その2
それでも最初の二年はエルナは領地で過ごしていたため、王都に用のある両親について行くときや、ルーカスが年に何回かフェルナー領を訪れるわずかな期間くらいしか、二人が顔を合わせる機会はなかった。だが十五歳となったエルナが王都の学校に通うことになると、必然的に会う機会は増える。それ以降の恋に盲目になった状態を今現在になって思い出し、エルナはやりきれない気持ちになった。
まず思い浮かんだのは、王都にやってきたエルナが初めてルーカスと共に夜会に参加した時のことだ。
社交界デビューとも言える重要な場で、ルーカスはエスコートすべきエルナを会場の壁際にぽつんと置き去りにし、同僚の騎士見習いたちのもとへ行ってしまった。見知らぬ者たちの中で、誰からも声をかけられることなく、エルナは壁の花として立ち尽くした。慣れないハイヒールで足の感覚は無くなり、本気で泣きそうになっていた。やがて武勇伝の語り合いに満足したのか、ようやく戻ってきた彼に少々の苦情を言ってみたところ、心配するどころか不機嫌になったのだ。
「男には男の付き合いがある。君は自分の時間を好きに過ごしていればいいではないか」
実際には知人もおらず壁際に三時間も放置されていたわけだが、恋の病で重症だった当時のエルナは、このとんでもない言い分を都合良く脳内で変換してしまった。
(騎士団の同僚の方たちと、未来の王国を守るために親睦を深めていらっしゃるのだもの。なんてお仕事熱心なのかしら)
そう思って目を輝かせ、自分が放置されたという事実に気づかなかった。
十六歳の誕生日のプレゼントも、思い返せば微妙としか言いようがなかった。
流行りの宝石だろうか、それとも大きな花束だろうかと胸を躍らせて待っていたエルナに、ルーカスが「とっておきの品だぞ」と言いながらドヤ顔で差し出したのは、彼の美しい横顔が立体的に彫り込まれた手のひらサイズの純金メダルだった。後で人づてに知ったが、彼はわざわざ金細工職人の工房に足を運び、特注サイズのメダルを作らせて、自分の肖像を彫刻させたのだという。ご丁寧にもメダルの裏面には、「いつでも私を感じろ。君だけのルーカスより」と、自己愛に満ちた言葉が刻印されていた。
冷静に考えれば、ただの痛々しいナルシストである。だが、当時のエルナは、この贈り物に素直に感激した。
(なんて素晴らしいのかしら。世界に一つしかない、愛の結晶だわ。我が家の家宝にして、末代まで大切にしましょう)
そう本気で喜び、そのメダルにチェーンを付けて首から下げ、服の下に隠しつつも毎日身につけるようになった。
また、昨年の冬の始めに、エルナが風邪で寝込んだときのこと。
熱に浮かされるエルナの元に見舞いに訪れたルーカスは、彼女の手を握って励ます代わりに、病床の枕元にいきなり仁王立ちになったかと思うと、いかに自分が今日の訓練で素晴らしい剣技を披露し、仮想の魔獣を素早く討伐したかという武勇伝を、大声で延々と語り始めたのだ。さらには「君の熱など、私の覇気で吹き飛ばしてやろう」などと謎の理論を展開し、寝ているエルナの鼻先数センチの距離で、愛剣を全力で素振りし、鋭い風切り音を聞かせたのである。
それでもその時のエルナは、剣の風圧で前髪を乱されながらも、熱で朦朧とする意識の中でも、ベッドの中から拍手を送った。
(なんて格好いいの! 本当に熱なんて吹き飛んでしまいそう)
そのように思っていたのだ。今思えば熱のせいで頭が湧いていたとしか言えない。
「……………………」
次から次へと蘇る思い出に、エルナは無言で顔を両手で覆った。
ルーカスにとって、エルナからの愛というものは、努力などしなくても勝手に供給され続けるものだったのだろう。
「私は何をしても賞賛される婚約者だ。なぜならエルナは私にベタ惚れなのだから」
彼にそう学習させてしまい、勘違い男に育て上げてしまったのは、他ならぬ過去の自分自身だった。
そして今この瞬間、エルナが自分自身に対して最も許せないと感じたのは、そんな男にかまけて時間を浪費していた愚かさだった。
「私ったら、この二年間、いったい何のために王都の学校に通っていたのよ!」
我に返ると、かなりの罪悪感がこみ上げてきた。
田舎の領地から王都の高等教育学校に入学したのは、遊びや恋愛のためではない。実家の農業をさらに発展させるべく、王都に集まる最新の植物学や農学、土壌の知識を学び、干ばつや病気に強い作物の品種改良を行うためだったはずだ。そのために地元の中等教育学校でもジャガイモの品種改良に励んでいたのだ。その頃の彼女には、数十万の領民の命と生活を背負って立つ当主としての自覚が、確かにあったのだ。
それだというのに、王都にやってきてルーカスと頻繁に会うようになってからの自分は、頭の中をルーカスの美貌と彼へのご機嫌取りで一杯にしてしまっていた。読むべきだったのは農業専門書なのに、恋愛指南書ばかりを読み漁り、出向くべきだったのは農学の講義や最新農耕機の発表会なのに、デートスポットばかり巡っていた。
「なんてバカだったのかしら」
自分の口から漏れたその言葉に、だが首を振る。
「卒業まであと一年あるじゃない。まだ遅くはないわ」
彼女の視界を歪めていた感情が跡形もなく消え去った瞬間だった。
ふと、もう一度ガラス窓を見やる。しかしそこに映る自分の姿を見ても、特に卑屈な気持ちは湧き上がってこない。手紙、もとい、メモ書きをちらっと見て、ルーカスの顔を思い浮かべてみる。だがもう胸がときめくことはない。むしろ、「ツラとガタイが良いだけの大型犬」にしか思えなくなっているではないか。
自分は、王国内トップクラスの穀倉地帯を背負う、誇り高きフェルナー家の次期当主である。
情熱と人生の時間を注ぎ込むべき対象は、自分を蔑ろにする脊椎動物の機嫌取りではない。何代にもわたって領民と共に土を耕し、国を支え続けてきた我が家の大切なビジネス、すなわち農業発展であるはずだ。
「ルーカス様の顔色を伺うヒマがあったら、植物の顔色を伺って、より大きくて美味しい作物を育てる方が遥かに有意義よね!」
エルナは、残っていた紅茶をゴクリと一気に煽ると、勢いよく背筋を伸ばして席を立つ。
彼女はためらうことなく、首から提げていた純金メダルをチェーンから外すと、テーブルの上に音を立てて叩きつけた。
「お会計をお願いできるかしら?」
やってきたウェイトレスに代金を支払ってから、エルナはメダルを指さした。
「それはチップにしてちょうだい」
ウェイトレスは、テーブルの上で輝きを放つメダルを見て、戸惑いを見せる。
「えっ!? あの、お客様、これはひょっとして純金だったりしませんか!?」
「気にしなくてもよろしくてよ」
エルナはウェイトレスの返事を待たずにさっさとその場を後にした。
フリフリドレスの裾を翻しながら大股で歩く彼女の頭の中は、「家に帰ったら庭をどうやって耕そうか」という土壌改良のプランニングで一杯になっていた。




