第10話 皇帝
翌日。
防衛軍本部。重厚な扉の向こうでは軍議が行われていた。長机を囲むのは各方面軍の将軍たち。
そして防衛軍上級大将アーノルド・フォン・ヴァルター。サフィラも末席に座っていた。コア出現から一日。会議室の空気は重い。
「つまり」老将クラウス・エーベルが口を開く。
「コアとやらを討たねば根本的な解決にはならん」
「その認識で問題ありません」ミリアが纏めた報告書を元にサフィラが答える。
「そして現状、それを討伐できる可能性があるのはアカネのみ」
「だが失敗した」
別の将軍が言う。
「逃げられた」
「はい」
サフィラは否定しない。事実だからだ。会議室が静かになる。コアを倒す。言うのは簡単だ。だが誰もその方法を持たない。すると。アーノルドが立ち上がった。
「方法はある」
視線が集まる。彼は机へ一本の短剣を置いた。透き通る氷の刃。決して溶けない青白い輝き。会議室がざわめく。
「まさか」「それは……」
知る者は知っている。皇帝家に伝わる秘宝。龍との盟約の証。
「龍へ協力を要請する」
静寂。誰もすぐには言葉を返せなかった。
「馬鹿な」「龍は不干渉だ」「聞く耳など持たん」
将軍たちが口々に言う。アーノルドは頷いた。
「その通りだ、だからこそ」
そして。重厚な扉が開いた。全員が振り返る。誰も呼ばれていない。誰も知らされていない。だからこそ驚いた。部屋へ入ってきた人物を見て。
「陛下……!?」
誰かが立ち上がる。全員が続く。この国の皇帝。
アレクシス・フォン・シュヴァリエ。
銀髪を後ろへ流した壮年の男。派手な装飾は無い。だがそこに立つだけで空気が変わる。
「楽にしろ」
穏やかな声だった。皇帝は席へ着く。そして机の上の短剣を見る。
「アーノルド」
「はっ」
「話は聞いた」
アーノルドが頭を下げる。
「陛下」
「龍との盟約の証」
「氷の短剣の使用許可を願います」
会議室が静まり返る。将軍たちですら息を呑む。それほど重い願いだった。皇帝は少しだけ考える。そして。サフィラを見る。
「ヴァルター家の娘」
「はい」
「お前が行くのだな」
「はい」
迷いなく答える。皇帝は目を細めた。
「理由は」
サフィラは少し考える。家族。部下。民。守りたいものは沢山ある。だが。真っ先に浮かんだのは。
白髪の少女だった。
「力が足りません」
静かな声。
「守るために、戦うために、もっと強くなる必要があります」
会議室が静かになる。
皇帝はしばらくサフィラを見つめていた。やがて。小さく笑う。
「良い目をしている」
そして。机の上の短剣を手に取る。
「許可しよう」
誰も声を上げなかった。だが。空気が変わる。
「ただし」
皇帝は続ける。
「龍は甘くない」
「知っています」
「死ぬかもしれん」
「それでも行きます」
即答だった。皇帝は満足そうに頷く。そして。氷の短剣をサフィラへ差し出した。
「知っての通りその短剣はあくまで交渉権だ、それを忘れるでないぞ」
「四日後、出発せよ」
「その頃には旅人も回復しているだろう」
サフィラは短剣を受け取る。冷たい。だが不思議と嫌な冷たさではなかった。まるで。何かに見られているような。そんな感覚だった。
その日の夜。
「アカネさん!」
リリアが勢いよく部屋へ飛び込んできた。アカネは本を読んでいた。正確には。読もうとしていた。
難しくて途中で止まっていた。
「何?」
「お風呂入ろう!」
アカネは少し考える。
「入る」
即答だった。リリアが喜ぶ。数分後。ヴァルター家の大浴場。湯気が立ち込める広い浴槽。既にエレナも入っていた。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
アカネが頭を下げる。律儀だった。そして。服を脱ぐ。リリアが先に固まった。
「……え?」
小さな声。続いて。エレナも言葉を失う。白い肌。細い身体。そして。そこに刻まれた無数の傷。肩。背中。腕。腹部。脚。切り傷。刺し傷。焼けた痕。砕けた骨の名残。一つや二つではない。数え切れない。アカネは気にした様子もなく湯へ浸かる。
「ふぅ……」
気持ちよさそうだった。リリアは呆然と立ち尽くす。
「アカネさん」
「何?」
「それ……」
アカネは自分を見る。
「ああ」
納得したように頷く。
「傷」
「見れば分かるよ!」
思わず叫ぶ。アカネは首を傾げた。エレナは何も言えなかった。母親だから。分かってしまう。
どれだけ痛かったのか。どれだけ苦しかったのか。本来なら。こんな年頃の少女が負うものではない。
アカネは湯へ肩まで浸かる。
「昔のだから平気」
平気。その言葉が。何故だか少しだけ悲しかった。エレナはそっとアカネの頭へ手を置く。
「?」
アカネが見上げる。エレナは優しく微笑んだ。
「よく頑張ったのね」
その言葉に。アカネは少しだけ目を丸くした。何故そんなことを言われたのか。分からない。でも。
嫌ではなかった。だから。
「うん」
小さく頷いた。それだけだった。
湯気が静かに揺れる。アカネは浴槽へ身体を沈めていた。暖かい。久しぶりだった。
こんな風にゆっくり湯へ浸かるのは。いつ以来だろう。思い出せない。
「気持ちいい?」
エレナが尋ねる。
「うん」
アカネは頷く。素直だった。エレナは微笑む。そして。もう一度アカネの身体を見る。
無数の傷。
古いものもある。新しいものもある。そのどれもが。この少女が生き残ってきた証だった。
「痛くなかった?」
自然と口から出ていた。アカネは少し考える。
「痛かった」
即答だった。エレナは少し驚く。もっと誤魔化すと思っていた。
「でも慣れた」
続いた言葉に。胸が少し痛くなった。慣れてはいけないものだ。本当は。だが。アカネにとっては違うのだろう。リリアも静かになっていた。普段ならもっと騒ぐ。だが今は。ただアカネを見ていた。
「ねぇ」
リリアが聞く。
「戦うの、怖くなかった?」
アカネは考える。少し長く。それから答えた。
「怖かった」
「じゃあなんで戦ったの?」
アカネは窓の方を見る。もちろん浴場から外は見えない。それでも。何かを思い出しているようだった。
「みんなが居たから」
「みんな?」
「うん」
ヒヨリ。エルザ。エミリア。ルナ。エリス。リン。そして。蓮。
名前は出さない。だが。アカネの中には確かに居た。
「一人じゃなかったから」
静かな声だった。リリアは頷く。全部は分からない。でも。大切な人の話なのだろうと分かった。その時。エレナが立ち上がる。
「アカネちゃん」
「何?」
「髪を洗ってあげる」
アカネが固まった。
「?」
意味が分からない。エレナは笑う。
「ほら」
「こっちへ」
「自分でできる」
「知ってるわ」
「?」
「でもしてあげたいの」
ますます分からない。アカネはサフィラを見る。助けを求めるように。サフィラは肩を竦めた。
「諦めろ」
「?」
「母上はそういう人だ」
エレナは既に椅子を用意している。逃げ道は無かった。アカネは大人しく座る。長い白髪が流れる。
エレナがそっと触れる。
「綺麗な髪」
「そう?」
「ええ」
指が優しく動く。泡が広がる。頭を撫でられる。アカネは少しだけ目を瞬かせた。不思議だった。
蓮に頭を撫でられたことはある。ヒヨリにもある。でも。何かが違う。優しい。暖かい。説明できない。
だけど。嫌じゃない。むしろ。少し眠くなる。
「……」
「どうしたの?」
エレナが聞く。アカネは少し考えた。
「母親ってこんな感じ?」
浴場が静かになる。サフィラも。リリアも。言葉を失った。エレナだけが。少しだけ悲しそうに笑った。
「そうね」
そして。アカネの頭を優しく撫でる。
「たぶんそんな感じよ」
アカネは頷く。よく分からない。でも。悪くないと思った。その夜。眠る前。アカネは珍しく夢を見た。研究所だった。まだ小さい頃。蓮が居る。ヒヨリが居る。みんな居る。そして。夢の中には。
見たこともないはずの女性がいた。優しく笑う。暖かな人だった。目が覚めた時。
アカネはその顔を思い出せなかった。ただ一つだけ。何故か。少しだけ寂しかった。




