第12話 西へ
出発の日。空はまだ薄暗かった。雪が降っている。吐く息は白い。ヴァルター家の前庭には二頭の馬が用意されていた。荷物は最低限。防寒具。食料。そして龍との盟約の証。氷の短剣。
「アカネ」
「……」
「アカネ」
「……」
「おい」
「起きてる」
起きていなかった。目が半分閉じている。馬にもたれ掛かっている。今にも寝そうだった。
「それを世間では寝ていると言うんだ」
サフィラは呆れた。
「少しだけ」
「少しじゃない」
「たぶん大丈夫」
「その台詞を聞く度に不安になるんだが」
アカネは首を傾げた。本気で分かっていないらしい。すると。
「お姉ちゃーん!」
リリアが走ってくる。朝から元気だった。後ろにはエレナ。そしてアーノルドの姿もある。
「見送りだ」
アーノルドが言う。
「ありがとうございます」
サフィラが頭を下げる。アーノルドは頷いた。
「ユルムガンドは甘くない」
「分かっています」
「死ぬな」
「善処します」
「そこは必ず生きて帰ると言え」
思わず笑ってしまう。少しだけ。本当に少しだけ。アーノルドも口元が緩んでいた。
その時。リリアがアカネへ飛び付く。
「アカネさん!」
「ん」
「帰ってきたらまた遊ぼうね!」
「うん」
「約束だよ!」
「約束」
リリアは満足したらしい。離れる。すると今度はエレナが前へ出た。
「アカネちゃん」
「何?」
エレナは少し微笑む。
「ちゃんと食べるのよ」
「食べる」
「ちゃんと寝るのよ」
「寝る」
「無茶しちゃ駄目」
アカネが少し考える。
「努力する」
サフィラが吹き出した。
「今のは無理だな」
「何で?」
「努力すると答えた時点で怪しい」
「そう?」
「そうだ」
アカネは納得していなかった。その様子を見て。エレナが小さく笑う。そして。アカネの頭を撫でた。
「行ってらっしゃい」
「……うん」
一瞬だけ。アカネの返事が遅れた。その理由は本人にも分からない。ただ。少しだけ胸が温かかった。
「母上」
サフィラが言う。
「何かしら?」
「私は子供じゃありません」
「知ってるわ」
「ならアカネにだけ言わないでください」
「あら」
エレナは楽しそうだった。
「だって心配なんだもの」
「それは私もです」
「だからアカネちゃんにも言ったのよ」
サフィラは返す言葉を失った。エレナには敵わない。昔からそうだった。
「サフィラ」
アカネが呼ぶ。
「何だ?」
「母親って面白い」
サフィラが固まる。エレナも少し目を丸くした。
「面白い?」
「うん」
アカネは真面目だった。
「よく分からないけど」
「優しい」
静かな声だった。エレナは何も言わない。ただ。少しだけ嬉しそうに笑った。サフィラも何となく分かる。アカネはまだ知らないのだ。母親というものを。だからこそ。今の言葉は本音だった。
「さて」
サフィラは空を見上げる。雪は止まない。西の空は暗い。その先に。氷雪山脈がある。龍の領域。ユルムガンドの住まう場所。
「行くぞ」
「うん」
二人は馬へ乗る。そして。西へ向けて走り出した。リリアが大きく手を振る。エレナも微笑む。アーノルドは静かに見送る。やがて屋敷が小さくなっていく。アカネは振り返る。そして。
「いい家族だね」
ぽつりと言った。サフィラは少しだけ笑う。
「そうだろう?」
どこか誇らしげだった。その顔を見て。アカネも少しだけ笑った。そして二人は雪原を進む。
氷龍王ユルムガンドの待つ北へ。
ヴァルター家を出発してから半日。二人は雪原を進んでいた。見渡す限り白。空も白。大地も白。
遠くに見える山脈だけが黒い影のように横たわっている。氷雪山脈。龍の領域。ユルムガンドの住処。
「寒くないのか?」
馬を進めながらサフィラが聞く。隣を見る。アカネは相変わらずだった。黒い外套。いつもの服装。
それだけ。防寒具らしいものをほとんど着ていない。
「平気」
「便利な言葉だな」
「?」
「いや何でもない」
サフィラはため息を吐く。自分は厚手の防寒着を着込んでいる。それでも寒い。なのにアカネは平然としていた。
「能力か?」
「たぶん身体」
「たぶんか」
「昔から」
アカネはそれ以上説明しない。本人にも理由が分からないのだろう。サフィラも深く追及しなかった。
今更だ。アカネには常識が通じない。それはもう十分理解している。
「そういえば」
サフィラが口を開く。
「前から気になっていたんだが」
「何?」
「世界はどうやって渡るんだ?」
アカネが少し考える。説明を考えているらしい。
「見る」
「見る?」
「行きたい場所を見る、飛ぶ」
沈黙。サフィラが空を見上げた。雪が降っている。なるほど。全く分からない。
「もう少し詳しく頼む」
「難しい」
「頑張れ」
アカネは少し困った顔になる。珍しい。
「パノラマで探す」
「うん」
「ブリンクで行く」
「うん」
「終わり」
「終わりじゃない」
即座にツッコミが飛ぶ。アカネが首を傾げる。
「だってそうだから」
「説明が雑すぎるんだ」
サフィラは額を押さえた。
「例えばだな」
「うん」
「私は剣術を説明しろと言われたらもっと説明する」
「切る」
「お前の説明はそれなんだよ」
アカネは少し考える。
「間違ってない」
「間違ってないのが困る」
サフィラは笑った。アカネも少しだけ口元を緩める。その時だった。前方から鈴の音が聞こえた。馬車だ。雪原をゆっくり進んでいる。商隊らしい。数台の荷車。武装した護衛。そして。
「あれ?」
向こうもこちらに気付いたらしい。一人の男が手を振る。毛皮の外套を着た大柄な男だった。
「旅人か!」
「そんなところだ」
サフィラが答える。すると男は近付いてくる。そして。サフィラの顔を見て固まった。
「え」
数秒。
「少佐殿?」
サフィラが少し嫌そうな顔になる。
「あー……」
知り合いらしい。
「久しぶりだなガレス」
男が慌てて敬礼する。
「な、何故こんな場所に!?」
「仕事だ」
「仕事で龍の山へ!?」
「詳しくは言えん」
ガレスは納得していない顔だった。だが軍人相手だ。それ以上聞かない。そして。視線がアカネへ向く。
「そちらは?」
「同行者だ」
「ほう」
ガレスがアカネを見る。白髪。赤い瞳。細い体。どう見ても少女。
「大丈夫なのか?」
思わず聞いてしまった。無理もない。すると。サフィラが少し遠い目をした。
「私より強い」
「……はい?」
ガレスが固まる。アカネは気にしていない。
「アカネだよ」
自己紹介する。
「ガレスだ」
男も名乗る。そして。少し笑った。
「龍の山へ行くなら気を付けてください」
「何かあるのか?」
サフィラが聞く。ガレスは頷いた。
「最近妙なんです」
「妙?」
「龍が降りてきてる」
二人の表情が変わる。龍。その単語に。
「見間違いじゃないのか」
「いや」
ガレスは首を振る。
「俺だけじゃない、他の商隊も見てる、しかも」
そこで言葉を切る。
「いつもより人里に近い」
サフィラが眉をひそめた。龍は基本的に人間へ干渉しない。
それは常識だ。だからこそ妙だった。
「何かあったのかもしれん」
ガレスが言う。
「まあ俺達には関係ない話ですがね」
商人らしい考えだった。危険なら近付かない。それが正しい。だが。サフィラ達はそうはいかない。
むしろ向かう先だった。
「情報感謝する」
「えぇ」ガレスが笑う。
「死ぬなよ少佐殿」
「善処する」
「だからそれやめろって」
思わずガレスがツッコんだ。サフィラは少し笑う。そして。二人は再び北へ向かう。吹雪の向こう。
遥か彼方。雲を突き刺すような巨大な山脈が見えていた。龍の領域は。もう遠くなかった。




