その1
柔らかな春の陽光に包まれたテラス席では、シルクやレースをふんだんに使った色とりどりのドレスに身を包んだ令嬢たちが、優雅なティータイムを楽しんでいた。辺りには焼き立てのスコーンと馥郁とした紅茶の香りが漂い、穏やかな話し声が微かに聞こえてくる。
その華やかな空間の片隅で、エルナ・フェルナーは冷めきった紅茶を前に、手元の紙片を眺めていた。
それは、たった今届いた婚約者からの手紙だ。
いや、これを手紙と呼ぶのは、手紙文化を愛する紳士淑女に対する冒涜かもしれない。ただの走り書きだったからだ。質の悪い黄ばんだザラ半紙は、おそらく彼の勤務先である騎士団の詰め所に常備されているメモ用紙なのだろう。
封筒とて、役所が部署間の通達で使用する、丈夫さだけが取り柄の無骨なシロモノである。どう見てもデートの待ち合わせの場で伯爵令嬢が受け取るべき品ではなかった。
数分前にそれを届けるために汗だくで駆けてきた少年が、「急ぎの使いです!」と大声を上げたその勢いに、思わず押されてしまったのだ。少年は騎士見習いと見受けられたので、元気がいいと褒めてやりたい気持ちもあったが、高級カフェの雰囲気にそぐわなさすぎて、エルナは少々居たたまれなさを感じた。それを取り繕いながら笑顔で受け取ると、少年はすぐに走り去った。
そしてようやく中身を読んだわけだが、その文面は婚約者の悪筆に慣れているエルナですら、読み直す必要があったほどだ。しかも解読した内容はといえば、「急な剣術の稽古が入ったので今日は行けない」という一文である。時候の挨拶も愛の言葉もないのはいつものことだが、あまりにも……。
「業務報告かい」
かろうじて声には出さずに唇だけ動かす。
後輩に対する剣術指導の指南役に抜擢されたばかりで、彼が張り切っていたのはエルナも知っている。騎士であるからには急な任務も理解できる。だが、待ち合わせ時間だった二時間前になぜ連絡を寄こさなかったのかは理解できない。なにより、文面に謝罪の一言もないというのが納得できない。
エルナは、乱雑な文字の上に婚約者の姿を思い浮かべた。
婚約者であるルーカス・ヴァイスベルクは、ヴァイスベルク侯爵家の三男である。輝くようなプラチナブロンドの髪、深いサファイアブルーの瞳、目鼻立ちの整った容貌。長身で手足が長く、すらりとした立ち姿でありながら、無駄のない筋肉が程良く付いた、均整の取れた体つき。白を基調とした王宮騎士団の礼服が彼ほど似合う男は、国内を探してもそうはいないだろう。まさに近衛騎士、それも儀仗兵にするために、神が誂えたかのような完璧な美丈夫だった。
非番の日に王都を歩けば、すれ違う令嬢たちが揃って振り返っては溜息を吐くのはいつものことである。
対して、エルナはといえば……。
ちょうどウェイトレスが通りかかり、エルナは紅茶のおかわりを頼んだ。顔を上げたため、カフェの窓ガラスに映った自分が目に入った。
そこにいるのは、特徴のない栗毛の女性だ。ブスではないが、美人にはほど遠い、地味という言葉を体現したような顔立ちである。ルーカスの完璧な美貌の隣に並ぶと、どうしても差を感じてしまう平凡さだ。
おまけに、フェルナー家の特徴を顕著に継いだエルナは、女性としては平均より背が高く、骨格がしっかりとしている。社交界でもてはやされるのは、小柄で華奢な守ってあげたくなるようなタイプの令嬢であるため、エルナは少しでも自分を小さく見せようと、無意識のうちに猫背気味になってしまう。彼に相応しい可憐な淑女に見えるよう、ダイエットとストレッチに精を出し、自分には似合わないとわかっているパステルピンクのフリフリドレスを着て、彼の隣で縮こまってきた、というわけだ。
エルナは思わず遠くの空を見上げて、自分の容姿から意識を逸らした。
そこへ淹れなおした温かい紅茶が運ばれてきた。エルナは上品な仕草でそっとカップを持ち上げ、花のような香りとすっきりとした味わいを楽しんだ。
半分ほど飲んでカップをソーサーに戻した瞬間、すとんと何かが腑に落ちた。
「……なんだかもう、どうでもよくなっちゃった」
小さくそう呟く。無意識に出た言葉だったが、発した瞬間に肩の力が抜けたような気がした。彼に恋焦がれ、好かれようと必死だった自分の情熱が、スッと引いていく。
そもそも彼がこうも増長してしまったのは私にも責任があるわよね、とエルナは内心で過去を振り返った。
二人が婚約者として引き合わされたのは今から四年前、ルーカスが十五歳、エルナが十三歳の時だった。
フェルナー伯爵家は、国内耕地面積の三割を占める広大な穀倉地帯を領地として治めている。その生産量も圧倒的で、小麦、大豆、乳製品や、近年導入されたばかりのジャガイモといった農産物が、国内一位の収穫高を記録し続け、いわば国の食料庫である。だが、当代は男子に恵まれず、エルナが唯一の嫡女として家督を継ぐことが決まっていた。広大な領地を切り盛りするために、優秀な婿を外部から迎える必要があったのだ。
一方のヴァイスベルク侯爵家は、建国の昔から騎士団の要職を歴任するのが常の武門の名門。現当主であるルーカスの父は、まさに軍のトップである騎士団長を務めていた。そして軍にとって、食料調達は戦の勝敗に直結する。兵は胃袋で動くと言われる通り、どれほど精強な騎士団であっても食料供給に失敗すれば壊滅的な敗北に繋がる。騎士団長としては、最大の穀倉地帯を持つフェルナー家と強固なパイプを作っておきたかった。そして都合の良いことに子供がみな男子であり、家督を継げずに独立しなければならない男子、つまり余った息子が複数人いたのだ。
そんなこんなでエルナとルーカスの婚約は、両家の利害が完全に一致して結ばれたわけである。
貴族の令息令嬢にとって、親同士が決めた政略結婚など珍しくもなんともないありふれた出来事だ。愛のない仮面夫婦になるか、お互いにビジネスパートナーとして割り切るのが普通だった。しかし、初顔合わせの席に現れた理想の王子様然とした十五歳のルーカスを見た瞬間、十三歳のエルナは雷に打たれたように、完膚なきまでに一目惚れしてしまったのだ。
それが、すべての悲喜劇の始まりだったといえる。




