15話
恒一が風邪を引いてから数日後。
季節は少しずつ夏へ近づいていた。
放課後。
神谷恒一は自宅へ帰る途中だった。
隣には暁、いつもの光景。
「完全に治ったな」
「おかげさまで」
「そうか」
暁は小さく頷く。
看病の件を褒められると、最近は少しだけ反応するようになっていた。
本人に自覚はない。
「そういえば」
恒一が言う。
「最近妖怪出ないな」
「確かに」
九条も現れない。
協会からの依頼もない。
平和だ。
少し不気味なくらいに。
その時だった。
風が止んだ。
周囲の音も消える。
人通りの多いはずの住宅街。
だが今は誰もいない。
まるで世界から切り離されたような感覚。
「結界か」
暁が呟く。
拍手が聞こえた。
パチ、パチ、パチ。
「正解だ」
聞き覚えのある声。
電柱の上、そこに男が立っていた。
黒い和服、銀髪、赤い瞳。
九条。
「またお前か」
恒一が言う。
「また私だ」
九条が笑う。
以前と同じ余裕。
だが敵意は感じない。
暁が一歩前へ出る。
「目的は」
「今日は戦いに来たわけじゃない」
九条は肩をすくめる。
「少し話をしようと思ってな」
「必要ない」
「そう言うな」
九条は地面へ降りる。
そして初めて恒一を正面から見た。
「契約者」
「なんだ」
「お前は面白いな」
全然嬉しくない評価だった。
「何が言いたい」
恒一が聞く。
九条は笑う。
そして。
「お前は枷だ」
と言った。
空気が止まる。
恒一は眉をひそめた。
「枷?」
「ああ」
九条が頷く。
「暁は本来もっと強い」
「もっと自由だ」
「もっと恐ろしい」
赤い瞳が細められる。
「だが今は違う」
「お前という存在に縛られている」
「力も」
「行動も」
「存在そのものも」
恒一は黙った。
言い返そうとする。
だが先に動いた者がいた。
暁だった。
「撤回しろ」
静かな声。
しかしその場の空気が凍る。
九条が目を瞬く。
「ほう?」
少し驚いている。
「恒一は枷ではない」
暁が言う。
「お前に何が分かる」
九条が笑う。
「昔のお前を知っているのは私だ」
「今のお前は違う」
「弱くなった」
暁は一歩前へ出る。
「違う」
「?」
「弱くなったのではない」
九条が初めて真顔になる。
暁は続ける。
「私は今も私だ」
「力が減った訳でもない」
「縛られてもいない」
その声には迷いがなかった。
恒一も少し驚く。
こんな風に自分の意志を語る暁を見るのは初めてだった。
「ならなぜ」
九条が聞く。
「なぜそこまで人間に固執する」
「契約だからか?」
「違う」
即答だった。
そして暁は言った。
「恒一だからだ」
沈黙。
恒一が固まる。
九条も固まる。
そして暁本人だけが意味を理解していなかった。
「……」
「……」
数秒。
九条が吹き出した。
「ははははは!」
珍しく大笑いだった。
「なるほど」
「そういうことか」
楽しそうだった。
本当に。
「何がだ」
恒一が聞く。
「いや」
九条は笑みを消さない。
「面白くなったと思ってな」
風が吹く。
結界が揺れる。
九条は空を見る。
「記憶も戻り始めている」
「感情も覚え始めている」
「予想以上だ」
そして最後に暁を見る。
「気をつけろ」
今度の声は真面目だった。
「お前を探しているのは私だけじゃない」
「もっと厄介な連中がいる」
「お前が戻ったと知れば必ず動く」
暁は黙って聞いていた。
「それでも」
九条は笑う。
「私は今のお前が嫌いじゃない」
次の瞬間、姿が消える。
結界も解除された。
人々の声が戻る。
車の音、日常の音。
しばらく沈黙。
恒一は頭を掻いた。
「何だったんだあいつ」
「分からない」
暁が答える。
そして少しだけ間を置いて。
「でも」
「?」
「嫌いだった気がする」
恒一は吹き出した。
「まだ言うのか」
「事実だ」
真顔だった。
帰り道。
二人で歩く。
少しして恒一はふと思い出した。
「そういえば」
「なんだ」
「さっきの話」
暁が首を傾げる。
「恒一だからってやつ」
数秒、十秒、二十秒。
理解したらしい。
「……」
珍しく固まる。
耳が少し赤い。
本当に少しだけ。
「忘れろ」
「無理だろ」
「忘れろ」
「嫌だ」
暁は黙った。
そして少しだけ歩く速度を上げた。
恒一は笑いながら後を追う。
そんな二人を遠くから見つめる影があったことを。
まだ誰も知らなかった。
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