アンケート
俺の巣は葛飾区にある小さなボロアパートのワンルームである。コンビニの深夜バイトを終えて帰宅する頃には、空はうっすらと白ばんで、夜から明け方へと移り変わろうとしていた。
玄関の鍵を回すと、部屋の奥から小さな灯りが漏れていた。
「起きてたのか、ハル」
「お帰り、裕人!」
室内の光の中から、ハルの声がした。
ハルはこの部屋に住む同居人である。こいつの声を聞くと、日常に戻ってきたのだと実感する。
玄関の扉に取り付けられている、郵便受けを開ける。中には役所名義の封書が1通、入っていた。それを片手に、住み慣れた部屋へと踏み込む。
ハルが俺を出迎える。
「お疲れ様」
「うん。疲れた。早く寝たい」
俺はバイト先のコンビニで買った弁当の袋をテーブルに置き、ジャケットを脱ぎながら言った。
「今日、また異変があってさ」
「また?」
ハルが怪訝な声を出す。俺はよっこいせと呟いて、テーブルの脇に座った。
「なんつうのかな、俺以外のほぼ全部が固定される異変。なんとなく異変が発生した瞬間はあのときかな、って予想はついたから、そこをとっかかりにしてなんとかなった」
「へえ」
「異変発生の瞬間に俺が補充してた唐揚げは固定されてなくてさ。あの瞬間に俺がいた位置が、現実の軸と異変側の軸の曖昧なところだったんだと思う」
「それで異変を攻略して戻ってきたの? すごーい! 面白ーい!」
ハルは無邪気にはしゃいだ。
都内各地で『異変』が観測されるようになって以来、行方不明者が増加している。都が公開している情報によれば、過去一年間の行方不明届は前年比+42%、特に深夜帯の失踪が増加。
防犯カメラによって「人物が途中で消える」映像が複数確認されており、SNSでは「異変に呑まれたのでは」と噂が拡散。
戻ってこられない人もいたのだろうな、と思う。
「裕人って、よく異変に遭うよね。やけに冷静に対処してるけど、普通はもっと怯えるよ」
「一応、俺だって困惑はしてる。でも怯えて慌てふためいてもなんも解決しないだろ? だったら冷静に分析して、戻る方法を探した方が賢明だから」
郵便受けに届いていた封書を手に取る。封筒の表には、『都民意識調査(異変に関するアンケート)』と印字されている。
ハルが覗き込んでくる。
「それなに?」
「役所からのアンケート。異変に関する意識調査だってさ。何ヶ月か前にもあったみたいだけど、俺のところに届いたのは初めてだな」
「最近は行政も異変を気にしてるよねー。こんな非現実的な話なのに」
「まあ、無視できないんだろうな」
俺は封を切りながら言った。
「最近はSNSでも、変な現象を見たって話が前よりずっと広まってる。役人もほっとけないところまで来てるんだよ」
ハルが首を傾ける。
「でも、異変って、殆どの人は幻覚って言ってるよね?」
「そう。一般的にはな。俺も、初めて遭遇したときには、自分の頭がおかしくなったと思った」
初めての異変は、上京してこの街に来たばかりの、大学生の頃だった。
普段どおりに大学へ行ったら、キャンパス内の全てが鏡のように反転するしていたのである。授業のある平日の昼なのに、誰もいない。というのも異変あるあるだが、初の遭遇だった俺はその異様さに真っ青になった。
うろうろ歩き回っているうちに階段から足を踏み外し、その拍子に現実に戻ったのだが。
意味が分からなかった。いや、今でも分からないが、不安で怖くて、元の軸に戻ってからも混乱していた。
あのときはたまたま階段から落ちたのを機に運良く戻れたが、もしそうならなかったら、俺はどうなっていたのだろう。無人の大学に閉じ込められたままだったのだろうか。
「なにが起こったのか分からなくて、友達に話したら『疲れてるだけだろ』って言われた。でも納得できなくて、調べてるうちに気づいたんだよ。俺以外にも、同じようなことを言ってる奴がいるって」
俺は『異変』の噂を知った。
この東京の23区で、たまに起きる変な現象。原因も仕組みも分かっていないけれど、体験者はちらほらいる。そしてそれぞれが、違う異変を体験している。
幻覚だとか精神的なストレスだとか、睡眠不足だとかであしらわれてるが、それにしては体験している人が多すぎる。噂は広まり、不安は増幅し、病院や役所への問い合わせも増えているという。
こんな状況だから、こうして都が民間にアンケートを実施しだしたのだ。
ハルがまばたきをする。
「裕人はそんじょそこらの人よりも異変に遭ってるから、そのアンケートに答えれば、役に立ちまくりだね」
「まあ、都が本気で調べようとしてるんだから、協力はしよう」
俺は大学の無人の異変のあとも数回、異変に巻き込まれた。
バイト先のスタッフ用控室が暗転して無の空間になっていたり、室内のものがどれも数ミリ浮かんでいたり、様々なパターンがあった。
だが、一度異変を経験していた俺は、そこから元の日常に戻る方法があるのだという実体験があった。どんな異変にも、必ず、元に戻る糸口があるのだ。
それに気づいてからは、慌てて怯えるよりも、冷静に事態を見極めて、なるべく早く戻る方法を模索するようになった。ちょうど今日の、『固定』のように。
封書を開けてみる。中には、「あなたは異変と思われる現象を体験したことがありますか?」という質問が太字で印刷されていた。
行政ももう、異変なるものを噂では済ませられなくなっている。
「異変は、もう個人の問題じゃない」
俺はアンケート用紙をテーブルに置き、ペンを取った。「あなたは異変と思われる現象を体験したことがありますか?」――その設問への回答の選択肢は、「よくある」「稀にある」「一度だけある」「ない」と並んでいる。
俺はペン先を左の2箇所で悩ませたあと、「よくある」と「稀にある」の両方に丸をつけた。
「多分、東京そのものがバグってる」
ハルはしばし、黙って俺を見つめていた。数秒の沈黙のあと、再び口を開く。
「怖くないの?」
「怖いよ」
俺は即答した。
「でも、怖がってるだけじゃ帰れない。異変ってのは、出口を見つけて、終わらせるしかないから」
「そっかあー」
ハルのなにも考えていなそうな、あっけらかんとした雑な返事が会話を終わらせる。大雑把な奴だ。でも、このくらいの軽さで接してくれる方が、気が楽である。俺にとっては、却って居心地が良かった。




