その4
ザシュッ、ザシュッ、と鍬が小気味よい音を立てる。
土を掘り起こし、肥料を混ぜ込んで、見事な畝を作るエルナの背中は、熟練の農夫もかくや。領地にいたときにやり慣れていた作業は、久しぶりであっても体が覚えているものだ。
土の匂いを胸いっぱいに吸い込み、植物と直に触れ合う。豊かな土壌を作り上げるこの作業こそが、本来の彼女がすべきことだった。
ほんの数日前まで、肌の白さを保つことこそ最重要と信じ、日焼けを気にして日傘を手放さなかった令嬢はもういない。コンプレックスだったはずの長身と骨格は、農作業においてこの上ない強力な武器となる。
「いい具合に空気を含んでいるわね。堆肥の発酵具合もいいみたい」
「バラ用に作っていた堆肥が功を奏しました」
「ええ、土がふかふかでいい感じ。王都の土って酸性に傾きがちだから、苦土石灰を混ぜ込む必要があるって聞いていたけれど、今回はその必要もなさそうね」
「この状態なら、フェルナーのめざめも立派に育つはずかと」
フェルナーのめざめは、王都に来る直前にエルナ主導で品種改良に成功したジャガイモである。甘みが強くて濃厚なコクがあり、素揚げにすると絶品だ。希少性も相まって、近年力を入れている農作物のひとつだ。
「まずは春植えのジャガイモね。堆肥の材料と比率を変えたものをいくつか用意して、それぞれにフェルナーのめざめを植え付けてみましょう。それから、どう違いが出るかを見比べるために、他の種類もいくつか植えてみようかしら」
なにがいいだろうかとエルナは庭師と共に思案する。
ほくほく系であれば、バロンから品種改良したニシアカリ。これはコロッケにすると絶品だ。煮崩れしにくいしっとり系であれば、メイプリンセスから改良したミナミユタカ。これはシチューに適している。
他領の作物と市販の肥料も試してみてはどうだろうかという庭師の提案に、エルナはふむふむと頷いた。
カフェで待ちぼうけさせられた日から、すでに一週間が過ぎていた。その後、一切連絡はなく、メモ書きすら送られてこなかったが、エルナはまったく気にならなかった。というか、すっかり婚約者の存在を忘れ、こうして目の前の畑仕事に没頭していたのだ。
まさにそんな最中だった。ルーカスが久しぶりにフェルナー邸を訪れたのは。
彼が焼き菓子の入った小箱を持参したのは、まあ一応は前回の待ち合わせをすっぽかした埋め合わせのつもりである。ただし、エルナを放置するのがしょっちゅうだったルーカスは、特別になにかを考えていたわけではない。非番の日だから、婚約者の義務とされる週に一度の面会を果たすべくやって来た、それだけだ。
「先週は急にすまなかったな。私も忙しい身だからね。さぞかし寂しかったに……えっ?」
我が物顔でその場に足を踏み入れたルーカスは、エルナの姿を見た瞬間、フリーズした。てっきりバラ園のガゼボでお茶の用意でもして待っているものと思っていたのだ。それが土にまみれた作業着を着て、まさに鍬を振りかぶっているところだった。予想と懸け離れすぎると、人は言葉を失う。
彼の記憶にある庭園は、花の甘い香りに包まれ、咲き乱れた花々の色彩に取り囲まれた優雅な空間だった。しかし、それは跡形もなく消え失せている。
周囲の生け垣とアーチの薔薇こそかろうじて残されてはいるものの、以前は確かにあった白いガゼボが消え去り、辺り一面は黒々とした土が畝を作って幾筋もの直線を描く空間に変わっていた。小規模ながらも、畑にしか見えない状態だ。
ちなみにルーカスは、侯爵の方針で入り婿としての心得に農学の基礎を学んでおり、季節ごとにフェルナー領を訪れては実地研修を行っている。そのため、この光景が畑であることはすぐに理解できた。
「エ、エルナ!?」
聞き覚えのある声に呼ばれ、エルナはクワの動きを止めて振り返った。
「あら、ごきげんよう、ルーカス様。どうなさいましたの?」
呆然と突っ立っているルーカスに気付き、エルナは鍬を下ろして地面に突いてから首を傾げる。麦わら帽子の下から覗く顔は泥で汚れ、額には汗が光っているが、ルーカスがこれまでに見たことがないほど生き生きとしていた。
「その格好はどうしたんだ? この庭は? 私のバラはどこへやった?」
かなり混乱しているようで、ルーカスは頓珍漢なことを言う。エルナとしては「なんであなたのバラなのよ」とツッコミを入れたいところだが、なるほど彼にとってフェルナー家のバラ園は、彼がくつろぐための場所だという認識か、と思い至る。それが勝手に畑に成り代わっているとはなにごとか、といったところなのだろう。
エルナは手袋についた泥をパンパンと払ってから、醒めた視線で彼を観察した。
(相変わらず顔だけは良いわね。ホントこれだけは好みなのよね)
彼女は首にかけていた手ぬぐいで汗を拭い、淡々とした口調で答えた。
「ルーカス様。恐れ入りますが、三歩ほど右にずれていただけますか? そちらに立たれると、浴光催芽させているジャガイモの光合成の邪魔になりますの」
「は? 浴光催芽? 光合成? 種芋の芽を出すためのあれか?」
「ええ、そうです。ルーカス様はお体が大きいですから、その分、影が大きくなるのですわ」
「あ、ああ……。わかった」
ルーカスは呆然としながらも、ステップを踏んで右へと移動する。農業実習でジャガイモの種芋の芽出しは行っていたので、重要性を覚えていたようだ。ある意味、素直な性格なのだわ、とエルナは思う。
「バラでしたら、ちょうど鉢上げしておりましたので、ご近所の奥様方やメイドさん方への贈答品として有効活用いたしましたわ」
「バラを育てるのは止めるということか?」
「ええ。きれいなだけでは、お腹の足しにはなりませんもの」
「美しい花は心の栄養となるではないか」
「花を育てるのは花農家のお仕事ですわ。我が家は食料生産を担う領地です。役割が違いましてよ」
「あのバラ園を私は非常に気に入っていたのだぞ」
「ですから、生け垣とアーチの薔薇はそのまま残してありますの。正門と客間からの景観は損なっておりませんし、充分にお楽しみいただけると思いますわ」
「いや、しかしだな……」
「庭園のスペースは限られておりますので、仕方のないことです。私、この場所を利用して、ジャガイモに最適な土壌を研究することにいたしましたの。我が領の新たな特産品とすべくジャガイモの生育を促すための土壌改良の実地試験を行うことにしたのです」
エルナが一気にまくしたてた貴族の令嬢らしからぬ内容に、ルーカスの目は点になる。
「君は何を言っているんだ! 伯爵令嬢が、なぜ自ら泥にまみれてイモの世話など……。君は私の妻として美しく着飾っていればいいんだ!」
途端にエルナの纏う空気が冷え込んだ。
「お忘れですか、ルーカス様」
一歩踏み出し、エルナは真っ直ぐに彼の青い瞳を見据えた。そこにはかつての恋する可憐な乙女の面影はない。領民の生活を背負う次期当主の鋭い眼光があった。
「私たちの政略結婚は、我が家の生産する穀物を、貴方の家が優先的に流通させるための、双方に多大な利益をもたらすビジネス契約です。私はフェルナー家の次期当主として、第一線の生産現場を知り、生産物のクオリティをさらに高め、領地を豊かにする努力をする義務があります」
「そ、それはそうだが……」
「ルーカス様こそ、我が家に婿入りするのですから、私のビジネスパートナー、つまり経営陣に加わるのだということを、そろそろお考えになってください。近衛騎士を続けるのか、それとも経営を学ぶのか、決めていただきたいのです」
図星を突かれ、ルーカスの形の良い眉がピクリと動いた。顔の良いだけの三男である彼の立場は、実は家の中ではさして強くない。政略結婚においても、エルナの家の方が実権は圧倒的に上なのだ。
「な、なにを……君は、私に指図するなど……」
「勘違いしないでくださいませ。私の婿としての基準は、見目の良さや騎士としての武勇ではございません。耕運機を一日中乗り続けられる無尽蔵のスタミナと、農学への深い理解ですわ」
エルナは踵を返し、再び鍬を力強く握り直した。
「では、日が高いうちに元肥の準備をしておきたいので、本日はこれでお引き取りください」
無言になって立ち尽くすルーカスに背を向け、エルナは力強く鍬を振り下ろした。ザクッといい音を立てて土を掘り返す音が、静かな午後の庭園に響いた。




