第3章 波浪の盾 8
ライルは両手を結晶体に押し当てた。即座に奥底の魔動核が稼働を始め、結晶体と一体になった感覚になると、脳裏にイメージが浮かんだ。
広大なセオリツ湾を底から見通している感覚。海面では渦潮や大津波は小島程度であれば優に呑み込み、海中では乱れた海流が入り混じっている。
重くのし掛かるような海の圧は海岸に押し寄せる上に、遺跡と孤島にも吹き荒ぶ。加速度的に崩壊し続ける回廊を走るミレイユとアイン、孤島の海岸で波を持ち堪えているジェスト。海都では王国軍にも指示を出して、カエラが津波に対処していた。
だけど、そこに情け容赦のない大津波が襲い掛かる。
「っ……はぁっ!」
海都と孤島に手を伸ばす。薄いベール状の水結界を張り巡らせて、大津波を受け止めた。腹の奥底から激震する衝撃と、石像にでも重く押し潰されるような感覚を同時に持ち堪えて、ライルは頭をガクンと垂らした。
「……これは、きっついな……。何回も、受け切れないか……」
たった一撃受け止めただけで、気力を根こそぎ押し流された。それどころか、水の結界はライルの魔力と生命力を吸い上げて強度を保っている。
人々は安全を得たが、一時的に過ぎない。その上、ライルの背後で轟音と振動が走った。ちらりと見やれば、崩れて来た天井の一部が瓦礫となって積み上がり、海水が滝のように降り注いで来ている。
「時間もない、か。追い詰めやがって……」
うんざりとして、口数が増えながらも最低限の身の安全だけを確保して、結晶体に送り込む魔力を強めた。
水の結界を海都のみならず、セオリツ湾に面する海岸線に広げて、安全を確保。それから、改めてセオリツ湾を見渡した。
今、海を荒らしている原因は、マルクスの魔力に煽動されて、セオリツ湾中に拡散した《ゴーリェ・グラード》の魔力、そして術式だ。
それが制御を失ってなお、マルクスの恨みに従って暴走しているだけのこと。
「だったら、制御し直せばいいだけだ。俺なら、それが出来る。俺なら、出来る」
背後では天井の崩壊が続いていて、その破片がライルを囲む水の結界にヒビを入れた。どうやら特注の遺跡は、材質からして過剰な魔力を含んでいるようだ。
口の中に迫り上がった血を吐き捨てて、真っ直ぐと結晶体を見つめた。深く息を吸い込んで、魔力を押し流した。
ライルの魔力と深く同調した《ゴーリェ・グラード》の魔力が、セオリツ湾に伝播して、既に拡散した魔力を結び付いていく。
――そして、感情が流れ込んで来た。恨みが、怒りが、妬み嫉み僻みが、何かを徹底的に害そうとする悪意が。
ライルの魔力を押し除けて、むしろライルを乗っ取ろうとしてくる。
「っ………………」
腹の奥底をのたうち回り渦巻く悪意を感じて、再び血を吐いたライルは歯を食いしばって深淵を覗き見る。
それは深い深い絶望だった。助けてもらえなかった、助けられなかった、見捨てられた、見捨てた、傷付けられた、犠牲にした、殺された、殺した。その絶望が、《ゴーリェ・グラード》の魔力の根底だ。
「…………」
守護者としてやるべきことがある。人を助けるのは守護者の使命だ。こんな絶望に触れたとしてもそれは変わらない。
心を奮い立たせても、魔力を押し込んでも《ゴーリェ・グラード》を跳ね除けることが出来ない。ピシピシと亀裂の走る音が聞こえる。一向に歯が立たないのは、魔力の総力だけじゃない。
心のどこかで、共感してしまったからだ。その身に受け入れてしまった悪意に。
「……」
頭痛が響く。心臓は破れそうなほど脈動し、腹は捻じ曲げられ、四肢は引き裂かれたような痛みを叫ぶ。ライルを取り込まんと迫る巨大な悪意に、折れる--寸前。
崩れかけた身体が支えられた。後ろから半端抱き付くような姿勢で必死に支えているのは――
「ストラス、お前……! 何でここにいる! 父親を」
「父は地上まで送りました! 強引でしたが、後はアインさんに頼んであります!」
「だからって何で戻って来る⁉︎」
ライルの怒声にミレイユは大きく息を吸った。それが言い淀んだのではなく、主張の準備だとすぐに気付いた。
「だって、仕方ない、じゃないですか……! 助けなきゃって、思ったから!」
ミレイユの答えは簡素なものだった。理性もへったくれもない一時の感情に突き動かされただけ。
「全然戻って来ないし、海は大荒れのままだし、案の定ライル先輩はボロボロだし……!」
瓦礫の間を抜けて来たのか、濡れた衣服はボロボロで素肌は傷が目立つ。
「どの口がって、自分でも思いますけど……!」
それを気にも止めず、ミレイユはこれ以上なく真っ直ぐに朱色の眼差しを突き付けた。
「もう失いたくない……助けたいって思ったんです! 私が、あなたを!」
ライルの思慮も状況も経緯も、全て無視した自己主張。心の底から人を助けるだけの、熱意が注ぎ込まれる。
「……本当に、どの口がって話だ」
「す、すみません! でも」
「いい。謝るな」
端的な言葉でミレイユの謝罪を遮ったライルは、回廊に続く帰り道を見た。瓦礫が散乱した石床は、既に腰まで浸かるほど水没している。
「どうせ帰れって言っても帰れないしな。自分でここまで来たんだ。腹括れ」
「はい! 何でもします! 何でも言ってください!」
「何があっても倒れないように、そのまま支えてくれ」
「分かりました……!」
苦しいほどに、腹に回された両腕に締め付けられた。やり過ぎだと僅かに苦笑したライルは、静かに息を吐いて結晶体から離れかけた手を密着させた。背筋が凍るほど冷たい感触が伝わる。
(……絶望も、悪意も、全部俺が受け止めてやる。だから、この場は引いてくれ。その力を人を守るために貸してくれ)
「……一気に行くぞ、ミレイユ」
「はい!!!」
ミレイユの気合の入った返事に背中を押された。
「アドラス起動」
錬磨系統魔法は使用する媒体の特性を発展させる術式。使用者の意思を映し出す鏡だ。
今一度守護者の使命を胸に刻んで、ライルは命じた。
「【ゴーリェ・グラード】!」
言下に目の前の《ゴーリェ・グラード》が脈動した。結晶体内部の全魔力がライルを循環して回帰すれば、青色に輝いて結晶体の頂点から光芒となって拡散していく。
青色の魔力は海底遺跡から海へと放流され、波のようにセオリツ湾に瞬く間に広がる。
大波や渦潮で手が付けられないほど荒れ狂っていた海が、青色の魔力が脈動するたびに徐々に鎮まっていく。
やがて、青色に輝く魔力の放出が途切れた。その最後の一雫が渦潮を消し切ったのを感じ取ったライルは、ほっと息を吐いた。
「……終わった、んですか?」
「ああ、これで――」
穏やかな声音でミレイユに答えかけた直後、透明に澄み切った結晶体に大きく亀裂が刻まれた。ライルが結晶体から数歩退くと、亀裂は上から下まで届き、真っ二つに割れてしまう。
それと同時、宮殿の天井が盛大に崩落した。咄嗟に走らせた水流の傘で瓦礫は防ぐが、降り注ぐ海水が宮殿を水没させる。
「ライル先ぱ――!」
「捕まれ!」
叩きつけるような海水に流されて、手を伸ばしたミレイユの手を取って抱き寄せた直後、二人は海水に呑み込まれた。
(くそ……力が……。せめて……!)
急速に奪われていく意識の中、ミレイユだけでも、と微かに海面に伸ばした手が、暖かな水の流れに握られた気がした。




