異変2『環状線』
朝のラッシュがひと段落した時間帯でも、都内の主要駅を回る環状線は、常に人で混み合っている。
スマホのロック画面に、時計が表示されている。10時25分。
この時間は満員ではないけれど、立っている人がちらほらいる程度には賑やかだ。車内には、スーツの擦れる音、スマホを操作する指のタップ音、どこかの席で小さく流れている動画の音漏れと、誰もが無言なのに様々な音に溢れている。
俺はドア横のスペースに寄りかかりながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。特になにを考えるでもなく、ただ、「早く着かねえかな」くらいの気持ちで、線路に合わせて体を揺さぶられている。
目の前の吊り広告には、新作スイーツ発売だの、資格取得キャンペーンだの、どうでもいい情報が並んでいる。俺はそれを視界の端で追いながら、ただ揺れに身を任せていた。
電車が駅に着いて止まり、ドアが開いた。人が降りて、また別の人が乗ってきた。車内はひっきりなしに人がいる。
東京とは、そういう街だ。
常にたくさんの人がいて、密着しそうなくらい近くに人がいるのに、良くも悪くも誰もが他人に関心がない。
だからこそ、どんな人間にも居場所がある。
その冷たいように見えて冷酷でもない温度が、俺にとっては息がしやすい。
また駅に止まる。人が降りて、人が乗る。
この路線では2、3分ごとに駅に止まる。短いスパンで人が入れ替わっていく。電車が走り出して、また駅に止まる。それを何度か繰り返すうちに、車内の空気が少しずつ軽くなっていく。
ふと気づくと、俺の前の席が空いていた。その空席に腰を下ろす。次の駅でも、何人かが降りて、乗ってきたのはひとりだけ。その次の駅でも、降りる人が多くて、乗ってくる人はいなかった。
いつの間にか、車内のざわめきが薄くなっている。スーツの擦れる音も、スマホのタップ音も、動画の音漏れも、だんだん遠ざかっていく。
今日は空いてるな、と口の中で呟く。満員よりは空いている方がストレスがないから、空いているぶんにはありがたい。
「次は、渋谷、渋谷」
車内アナウンスが案内する。また、駅で止まり、人が降りた。
気づいたら、車内には、俺ひとりしかいなかった。立っている人はもちろん、座席にも誰もいない。つり革が、静かに揺れだけを残している。
「え、珍し」
空いている時間くらいはあったとしても、渋谷で誰もいないなんてことがあるか? いつも利用者がいるこの路線でここまで人がいないなんて、奇跡みたいである。
「まあ、こんな日もあるか」
偶然が重なれば、そんなこともあるだろう。俺は頭上の液晶ディスプレイを見上げた。目的地まで、あと何駅だったか。
だが、ディスプレイには料理番組が流れている。
「あれ?」
おかしい。車内のディスプレイは複数あるうち、ドアの上にあるものは路線図が表示されているはずなのに、そこも料理番組の映像になっている。
「なんだ、不便だな。けど、さっき渋谷を通り過ぎたから、次は恵比寿か」
次の駅を待つ。カタンカタンと、電車が揺れる。
次の次が降車駅だ。早く着かないだろうか。座席に沈み込んで、止まるのを待つ。カタンカタンと、定期的なリズムに揺られ、ひたすら待ち続ける。
「……長くね?」
この路線では、2、3分のうちに次の駅に着くのに、さっきから全然止まらない。
俺は窓の外を見た。住宅街を抜けて、商業ビルの並ぶ区間に入って、その先の高架に差し掛かって、それでも、駅のホームが見えてこない。
次の駅が、いつまで経っても来ない。
電車は一定の速度で走り続けている。揺れも普通。車輪の音も普通。ただ、駅に着かない。
「あ、これ」
数分前までの普通の日常の景色が、いつの間にか形を変えている。俺は吊り革の揺れを見つめながら、小さく息を吐いた。
「これ、もしかして」
ドア上の液晶ディスプレイは新宿の肉とワインの店の映像を流している。路線図は表示されない。
俺は、立ち上がって隣の車両へ移動した。連結部を開けたその先にも、誰もいなかった。座席も、つり革も、人がいた気配すらも残さずきれいに空っぽだ。
もうひとつ隣の車両へ移る。そこも無人。さらに前へ進んで、運転席の窓を覗き込む。運転士すらいない。ハンドルも計器も、まるで最初から誰も触れていないみたいに静かだった。
「あー、はいはい」
俺は額を押さえた。疑惑が確信に変わった。これはもう、完全に異変だ。
怖いとか、焦るとか、そういう感情はあまり湧いてこなかった。代わりに湧いてきたのは、シンプルな怒りである。
「だる。これから予定あるのに」
なんで異変ってやつは、いつもこっちの都合を無視してくるのか。傍迷惑な現象である。
「くそ、戻せ」
悪態をつきながら非常通報ボタンを押してみたが、ボタンは静かに沈み込むだけで、音も鳴らなければ電車も止まらず、当然ドアも開かず、なにも変わらなかった。
俺は車内を見渡した。どこかに日常と異変の境界がある。どこかに、元の軸に戻る糸口があるはずだ。
一見閉じ込められているように思えるこの止まらない電車の中に、必ず出口がある。それを見つければ、いつもの日常に戻れる。異変からの突破口を探すために、無人の車内と、異変そのものを観察する。
窓の外で景色が移り変わる。ビル、マンション、首都高。いつもの環状線で見慣れた都会の風景が流れている。だが、同じ景色を繰り返している。
どこかで見たような気がする景色だが、具体的な地名は浮かばない。言ってみれば漠然とした架空の都会、といった風景が、無限にループしている。環状線の窓から見える記憶を、雑に混ぜた風景を、延々と再生しているみたいだった。
俺はドア横の手すりに寄りかかった。スマホのロック画面には、現在の時刻、10時41分と表示されている。先程まだ車内に人がいた時点では、10時25分だった。
この環状線は、概ね1時間で一周する。本来ならもうすぐ半周するくらいの時間を、俺はこの止まらない電車の中で過ごしたみたいだ。
画面を見ているうちに、1分経って12分の表示に切り替わった。
電波は死んでいる。画面の端では、圏外の表示が遠慮がちに佇む。外への連絡手段は絶たれた。
電車が揺れる。カタン、カタンという音は、いつもの日常のものと変わらない。まるで、この音だけが現実に繋がっているみたいに。
もう一度スマホの時計を見た。13分。
「時間のループではないみたいだな」
俺は小さく呟いた。
同じ風景を繰り返しているが、同じ時間を繰り返しているのではない。時間は刻一刻と過ぎているから、それは間違いない。
「となると、空間のズレか?」
これは仮説だが、この異変は、存在しない異空間のレールに乗り上げてしまった現象ではないだろうか。本来の環状線と異変側の環状線が重なっていて、本来のレールから異変側のレールに分岐したタイミングがあった。他の乗客は本来のレールに乗って目的地に運ばれていったが、どうしてか俺だけ、異変のレールに乗ってしまったのだ。
俺は今、似ているけれど現実ではない東京を延々と回っている、という仮説である。
異変であっても環状線は環状線。レールの上をぐるぐると回っている。ただ駅がないから、降ろしてくれない。回り続ける密室に閉じ込められたと考えると、自分の状況を扱いやすい。
「最悪。時間が巻き戻ってるならまだしも、しっかり経過してるのかよ。これじゃ呼ばれてる時間に間に合わない」
環状線は、同じルートを繰り返し走り続ける。つまり、本来のレールから異変のレールに分岐した、その分岐点にもう一度差し掛かるはずだ。俺の仮説が合っていればの話だが。
脱出の鍵は、異変のレールから外れるための、分岐点を見つけること。
「だとは思うけど、それを見つけるにはどうしたらいいんだ」
最後に自分以外の人が降りたのは、たしか渋谷だった。では渋谷辺りが本来のレールに戻るチャンスなのかと考えられそうだが、この異変のレール上では駅がないし風景もずっと同じだから、今、自分がどの辺にいるのか分からない。
俺は座席に腰を下ろした。向かい合う車窓に、不機嫌面の自分の顔が反射している。自分の表情を客観的に見ると、少し冷静になる。苛立っていても観察力や判断力が鈍るだけだ。落ち着いて、物を考えよう。
改めて、運転席に向かってみる。運転士のいない空間で、メーターがカタカタと振れている。操作の仕方は知らないが、運転席を弄ってこの電車を止められないだろうか。
と考えたが、運転席の扉は固く閉ざされている。ガラスを叩いても割れるはずもなく、まず機材に触れること自体が不可能だった。
再び、座席に腰を沈める。液晶ディスプレイには、どうでもいい広告が流れ続けている。吊り革が揺れる。車窓の外の風景は、漠然とした都会の景色を繰り返す。
ふいに、車窓に映った自分に再び目がいった。数秒だけ自分の影が二重に見えた気がしたのだが、すぐに元に戻った。
「なんだ、今の」
スマホの時計を見る。時間はじわじわと過ぎていく。時計の数字が2分進んだとき、再び、車窓に映る俺が二重にぶれた。そして再び、ぶれた影が重なって戻る。
「気のせいじゃないな」
今度は意識的に窓を見つめた。次は3分後に影がずれて、二重になった。
「大体、2、3分ごとだな」
俺が元々乗っていた環状線は、2、3分ごとに駅に止まる。
もしかしてこの異変の環状線も、2、3分ごとに現実の駅に接しているのではないか?
仮にそうだとして、なんで車窓に映る影が二重になるのか、とかはよく分からない。だが少なくとも、変化のないこの車内で、このタイミングだけはなにかが揺らいでいると思われる。
俺は座席から立ち上がり、窓に映る自分を睨みながら、ドアの傍に立った。非常通報ボタンの赤に、指を添えて待つ。
窓に映る自分が二重になった瞬間にアクションを起こせば、元に戻れるような気がする。なにをすればいいかは分からないが、幸いチャンスは2、3分に一度は巡ってくる。
最初に試すのは、非常通報ボタンにした。
非常通報ボタンというものは、非常事態に運転士に知らせるものだからだ。今、俺はまさに非常事態なのである。
車窓に映る影が、ふっと二重にずれた。
俺はボタンに指を押し込んだ。音はしない。なにも変わらない。ように、思えた。
突然、ドアが開いた。全てのドアが、シューッと音を立てて開き出す。俺はぎょっとしつつも、反射的に外へ飛び出した。
風が顔に叩きつけられ、目を開けていられない。どこに着地するのかも分からないまま、ただ、「外へ」という感覚だけで体を投げ出す。
次の瞬間、ドンッと、俺は固い地面に叩きつけられた。
「いって……!」
目を開けると、そこは駅のホームだった。冷たいコンクリートの感触が体じゅうに広がる。ホームにいた人たちが、ざわざわとこちらを見ていた。
「え、なにあの人……」
「飛び降りた? いや、違うよな……」
「大丈夫ですか!?」
親切な人が手を差し伸べてくれた。駅員が駆けつけてくる。俺は痛む肘を押さえながら、ゆっくりと体を起こした。
「すみません、お騒がせして」
振り返ると、さっきまで乗っていた電車が、なにごともなかったようにホームに停まっていた。乗客もいる。運転士もいる。まるで、異変なんて最初からなかったみたいに。
「も、戻った」
俺は深く息を吐いた。現実の軸に、帰ってこられた。遅刻は免れそうにないが、これはもう許してほしい。




