45 ちょうどいい船と、クジラ
「つまり……わざわざ海をぐるりと回ってくる間の、真水と食料……魚や肉よね? それに、足りなくなった時には魚を捕獲できる性能の、長距離の海上移動に耐える船が、今たくさん造られてるのね……?」
「そう。で、極冬の人らはクジラ……あー捕まえるに鯨って文字で捕鯨ができる。デカい魚っつったが、肝臓の脂は栄養の塊で保存が効くし、食用だけじゃなく明かりとりに使ったり蝋にできる脂も蓄えてる。沖は寒いからな。それに、どちらかというと肉だな。魚ってよりも動物に近い」
他にも、私たちが今している近海漁よりも、陸から遠いところには大きな魚や保存の効く干物にできる海産物が大量に獲れるという。
今造られている船が、そのままクジラや他の大きな魚、干物にできる海産物が獲れるようなら、何隻かはバラトニアからの小麦の輸出に使い、遠くの沖合で漁をして卸してくれるなら、戦争も回避できる上にバラトニアにはまた新たな文化が入ってくる。
極冬の人に近海漁師をしている人が混ざって、一緒に仕事をしてもいい。技術だって立派な売り物だ。
「遠洋漁業ってんだけど、一回沖に出たらそうさな、2ヶ月後に帰ってくるのが普通だ。極冬は2ヶ月待てない、潮目が変わって対応も追いついてない。陸の動物は狩りすぎて今は禁止されてる。が、今すぐ穀類の支援をすると言えば、極冬からバラトニアまでは船で1週間だ。往復で2週間。そして、影のネイジアなら正式な訪問とはいかないが、陸路でも往復1週間で極冬に行って帰ってこれる。どうしますかい?」
「今すぐ簡単な条件を書いた親書を作る。早速ですまないが仕事を頼みたい」
陛下の決断は早かった。本来、バラトニアの人々は戦を求めない。取引に値するなら、麦は輸出用だから出してもいい。さらには、木材に困っていないなら今製紙工房に卸している木材の分、山に沿って田んぼを増やしてもいいかもしれない。その分木こりの仕事は減るが、働き口は漁業でも農業でも、希望するなら文字と計算を教える塾を作って責正爵の資格の勉強をしてもらうのでもいい。
ネイジアの地図の正確さは測量技術と長年影のネイジアとして多彩な国を相手に仕事をしてきた結果だろう。そこは、触れない方がいい、とガーシュが目で制してきた。
お互いに踏み込まない方がいい領分がある。今はまだ、この世界地図という情報をそのまま明け渡すには信頼関係が浅い。
「……よかった」
「あぁ、ネイジアのお陰だ。だから……急いだのか」
「まぁ、バラトニアが倒れると、次はネイジアなもんで……ネイジアには食い物は無いですからね」
謎が多いままだが、交わした書類と先程の誓約、そして握手は嘘をつかない。
契約したら必ず全て教えなければいけないという訳では無い。実際、バラトニアだってネイジアに全てを教えている訳ではないし、ネイジアにとってそれは必要な情報ではない。
同じように、バラトニアにとってネイジアが陸路をどう行ってどう交渉するかは、ネイジアの技術だ。今一番大事なのは、戦争を回避して互いに利のある交渉を締結させること。
これがバラトニアがネイジアに依頼する最初の仕事だ。親書を密かに届けて、交渉し、契約を結ぶ。
そして、答え次第だが……陛下が食糧を出し渋るとは思えない、戦争を避けるためだ……極冬に渡す麦を用意して待つことができる。寒さに耐えられる動物がいないのは残念だが、穀物を定期的に輸出し、その分バラトニアの遠洋で漁業をして半分は持ち帰れれば、飢餓もそこまで広がらないだろう。
どうかこの交渉がうまくいきますように。そう思って無意識に胸の前で手を組み強く握っていたら、大きくて温かい手が私の手を包んだ。
「大丈夫。欲しい時に欲しいものが手に入らない、それはたしかに戦になる。けれど、第三者であるネイジアが、互いに利のある提案をしてくれた。お互いに欲しいものが手に入る、それで争う理由は無いよ」
「アグリア殿下……」
「だから、心配しないで」
「はい……!」
私の不安を解してくれる優しい声に、私はそっと肩の力を抜いた。ガーシュが口笛を吹いてからかっていたが、私は殿下に惚れているので気にしない。
コホン、と親書を作成し封蝋を押した陛下の咳払いは、気にしたのでそっと手を離した。




