2.燃え残り
浪人生の男は、扉を開けたときから目を合わせなかった。
濡れた髪が額に張りついている。雨の匂いがした。
「ここ……で合ってますか」
紬はうなずく。
「たぶん」
男は苦笑する。
「“たぶん”なんですね」
「だいたい、それで合ってます」
少しだけ間ができる。
カーテンの奥に座ると、男は机を見つめたまま言った。
「俺、落ちたんです。第一志望」
紬は何も言わない。
男は続ける。
「別に、落ちる可能性がないと思ってたわけじゃないです。でも、あの日のことがずっと頭から離れなくて」
指先が震えている。
「問題を見た瞬間、何も出てこなくて。ああ、終わった、って」
紬は静かに尋ねる。
「その前は」
男は顔を上げる。
「え?」
「その日までの時間は、どうでしたか」
男は少し考える。
「……ちゃんと、やってました。たぶん。夜中までやって、朝も早く起きて」
小さく笑う。
「頑張ってた自分のことは、嫌いじゃないんです」
沈黙。
「でも、あの瞬間だけ、消えてほしい」
紬はうなずく。
「全部は消えません」
「え?」
「残るものもあります」
男は眉をひそめる。
「残っていいです。あの日の前までなら」
紬は手を差し出す。
「覚えていたいものを、考えていてください」
男は目を閉じる。
触れる。
教室の匂い。
試験監督の足音。
解けない問題。
それが胸に落ちる。
同時に、机に向かう背中。
夜の蛍光灯。
参考書の紙のざらつき。
熱。
それも残る。
男は目を開ける。
「……あれ」
少し呼吸が落ち着いている。
「思い出そうとすると、ぼやける」
紬はうなずく。
男は苦笑する。
「なんか、ズルいですね」
「何がですか」
「頑張ってたのに、いちばん痛いとこだけなくなるなんて」
紬は少し考える。
「なくなるわけではないと思います」
「え?」
「形が変わるだけです」
男は黙る。
しばらくして、小さく笑う。
「それなら、いいかもしれない」
立ち上がる前に、男は言う。
「俺、もう一回受けます」
紬はうなずく。
「そのときは」
男は続ける。
「たぶん、思い出さなくてもいける気がします」
⸻
夜、紬は布団の中で目を開けていた。
胸の奥に、まだ熱が残っている。
問題用紙の白さ。
シャープペンの音。
それよりも強いのは、
机に向かう背中の熱だった。
まっすぐな努力。
羨ましいと思う。
紬は思い出そうとする。
自分も、あんなふうに何かに向かっていたことがあっただろうか。
校庭。
体育館。
放課後の匂い。
曖昧だ。
何をしていたのか、うまく出てこない。
驚きはしない。
こんなものか。
⸻
数日後、浪人生はまた店に来た。
参考書を抱えている。
「なんか、あの日のこと、思い出そうとすると遠いんです」
少し笑う。
「でも、ちゃんと悔しかったってことは分かる」
紬はうなずく。
「それで十分だと思います」
男はレジに本を置く。
「ありがとうございました」
今度は、はっきり言った。
紬は小さくうなずく。
男の背中は軽い。
その分、紬の胸には燃え残りがある。
まっすぐな熱。
そして、思い出せない何か。




