「一泊お願いしたい」
女将が顔を上げる。そして。固まった。
「え?」
サフィラは嫌な予感がした。
「少佐殿!?」
やっぱりだった。サフィラは額を押さえる。
「久しぶりだな」
「な、何故こんな場所に……!」
「仕事だ」
女将も察したらしい。それ以上は聞いてこない。
「お部屋ですが……」
女将が少し困った顔をする。
「今日は商隊が多くてですね」
「うん?」
「一部屋しか空いておりません」
沈黙。サフィラが固まる。女将が申し訳なさそうに頭を下げる。
「本当に申し訳ありません」
アカネが首を傾げる。
「問題ある?」
「ある」
即答だった。
「何で?」
「何でと言われてもな……」
サフィラは説明に困る。アカネは本気で分かっていない。
「お前は客人だ」
「うん」
「だから同じ部屋では失礼ではないかと思ってな」
「?」
伝わらなかった。サフィラは頭を抱える。すると女将が苦笑する。
「別に構わないと思いますけどねぇ」
「私は気になるんだ」
「私は気にならない」
アカネが言う。それが一番困る。結局。空いている部屋は一つしか無い。他の宿へ移る意味も無かった。
「……分かった」
サフィラが折れる。
「今日だけだ」
「うん」
「絶対に変な意味で受け取るなよ」
「?」
「いや、忘れてくれ」
話せば話すほど墓穴を掘る気がした。女将は笑いを堪えている。アカネは最後まで何が問題なのか分からなかった。
◇
部屋は思ったより広かった。暖炉。机。窓。そしてベッドが二つ。さすがに一つではなかった。サフィラは少し安心する。
「よかった」
「何が?」
「ベッドが二つあった」
「?」
アカネはやはり分かっていなかった。そして。その日の夜。二人は初めて同じ部屋で過ごすことになる。
夜は静かだった。階下からは酒盛りの声が聞こえてくる。だがそれも遠い。部屋には暖炉の火が揺れていた。サフィラはベッドへ腰掛ける。
氷の短剣を机へ置く。そして大きく息を吐いた。久しぶりだった。こんな風に何も考えず休める夜は。
「……」
そう思った瞬間。向かいのベッドを見る。アカネが居ない。
「ん?」
部屋を見回す。窓際。そこにいた。椅子へ座っている。古びた端末を手に。静かに画面を眺めていた。
サフィラは何も言わない。何を見ているのか知っているからだ。妹たちの写真。家族の記録。失った世界の欠片。
「寝ないのか?」
サフィラが聞く。
「もう少し」
短い返事。予想通りだった。
「眠れないのか?」
「違う」
アカネは首を振る。
「見てるだけ」
静かな声だった。写真を見つめる赤い瞳はどこか遠い。サフィラは少し考える。そして立ち上がる。
窓際へ向かった。
「隣いいか?」
「うん」
二人で写真を見る。何度か見た顔だった。ヒヨリ。エルザ。エミリア。ルナ。エリス。そして蓮。
皆笑っている。アカネ以外。
「なんでお前だけそんな顔なんだ?」
サフィラが聞く。写真のアカネは少し不機嫌そうだった。今とあまり変わらない。アカネは少し考える。
「撮影嫌いだった」
「子供か」
「子供だった」
確かに。サフィラは少し笑う。すると。アカネが写真を拡大する。蓮だった。若い男。優しそうな顔。
少女たちに囲まれている。
「蓮か」
「うん」
「本当に大事だったんだな」
アカネは頷く。
「家族だから」
迷いの無い答え。サフィラはそれ以上聞かない。聞く必要が無かった。その時。アカネがふと顔を上げる。
「サフィラ」
「なんだ?」
「眠れないの?」
サフィラが少し驚く。
「分かるのか?」
「なんとなく」
アカネは言う。
「考え事してる顔」
「そんな顔してたか」
「うん」
サフィラは苦笑した。隠していたつもりだった。軍ではよく言われる。表情に出ないと。だが。
アカネには分かるらしい。
「まあな」
少しだけ本音を漏らす。
「考えてた」
「龍?」
「あぁ」
アカネは黙って聞いている。サフィラは窓の外を見る。降り続く雪。その向こうには氷雪山脈がある。
「怖いのかもしれないな」
ぽつりと言った。自分でも少し驚く。誰かに言うつもりは無かった。だが。アカネ相手だと何故か言えてしまう。
「怖い?」
「私は強くなりに行くんだ、そんなことは思ってられない」
静かな声。
「だけど本当に認められる保証はない」
「死ぬかもしれない」
「何も得られないかもしれない」
それが現実だった。龍王ユルムガンド。最強の存在。試練がどんなものかも分からない。
「うん」
アカネは頷く。否定しない。慰めもしない。ただ聞いている。それが妙に心地よかった。
「それでも行くんでしょ?」
アカネが聞く。
「行く」
即答だった。
「なら大丈夫」
サフィラが苦笑する。
「根拠は?」
アカネは少し考えた。数秒。そして。
「サフィラだから」
それだけだった。あまりにも雑な理由。なのに。不思議と嫌じゃない。
「それは励ましているのか?」
「うん」
「雑だな」
「難しいの苦手」
知っている。サフィラは笑った。本当に。この少女は変わっている。けれど。少しだけ肩の力が抜けた。
「ありがとう」
アカネは頷く。そして。
「寝る?」
「そうする」
サフィラは立ち上がる。明日は龍の領域へ入る。試練の始まりだ。だが今だけは。静かな夜だった。
暖炉の火が揺れる。外では雪が降り続いている。そして二人は知らない。明日の昼には。
人間を見下ろす巨大な龍と初めて対面することになるのだから。
翌朝。二人は旅籠を出発した。雪は止んでいた。代わりに空気が冷たい。肺の奥まで凍りそうなほどだ。街道もここで終わる。これより先は氷雪山脈。龍の領域だった。
「ここから先は人がほとんど来ない」
馬を進めながらサフィラが言う。
「そうなんだ」
「来る理由がないからな」
「ドラゴンいるし」
「だからその認識をやめろ」
サフィラは苦笑する。アカネはまだ警戒している。完全には信用していないらしい。
「この辺りの龍は基本的に人を襲わない、境界を超えない限りは」
「基本的に」
「そこを強調するな」
アカネは頷く。納得したようなしていないような顔だった。しばらく進む。すると。景色が変わり始めた。木々が消える。雪が深くなる。空気が重くなる。そして。アカネが足を止めた。
「アカネ?」
サフィラも馬を止める。アカネは前を見ていた。赤い瞳が細くなる。
「居る」
短い言葉。サフィラも気配を探る。だが分からない。
「どこだ?」
「上」
反射的に空を見上げる。その瞬間だった。影が落ちた。巨大な何かが太陽を覆う。轟音。暴風。雪が巻き上がる。馬が悲鳴を上げる。
「っ!」
サフィラが手綱を引く。次の瞬間。前方の雪原へ巨大な影が着地した。地面が揺れる。雪が吹き飛ぶ。そして現れた。龍。全身を蒼白の鱗で覆った巨大な飛竜。黄金色の瞳。人間など一飲みにできそうな顎。
アカネが無言で刀へ手を掛ける。
「待て!」
サフィラが慌てて止めた。
「敵じゃない!」
「本当?」
「本当だ!」
龍の黄金の瞳が二人を見下ろす。やがて。低く響く声が聞こえた。
『人間』
大気が震える。それだけで圧力だった。アカネは少し驚く。
「喋った」
「だから言っただろう」
サフィラは額を押さえた。
『何用だ』
龍が問う。その声に敵意は無い。だが歓迎も無い。ただ事務的だった。サフィラは馬を降りる。
そして片膝をついた。
「龍王ユルムガンドへの謁見を求めます」
龍の瞳が細くなる。
『理由は』
サフィラは腰の短剣を抜く。透き通る氷の刃。決して溶けない盟約の証。それを見た瞬間。龍の目が変わった。
『それは』
低い声。先程までとは違う。驚き。そして僅かな敬意。
『王の短剣か』
「はい」
『皇の血を引く者』
「はい」
龍はしばらく沈黙する。そして。視線をアカネへ向けた。空気が変わる。サフィラが気付く。龍が警戒している。
『……そちらは』
アカネが首を傾げる。
「アカネ」
『違う』
龍が即答した。サフィラが固まる。アカネも少しだけ驚く。
『名ではない』
『何者だ』
黄金の瞳が細くなる。今までより遥かに鋭い。獣を見る目ではない。災害を見る目だった。アカネは少し考える。何と答えるべきか。そして。
「旅人」
いつもの答えを返した。龍は沈黙する。数秒。十数秒。やがて。
『妙な人間だ』
そう呟いた。
『ユルムガンド様も興味を持つだろう』
龍が翼を広げる。吹雪が巻き上がる。
『ついて来い』
その一言。そして龍は空へ舞い上がった。巨大な翼が空を覆う。サフィラは息を吐く。思った以上に緊張していたらしい。
「よし」
アカネを見る。
「行こう」
「うん」
だが。龍が去った方向を見ながら。サフィラは少し気になっていた。先程の龍。あれは間違いなく。自分ではなく。アカネを警戒していた。




