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空白に触れる  作者: 世華
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1.借り物の温度

朝の匂いは、だいたい同じだ。


 冷えた空気と、隣の家の柔軟剤と、少し湿った木の匂い。紬はそれを嫌いではなかった。なくなると、少しだけ落ち着かない気がする。


 目覚ましが鳴る前に目が覚める。止めるためだけに鳴る音を止める。


 台所で湯を沸かす。

 マグカップは一つしかない。


 前から一つだったかどうか、思い出せない。


 鏡の中の自分は、よく知らない人に似ている。

 整っているわけでも、崩れているわけでもない。街ですれ違っても、覚えられない顔。


 それで困ったことはない。


 古書店までは歩いて十五分。商店街は朝だとほとんど音がしない。シャッターの前を通るたび、自分の足音だけが響く。


 一、二、三。


 病室までの廊下も、数えていた気がする。

 白い壁と、消毒液の匂い。


 それ以上は、うまく出てこない。


 古書店の扉を開けると、紙の匂いが流れ出す。店長はまだ来ていない。紬は鍵を閉め直し、レジの電源を入れる。


 カウンターの奥には、カーテンで仕切られた小さなスペースがある。


 午前十一時を過ぎたころ、鈴が鳴った。


 見覚えのない女性が立っている。二十代後半くらい。コートの襟を握る指が白い。


 本棚を見ないで、まっすぐ紬を見る。


 「あの……ここ、でいいんですよね」


 紬はうなずく。


 「たぶん」


 カーテンの奥へ案内する。椅子が二つ。机が一つ。窓はない。


 向かい合うと、店内の音が遠くなる。


 女性は言った。


 「顔を、思い出したくないんです」


 紬は小さくうなずく。


 女性は目を閉じる。


 紬はその手に触れる。


 ほんの数秒。


 夕方の駅前。

 笑い声。

 指先の体温。


 それが胸に落ちる。


 女性は目を開ける。


 「あれ……」


 少し考えてから、息を吐く。


 「楽になりました」


 紬はうなずく。


 それだけだ。


 女性が帰ったあと、紬は椅子に座ったまま動かなかった。


 胸の奥が、少しあたたかい。


 夜、夕焼けの夢を見る。


 誰かと並んで歩いている。

 笑っている。


 朝になると、夢は薄れている。


 代わりに、好きだった映画の最後の場面が思い出せない。


 どんな終わり方だったか。


 考えるが、出てこない。


 まあ、いいか。


 古書店の扉を開けると、鈴が鳴る。


 紬はレジに立つ。


 胸の奥に、まだ少しだけ体温が残っている。

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