異変4『反転』
ブルーグレーの作業着、キャップ、滑り止め付きの軍手。
「さて」
キャップを軽く直し、ラインのあるフロアへ向かう。
今日の仕事場である工場の中は、常に機械音が響いていた。ガコン、ガコン、ガコンと、規則的な音が、眠気を誘う。同じラインには、何度か顔を合わせたことのあるバイト仲間がいた。
「三崎くんだ。久しぶり」
この現場に来るとたまに会う、顔見知りの大学生である。
「よう。今日は朝から?」
「そうだよ。でも午前中だけ」
「そっか。じゃあよろしくな」
今日のバイトは、工場のライン作業である。ここの工場の仕事は、空いた時間に滑り込ませるように参加できて、時間を埋め合わせたいときやちょっと金が欲しいときにありがたい。
現場の社員が指揮を執る。
「今日の担当はこのラインの検品です。流れてくる部品に傷がないか確認して、あったら横の箱に入れてください」
社員は淡々としながら、現場をしっかり見ている。俺はラインの前に立ち、軍手をはめ直した。
ガコン、ガコン……ベルトコンベアの上を、同じ形の部品が次々と流れてくる。ひとつ手に取り、傷がないか確認し、問題なければ流す。傷があれば、横の不良品ボックスへ。単純作業だが、こういう仕事は嫌いではない。
とはいえこうも同じ動きばかりの仕事は、眠気と戦う時間でもある。ガコン、ガコン、ガコン……ベルトコンベアの規則的な音が、意識をぼんやりさせてくる。右から左へ流れていく部品のチェック、それを延々と繰り返す。
同じラインの人たちが、交代で休憩に入っていく。壁には大きなデジタル時計が掲げられていて、どのラインにいても見えるようにいくつも配置されている。自分の休憩時間になったら、バイトは各々休憩室へと下がっていくのだ。
隣で作業していた大学生も、デジタル時計を見上げ、軍手を外した。
「三崎くん、俺ここまで。今日このあと授業あるから帰るわ」
「お疲れ」
「お疲れさーん」
彼は軽く手を振ってラインを離れた。その後も俺は淡々と作業を続けた。ガコン、ガコン……単調さに意識が溶けそうになった頃、ようやく昼休憩の時間になった。ラインを外れ、作業着のまま休憩室へ向かう。
休憩室には俺の他には誰もいなかった。休憩時間がバラバラだから、こうして誰とも被らずひとりになることもある。
自販機の横に置かれた給湯器で、カップラーメンにお湯を注ぐ。じわ、と麺がほぐれていく匂いが、
空っぽの休憩室に広がった。俺は硬いパイプ椅子に腰を下ろし、湯気の立つカップを両手で包み込む。
腹ごしらえと休憩を終えた俺は、再びラインに戻った。が、なにかがおかしい。
工場のフロアに、誰もいないのだ。先程まで並んで作業していたバイト仲間も、監督していた社員も、誰ひとりいない。
「えっ?」
俺は立ち止まった。休憩時間は交代制だ。ライン全員が同時に席を外すなんてありえない。
無人のフロアでコンベアが動いている。ガコン、ガコン、ガコン……機械音だけが、空っぽの工場に響く。
「嫌な予感」
俺はラインに近づき、ベルトコンベアの流れを見た。コンベアの向きが、休憩前と逆になっている。
俺は額を押さえた。さっきまで右から左へ流れていた部品が、左から右へ流れている。まるで、世界の向きが反転したみたいに。
俺は深く息を吐いた。
「またかよ……なんで俺ばっかりこんな頻度で……」
ガコン、ガコン、ガコン……コンベアが、まるで「仕事を続けろ」と言わんばかりに動き続けている。がらんどうの工場に俺のため息が吸い込まれていく。
反転しているのはコンベアだけではない。壁に貼られた安全ポスターの文字が左右裏返っているし、工具棚の配置が左右入れ替わっている。
「うわ、気持ち悪」
まるで世界そのものが鏡に映ったみたいだ。
異変の範囲はこの部屋だけなのか、建物全部なのか。分からないが、このフロアから出れば他に人がいるかもしれない。
フロアの出入り口の自動ドアに向かう。ドアがあるはずのところには、壁が俺の行く手を遮っていた。
一瞬ドアが消滅したかと思ったが、そうだ、左右が反転しているのなら、ドアの場所も逆なのではないか。
想像は当たって、本来と逆の位置にドアがあった。
「良かった、密室ではないみたいだ」
ここのドアは前に立てばセンサーが反応して開く自動ドア、なのだが、俺が近づく前から自動ドアはすでに開いていた。
「なんだ、開け放たれてるな」
開いているなら、そのまま出ればいい。しかしドアに駆け寄った途端、ウィン、とドアが閉まった。
「は?」
俺は数秒そこに立ち尽くし、そして後ずさった。ドアはまたスーッと開く。もう一度近づく。ウィンと閉まる。
「腹立つなー……」
この自動ドアは「開く・閉まる」の条件が反転している。普通は人が近づくと開く。今は人が近づくと閉まる。たしかにドアは左右に開くものだけど、そんな反転の仕方もあるのか。
フロアへの唯一の出入り口がこのドアだというのに、出口は目の前なのに、反転した自動ドアに阻まれて出られない。
「通せんぼかよ。離れると開くのがまた不愉快だな」
私物は全部、この自動ドアの向こう側の更衣室にある。スマホも財布も、連絡手段も、なにもかも外。今ここにあるのは、身ひとつと、このフロアの備品だけ。
自動ドアの開閉ボタンは外側にある。こちらからは操作できない。
「めんどくせえー」
思わず本音が漏れた。
「でもまあ、飯食ったばっかだから、しばらく腹減らないのはラッキーだったな」
腹が減ってたら多分もっと余裕がなくなって、冷静に分析できなくなっていたことだろう。
俺は工場フロアを見渡した。この『反転』の異変を、再び腹が減る前に突破したい。軍手の裾を引っ張り、機械音だけが繰り返される工場の中へ歩き出す。なにか、脱出のヒントになるものはないか。
「よくあるケースだと、コンベアの緊急停止ボタンを押すとか……あとは反転してないイレギュラーなものを探すとか」
脱出の方法を手探りしていく。
異変の中でエラーを起こすと、異変は立ち消えることが多い。今回で言えば、反転している流れそのものを止めてしまえば、右も左もなくなって反転もなくなるという考え方だ。
しかしコンベアの緊急停止ボタンは社員が管理していて、単発バイトの俺はどこにあるのかすら知らない。ボタンを探しつつ、反転していないものでも探してみるか。
工場フロアを歩き回りつつ、俺は5年前を思い浮かべた。
「前にもあったなあ、こういうの。大学の中が全部反転して……」
東京に引っ越してきたばかりの大学生の頃、初めて遭った異変。あれも、こんなふうに目に映るもの全てが鏡みたいに反転していた。
あのときは初めてだったから、今みたいに冷静になれなかったな、なんて懐かしくなる。いや、今だって異変には迷惑しているし、このまま戻れなかったら怖い、くらいの不安はあるが。
今ほど冷静でなかった当時の俺は、無人のキャンパスをただひたすら歩き回って、なにが起きているのかも分からず右往左往していた。最後は階段から落ちて、その衝撃で、気づいたら現実に戻っていた。あの頃は、異変なんて言葉すら知らなかった。
と、そこで俺は気がついた。
「ん? 2回目?」
そうだ、今回の異変は、初めて遭遇したあの異変によく似ている。あのときは学校で今は工場だから環境は違うが、概ね全てが左右反転という状況だけ見れば、全く同じではないか。
「マジか! 異変って毎回違うと思ってたけど、同じ異変が発生することなんてあるんだ」
同じ異変、いや、正確には「同じタイプの異変」だが、どちらにせよ珍しい。
いつもは異変ごとにルールが違うから、毎回観察して、その場で法則を見つける必要があったが、今回は既知の異変だ。
「ってことは、脱出方法も同じなのか?」
これは、今までにない検証のチャンスだ。似ている異変が発生したとき、脱出にも再現性があるのか否か。
もしも再現性が認められれば、今後はデータを集めれば集めるほど様々な異変に対抗できるようになる。
「よし、確かめて白石さんに報告するぞ」
俺は工場内の鉄骨階段を駆け上がった。大学生の頃の俺は、階段から足を踏み外して異変から帰還した。
わざと階段で転ぶなどと危ない方法は本来やりたくないが、異変に再現性があるのかどうかを確かめるには、これ以上に分かりやすい実験もない。
フロア内は左右は反転していれど、上下は反転していない。階段は正しい向きで上れるから、なんとなく俺の味方のような気分になる。
「行くか」
てっぺんまで上って、靴紐を結び直し、俺は段差を飛び降りた。ガンッと、靴の底から音がした。体が鉄骨の段差に打ち付けられる。ガラガラッ、ドサアッと、俺は段差を転げ落ちた。
背中を打ち、肘を擦り、最後はコンクリートの床に投げ出されて、ゴロゴロ転がって止まった。
「いってえ……!」
しばらく床で悶絶したあと、息を切らしながら、俺は顔を上げた。目の前の景色は——反転した工場のままだった。
「戻ってねえじゃん」
ゴウンゴウンと、反転したコンベアが部品を流している。
「再現性ないのかよ!」
ひとりツッコミが、無人の工場に虚しく響く。体のあちこちが痛む。
「アザできた……なにやってんだ俺」
無駄に階段を飛び降りて、無駄に怪我をしただけになってしまった。俺は肘をさすりながら立ち上がった。
「まあ、『似ているタイプの異変であっても、再現性はない』っていう実験結果が出た。うん、戻ったら白石さんに報告しよう」
開き直って結果を受け止めて、俺はまた地道な分析に戻る。
異変は、異変の秩序を乱すことで崩せる。これは俺の経験則に基づく。本来ないはずのイレギュラーを起こすのだ。
俺はコンベアの上に手を突っ込んで部品を掴み、無理やり流れを止めようとしてみた。ガガガガッと部品が軋んだ音を立てる。しかし、逆流するコンベアは俺の手を弾くように動き続けた。
「ダメか」
次の実験。左右反転以外の、違う形の反転を発生させる。
ラインから取り除いていた傷のある部品を、あえてコンベアに戻してみる。本来は取り除くものをラインに乗せるという、反転である。
しかし、コンベアは淡々と逆流を続けるだけだった。俺は頭を掻いた。
「今回は手こずってるな」
反転した世界は、ただ静かに、ただ淡々と、逆向きの秩序を維持している。
「どうすっかな」
俺は工場の中央に立ち、反転した景色をぼんやり眺めた。そのときふと、ある違和感が胸をよぎった。
「ん? あれだけ反転してない?」
天井近くに掲げられている、デジタル時計である。他のものはいずれも文字が左右反転して読みづらくなっているのに、あれだけは0521と数字が読める。
「5時21分……いや……」
今回は脱出に手こずってはいるが、昼を食べてからまだそんなに腹が減っていない。もう夕方5時、なんてことはないはずだ。
「あ、違う、逆だ」
デジタル時計は、縦横の7つの棒の組み合わせで数字を表している。そのせいで、「2」と「5」はそれぞれの左右反転の形をしているのだ。
「あれは、15時20分だ」
反転して文字が読みにくいフロアの中で、読めてしまう文字。でも、正しくはない数字。この反転のフロアの中で、あのデジタル時計は異質なものに見えた。
俺は再び鉄骨階段を上り、届きそうな時計に手を伸ばした。ちょんと触れた途端、ピシッと、氷に亀裂が入ったみたいな音がした。
手応えを感じた、その直後。
「あっ、いた! あんなところに」
鉄骨階段の下から、人の声がした。ハッと見下ろすと、作業着を着た中年……このフロアのラインの監督をしていた社員が、俺を見上げていた。
「休憩から戻ってこないって聞いて、捜したんだぞ。なにしてるんですか!」
「えっ!? あっ、すみません!」
下界では他の作業員たちが黙々と検品作業をこなしている。正しい方向に流れていくコンベアで、部品が転がされている。
どうやら、戻ってこられたみたいだ。
社員は口元で手をメガホン代わりにして、俺を叱責した。
「そんなところでサボってないで、降りてきてください!」
「え、ええ……理不尽な」
こっちは今の今まで異変に振り回されていたのに。でも事情を知らない社員の目には、俺は休憩から戻らずに、作業時間もこの階段の上でサボっていたやる気のないバイトに映る。異変のせいですなんて言い訳も通用しない。くだらない実験をしたせいで、まだ体も痛むし、最悪だ。
「サボった分は減給だよなあ……はあ」
俺は肩を落として、鉄骨階段をふらふらと降りた。




