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異変3『迷路』

 白石さんの呼び出しから、2週間ほど経った。


「おはようございまーす」


 都内にある中規模のオフィスビルで、俺はグレーの作業ズボンにポケットが多い薄手のブルゾン、首からは清掃会社のロゴが入ったネームプレートを提げて、エントランスを歩いていた。ゴム手袋と伸縮するモップ、予備の雑巾と洗剤の入った小さなバケツを引っ提げて、小綺麗な建物を行く。


 俺はコンビニだけでなく、清掃員の派遣バイト も掛け持ちしている。

 深夜のコンビニ、早朝の清掃、たまに夜のビルメン補助。生活のためというより、時間を埋めるために働いているようなところがある。


 朝の出勤時間を過ぎた半端な時間帯である今、ロビーには数人の社員が通り過ぎるだけだった。俺はエレベーターに乗り、今日の担当フロアへ向かう。

 エレベーターのドアが開き、どこにでもあるオフィスの廊下が俺の眼前に広がる。白い壁、グレーの床、規則的に並ぶドア。ミニマルな色使いでまとまった空間の中でやけに目立つ、煌々と光る緑の非常口印。


「じゃあ、始めるか」


 モップを肩に担ぎ、俺は早速作業に入った。


 清掃バイトは、コンビニとは違って人と話す必要が殆どないのが気楽だ。ただ黙々と、決められた場所をきれいにしていく。

 とはいえ、オフィスビルの清掃にはそれなりのルールがある。例えば、社員専用エリアには入れないとか、機密室やサーバールームは立入禁止、ゴミ箱は中身を見ないのが鉄則だとか。ワックスがけのときは、人の動線を塞がないとか。こういう細かい決まりを守らないと、すぐにクレームが来る。


「お疲れ様です」


 廊下で社員とすれ違うたび、俺は軽く会釈した。清掃員はビルの空気の一部みたいな存在だから、挨拶だけはちゃんとしておく。それだけで、余計なトラブルを避けられる。

 モップを床に滑らせ、作業を進める。角、扉の前、コピー機の周り、給湯室の床。こういう汚れが溜まりやすい場所を狙って掃除する。


 俺は廊下の端まで、丁寧に床を磨いていった。清掃は集中すると時間が飛ぶ。汚れの筋を見つけては拭き、カーペットの毛流れを整え、扉の前の埃を払う。


「と、突き当たりか」


 いつの間にか廊下の端に到達していた。折り返そうと振り返ったとき、ふと違和感が胸に引っかかった。

 人の気配がない。ここまで何人かの社員とすれ違ったはずだ。しかし集中しているうちに、使っている人があんまりいないエリアにまで踏み込んだみたいだ。足音も、話し声も、コピー機の作動音も、聞こえない。

 窓から差し込む光は明るくて、空気がやけに透き通っている。


 俺はモップを引きずりながら来た道を戻った。しかし、数10メートルは歩いたはずなのに、また同じ突き当たりに戻ってきた。


「えっ? いやいや、そんなわけ……そういや途中に角があったな。あそこを曲がってきたんだったかも」


 道を間違えたのかと思い、今度は曲がり角を曲がってみる。すると、そこには見覚えのない分岐が現れた。左にも右にも廊下が伸びている。こんな構造だったか?


「やべ。建物の中で道に迷った」


 こんなオフィスビルで迷うなんて情けない。人に道を聞こうにも、そもそも人がいない。とりあえず誰かを探そうと、近くの扉を開けた。


「すみません、どなたか……」


 口を開いて、俺はそこで絶句した。

 扉の先に、そこから、また別の廊下が延びている。


「え?」


 扉の向こうには部屋があるはずだろう。なんでそこから先も、また廊下なんだよ。

 振り返ったら背後に、なかったはずの階段が出現していた。背中のあたりが、じわりと冷える。


 このフロアに降りた当初、廊下はただの一直線だった。それが今は分岐が増えているわ、壁にめり込むようにして階段が伸びているわ、訳が分からない。

 廊下の奥は二手に分岐している。今しがた開けた扉の向こうも、ここから見えるだけでも3箇所分岐している。俺はモップを握って、しばらく呆然と立ち尽くした。普通のオフィスビルだった場所が、気づけば巨大な迷路に変わっている。

 ひとまず、隣の扉にも手をかけて開けてみる。そこも、これまた同じような天井と床と壁の別の廊下が延びていた。こちらもやはりそこかしこで分岐している。


 異変はいつも、音も気配も前触れもなく、突然やってくる。


「さて、どう攻略するか」


 突如出没した階段を睨みつける。下り階段はない。上りだけ。上へ行けと強制されているような気分になる。

 この階段は上っていいものなのか。いや、まだやめておいた方がいい。まずはこの異変の性質を観察して、判断材料を増やす方が先だ。


 廊下の壁、天井の照明の並び。どれも普通のオフィスのままなのに、振り返った瞬間だけ構造が変わる。階段も目を離した隙に消えるかもしれない。


「一応、目印はつけておくか」


 俺はバケツの中から洗剤スプレーを取り出した。床に向けて、シュッ、シュッ と洗剤を吹きつける。床に泡の跡が残る。

 こうして自分が歩いた痕跡を残せば、それを辿れば元の位置に戻れる。迷路異変の観察の第一歩だ。


 俺はそのまま廊下を進み、角を曲がる。そして、

もう一度振り返った。


「あ!」


 吹きつけた洗剤の跡が、消えていた。いや、正確には跡があるべき場所そのものが消えていた。代わりに、先程と違う方向に廊下が伸びている。


「見てない隙に形が変わるから痕跡も残せないのか。くっそ、厄介だな」


 俺は洗剤スプレーを握り直した。

 異変はいつも、観察と実験で突破口を見つける。だったら、片っ端から試していけばいい。


 モップを肩に担ぎ直し、目の前に広がる分岐を見比べる。

 一旦右に曲がって廊下を10メートルほど進み、角を曲がる。そして振り返る。曲がり角は消えていた。代わりに、さらに長い廊下が奥へ奥へと伸びている。そして分岐点が増えている。

 これはあくまで俺の感覚だが、歩けば歩くほど、道が伸びて分岐が増えている気がする。迷うほどに迷路は増幅し、出口が遠ざかる。

 ぐるぐると歩き回っているうちに、床に泡が点々と落ちている場所に出た。


「あ、これさっき俺が吹き付けたやつだ」


 覚えがある場所に戻ってきたようだ。同じ色の廊下がずっと続いているせいで感覚がなくなっていたが、こうやって同じ場所に戻ることもあるみたいだ。

 では、と思って今度は違う方向に進んでみたが、振り返ったら先程の泡はもう見えなくなっていた。

 進路を変えるたびに、廊下は伸び、分岐は増え、まるでビルそのものが肥大化していく。


「選択肢を選ぶほど悪化してねえか」


 俺はモップの柄を壁にトンと当てた。


「さっき一度通った場所に戻った……ってことは、目印を増やせば道を把握しやすくなるのか?」


 周囲を見渡してみる。壁の模様、床の継ぎ目、天井の照明、消火器の位置。そういったものをなるべく覚えながら歩みを進めていく。

 しかしどれも、振り返るたびに消えるし、再び現れたところで道が変わっているからなんの目印にもならない。


「だめだ、覚えても意味ねえ。全部信用できねえな」


 ふと視界の端に緑色の光が入った。非常口のピクトグラムである。駆ける人のマークと、その横にある矢印。


「こんなに道が変わるビルで、非常口の案内なんて信用できるかよ」


 非常口のピクトグラムは、本来、非常時に正しく脱出するための案内だ。だが、この異変の中では、

ただの壁の模様に過ぎない。どうせあれも、覚えたってすぐに位置が変わる。

 とはいえ、今は検証を重ねていく段階だ。矢印を見れば、それに従ってみるのもひとつの検証である。


「ものは試しだな」


 俺は矢印の指す方向へ歩き出した。数10メートル進み、角を曲がる。そして振り返った。


「あれ?」


 通ってきた道が、変わっていない。今の廊下がそのまま残っている。分岐も増えていない。


「マジかよ」


 俺はもう一度、非常口マークを探す。すると、先程と同じ方向を指す矢印が、まるで「ここだ」と言わんばかりに光っていた。


「なんか、分かったかも」


 俺は仮説を立てた。この迷路は、道を間違えると分岐が増えて、どんどん肥大化していく。逆に、非常口の矢印に従って正しい方向を選ぶと、空間が変形しない。

 迷路の攻略法が、ぼんやりと見えてきた。


「案外、楽勝かもしんないな」


 見えている答えに従うだけなら、難しくない。これが罠だったら怖いけれど。


 ここまでの検証で、道を覚えても無意味、痕跡も残せない、分岐は無限に増えるということが分かった。でも、非常口の方向だけは固定されている。


「よし。もうこれだけ信じる」


 俺はモップとバケツをぎゅっと握り直した。

 非常口の矢印が指す方向へ歩き出す。廊下が変わっても、階段が増えても、扉の先が別のフロアに繋がっても、非常口のピクトグラムの向きだけを信じて進む。それ以外の情報は全部ノイズだ。


「こっち……で合ってる」


 角を曲がるたび、新しい廊下が現れる。ひたすら真っすぐ行くと、次の非常口の矢印が出てくる。


 もしもこの矢印に従った結果、異変の最奥部に案内されてしまって、二度と戻れなくなったらどうする?

 そんな嫌な想像も、しなくはない。けれど、今のところこれに従う以外にないから、行くしかない。


 俺は緑の矢印に沿って歩き続けた。

 そして――。


「ん……?」


 なにか、聞こえる。遠くから、人の声が聞こえる。

 無音だったビルの中に、音が帰ってきた。足が軽くなる。コピー機の音、誰かが歩くヒールの音。は、と、口から息を吸った。

 どこからか聞こえる社員の話し声が聞こえる。廊下の奥を、スーツの男性数人が通り過ぎていった。


「戻った……」


 どこから切り替わったのかは分からないが、異変を抜けたみたいだ。普通の世界の音がする。

 俺はゆっくりと振り返った。背後にあったはずの迷路は跡形もなく消えて、一本道の廊下と突き当たりの壁が見える。

 俺は大きく息を吐いた。安堵のため息が、オフィスビルのざわめきに溶けていった。

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