異変5『無彩色』
東京駅八重洲口から少し南へ歩き、新富町のオフィス街に入る。俺はバイト帰りの足で、曇った街をぶらぶらしていた。
この辺りは、白や灰色のビルが多い。洗練された雰囲気が漂うが、歩いていると街の案内板やゴミ出しネット、飲み屋が外に置いた空き瓶のコンテナと、妙に生活感がある。
地べたをハトが歩き、電線でスズメが歌う。コンビニの看板にカフェのメニュー表、タクシーの広告と、雑多な色が、この街で暮らす人々の息遣いを感じさせる。
「さて、帰るか」
そう思って路地を曲がった瞬間、ふっと、世界から色が消えた。
「ん?」
目に映る全てが、モノクロになった。ビルの壁も、道路も、まるで古い白黒映画の中に迷い込んだような景色。空まで真っ白だ。
「異変っぽいな」
屋外での異変は珍しい。いつもは建物の中で閉じ込められる。でも今回は外だ。
「建物の中みたいに閉じ込められるわけでもないし、道を引き返せば戻れるかも」
早めに引き返せばいけるのではないか。と、来た道を戻る。しかし一歩踏み出すなり、ゴンッとおでこに衝撃が走った。
「痛っ!」
透明の壁にぶつかった。見えない。でも確かに、ある。
「なんだよ、これ」
俺は額を押さえながら、見えない壁を睨んだ。
たとえここが封じられたとしても、この路地は他にも分かれ道がある。
「じゃあ別の道から出ればいいか」
別の方向へ歩く。次の角を曲がって大通りに出ようとすると、再び見えないなにかに頭をぶつけた。ここも壁がある。懲りずに違う道へ行くも、また壁に阻まれる。遠回りになるが路地をまっすぐ行って奥の道路に出ようとするも、またもや壁に邪魔された。
「全部塞がれてる」
俺は色のない路地の真ん中で立ち尽くした。この異変の本質は、どうやら単にモノクロになるだけではないみたいだ。真にまずいのは、見えない壁に四方八方を封じられたことである。
モノクロの路地を見渡す。この範囲内には、いくつか建物がある。
「中はどうなってんだろ」
目に留まったのは、個人店の小さなラーメン屋だった。赤い暖簾がかかっているはずの店だが、今は灰色の布切れが垂れ下がっているようにしか見えない。
「人がいるかもしれない。入ってみるか」
俺は引き戸を開けた。鈴の音が揺れたが、音がしなかった。
店内に足を踏み入れて、俺は眉を寄せた。店内も完全にモノクロだ。カウンターもテーブルも、調味料のボトルも、メニュー表も、置かれた丼も、全部が白と黒の濃淡だけで構成されている。
そして人がいない。店主も客も、誰ひとりいない。
異変はいつもこうだ。知っている風景に見えて、実は全く違う場所であり、そこにひとりぼっちにされる。
俺はカウンターに近づき、調味料のボトルを手に取った。色がないと、なんとなくだが、味もしないのではないかと思う。
「色が消えるって、つまんないな」
俺は店内を一周し、入口へ戻った。異変からの脱出の方法を、考えなくてはならない。
「じゃ、とりあえず端から潰してくか」
俺は路地の端へ向かい、透明の壁に沿って歩きはじめた。音が、ない。車の走行音や人の話し声、工事の音も、常にどこからか聞こえていたはずの雑音が、全部ミュートされている。
「静かすぎて、気味が悪いな」
灰色のビル、灰色の道路、灰色の電柱。その間を、俺だけがぽつんと歩いている。透明の壁は、見えないくせに存在感だけはやたら強い。手を伸ばせば、硬く冷たい感触が返ってくる。
「こっちもダメか」
端から端まで、行けるところをひとつずつ確認していく。ラーメン屋の裏手の細い抜け道に回ってみても、透明の壁によって封じられていた。
何度か往復しているうちに、俺はとある電柱の位置に違和感を覚えた。
「あれ。ちょっと待って」
先程まではその電柱より先に壁があった。しかし今は、電柱まで行けない。それより手前に壁がある。
「気のせいか?」
もう一度、ラーメン屋の前まで歩く。最初にここをチェックしたときには店の前の歩道まで行けたのに、今は店の少し手前で壁にぶつかる。
ひゅっと、息を呑んだ。壁が、近づいてきている。透明の壁に閉ざされている範囲が、最初よりも狭くなっている。
壁はじわじわと押し寄せてくる。このままだと、行ける範囲はどんどん狭くなる。
最終的には、透明の壁に押し潰されるのではないか?
「急がないと、考えるスペースごと潰される」
無彩色の世界は、ただ静かなだけではない。ゆっくりと、確実に、俺の立っている場所を削りにきている。この異変には、タイムリミットがあるのだ。
以前の白石さんの言葉が脳裏をよぎる。
『一度異変に遭っても運良く帰ってきた人が、二度目の異変でも無事に帰れるとは、限らない』
『つまり、何度異変に見舞われても戻ってくる人 は……滅多にいないのです』
背中に冷たい汗が、じわりと滲む。
俺は浅く息を吸って、自分に言い聞かせた。
「急がないとまずい。でも慌てるな。考えろ……」
トン。背中に、透明の壁が触れた。壁が一層迫ってきている。焦りが、静かに胸の奥を侵食していく。
色のない世界で、恐怖が色づく。透明の壁は、じわじわと範囲を狭めてくる。俺は路地の中央で立ち尽くし、灰色の世界を見渡した。
「なにも思いつかない。やばい」
もしもこの迫りくる壁が、前後左右から俺の居場所を奪いきったとき、俺は。そうなったとき、誰も捜索願を出してくれないかもしれない。ただ、人知れず消えるだけ。
そうならないために異変からの脱出手段を考えないといけないのに、嫌な想像に頭のリソースを奪われて、思考も行動もままならない。
トン。背中に、透明の壁が触れた。足場が縮んでいく。「じわじわ」なんて生易しい速度じゃない。
「まずい……まずいぞ」
呼吸が浅くなる。考えても考えても、脱出の方法が思い浮かばない。
「範囲内を隅々まで調べるのか? そんな時間あるか? 効率的に調べるにはどこから……どうすりゃいいんだ……」
灰色の世界で、俺の声だけがやけに生々しく響いた。
そのときだった。ひゅっと、白い曇空を、1羽の鳥が横切った。広がっていた小さな翼な、茶色い。
「あれ……色、ある」
この世界はモノクロだ。建物も、道路も、全てが色を失っていた。でもあの鳥だけは、たしかに茶色だった。
「曇ってたから空も色がないと思ったけど……もしかして、上空には色がある?」
俺は空を見上げた。灰色の雲が流れていく。ビルの谷間を、スズメらしき小鳥が舞う。
「って、ことは」
透明の壁は見えない。だから形も分からない。でも、鳥に色があるということは、上空は無彩色の範囲外だ。
「天井は、開いてるんだ」
迫る壁の中で、かすかな希望が灯った。
「高いところまで行けば、壁を越えられる……?」
あの鳥は多分、スズメだった。スズメはせいぜい15メートルほど、つまり、5階建ての建物くらいの高さまでしか飛べない。
スズメがいた場所に色があったのなら、壁の高さは5階建てビルの屋上より低い。
その事実に気づいたら、俺の中でなにかがカチッと切り替わった。胸に込み上げていた焦りが、一気に行動力に変わる。
「出口、見つけた」
この路地はビル街だ。高さのある建物はいくらでもある。目の前にある寂れた雑居ビルも、見上げると5階まであった。建物の脇の細い路地には、むき出しになった外階段が見えた。
異変空間の中には人がいない。他所様のビルに侵入しても、誰にも怒られない。
「ここだ」
鉄の階段をガンッガンッと踏みしめながら、勢い任せに駆け上がる。
エレベーター、とも思った。でも見知らぬビルの中ですぐにエレベーターを見つけられるか、すぐに乗れるかと0.1秒考えて、階段の方がはやいと判断した。そもそも、異変の中のエレベーターなんて、まともに稼働するかも分からないし。
息が上がる。足が重い。でも、背後から迫る透明の壁の気配が、俺の背中を押した。
階段の途中で押し寄せてきたら、足場が消えて落ちる。想像しただけで背すじが冷える。
でも、そうなる前に上り切るのみ。
「絶対に間に合わせる!」
3階の踊り場で、外階段が途切れた。
「マジかよ……」
だが迷っている暇はない。俺は非常扉を押し開け、モノクロのビル内部へ飛び込んだ。人はいない。廊下も階段も、白黒の濃淡だけで構成されている。
「上だ、上へ行けば……」
無人のビルの暗い階段を、ひたすら駆け上がる。
「絶対に押しつぶされる前に……!」
やがて、最上階へ辿り着いた。突き当たりにはガラス窓から光が差し込む、扉がある。俺は疲れ切った足を引きずって、扉を押し開けた。
風が吹き抜けた。ひゅんと、顔の真横を、1羽のスズメが通り過ぎた。茶色い翼で風に乗って、屋上のフェンスを越えていく。
張り詰めていた緊張がふっとほどけた。息を切らす俺の呼吸が、風に溶けていく。
フェンスに近づき、下を覗き込む。モノクロの路地と、その外側の色のある街が、はっきりと線を引いたように分かれていた。
「あそこが境目か」
境界線は、まるで巨大な円柱のように街を囲っている。今俺がいるビルは、半分モノクロで、半分黄ばんだアイボリーの中途半端な外壁になっていた。
見えない壁がビルを侵食している。でも、俺はもう押し返されていない。あの壁は、このビルよりも低いのだ。
モノクロの範囲がみるみる小さくなっていく。一部の区画を囲むのみになり、真ん中あたりの建物数件だけになり、やがてそのまま消滅した。
屋上から見える景色は、色で溢れている。ビルの壁の薄いベージュ、道路のアスファルトの深いグレー、カフェの赤い看板、歩道の植え込みの緑。茶色いスズメが、フェンスから電線へと飛び移る。
俺は屋上のフェンスに手をかけ、大きく息を吐いた。
「いやあ、今回はギリギリだったな」
異変には慣れつつあるが、やはり慣れるものではないし、慣れていいものでもない。




