夜の庭園
リューデン王都に到着してから、三日が過ぎた。
グランツ商会への調査は、着実に進んでいた。
エレノア王女の命令を受けた王国警備隊は、商会の取引記録を押収し、関係者への聞き取りを始めている。
王都北西にある倉庫についても、周辺の監視が始まった。
ただし、すぐに踏み込めるわけではない。
相手は有力貴族とのつながりを持つ商会だ。正式な捜索には相応の根拠が必要になる。
そのため、俺たちが直接できることは限られていた。
「……というわけで、今日は夕方まで自由行動だってさ」
カイルが嬉しそうに言った。
王城の客室に集まっていた俺たちは、レティシアから伝えられた予定を確認していた。
「ただし、王都の外へ出るのは禁止。単独行動も避けること、だそうだよ」
エリオットが付け加える。
「当然ね。まだ敵の協力者が残っているかもしれないんだから」
リシアが腕を組んだ。
「それでも、ずっと部屋にいるよりはいいだろ」
ディーンが言う。
俺も同感だった。
研究都市に到着して以来、遺跡の調査や襲撃への対応が続いていた。
少し休む時間があってもいい。
「シオン」
隣から声がした。
振り返ると、ヴィオレッタがこちらを見ていた。
「今日、何か予定はある?」
「いや、特には」
「それなら……」
彼女は少しだけ間を置いた。
「前に話していた王都の散策、一緒に行かない?」
馬車の中で交わした約束を思い出す。
事件が落ち着いたら、街を見て回ろう。
そんな話をしていた。
「もちろん。俺も行きたいと思ってた」
そう答えると、ヴィオレッタの表情が明るくなった。
「よかった。じゃあ、午後からでどう?」
「ああ。昼食の後に出ようか」
「ええ、楽しみにしてるわ」
そのやり取りを聞いていたカイルが、にやりと笑った。
「へえ。二人で出かけるのか」
「……何だよ」
「いや、別に?」
明らかに何か言いたそうな顔だった。
リシアも楽しそうにこちらを見ている。
「いいじゃない。せっかくの王都なんだし」
「リシアまで……」
ヴィオレッタが困ったように笑う。
エリオットは眼鏡を押し上げた。
「一応、護衛の件は確認しておいた方がいいね」
「そうだな」
俺はうなずいた。
自由行動とはいえ、今は事件の調査中だ。
勝手な行動で周囲に迷惑をかけるわけにはいかない。
◇
昼食後。
俺とヴィオレッタは、王都の中心街へ出かけた。
王国警備隊の護衛が二人、少し離れた場所から同行している。
最初は少し気になったが、街を歩き始めると自然と意識しなくなった。
「思っていたより、にぎやかな街ね」
ヴィオレッタが周囲を見回した。
石畳の通りには、多くの店が並んでいた。
焼き菓子の香り。
商人たちの呼び込み。
行き交う馬車の音。
王都の中心街は、活気に満ちている。
「アルセリアとは建物の造りが違うな」
「ええ。石造りの建物が多いからかしら。少し落ち着いた雰囲気があるわね」
ヴィオレッタは楽しそうだった。
普段は学園や貴族の集まりで見ることが多いが、こうして街を歩いていると、同年代の少女らしい表情を見せる。
「シオン、あのお店を見てもいい?」
「もちろん」
彼女が指さしたのは、小さな装飾品店だった。
店先には銀細工の髪飾りや、色とりどりの石を使った首飾りが並んでいる。
「きれいね」
ヴィオレッタが一つの髪飾りを手に取った。
銀色の細い枝に、小さな青い石が三つ並んでいる。
「似合いそうだな」
俺が言うと、彼女は少し驚いた顔をした。
「そう思う?」
「ああ。ヴィオレッタの髪に合いそうだ」
「……ありがとう」
彼女は髪飾りを見つめた。
しばらく迷っていたが、結局、棚へ戻した。
「買わないのか?」
「今日は見るだけにしておくわ」
「そうか」
俺は何気なく値札を確認した。
少し高い。
ただ、手が届かないほどではない。
彼女が別の商品を見ている間に、俺は店主へ声をかけた。
◇
店を出た後、俺たちは広場へ向かった。
中央には大きな噴水があり、周囲には露店が並んでいる。
子供たちが走り回り、旅芸人が小さな舞台で曲芸を披露していた。
「わあ……!」
ヴィオレッタが目を輝かせた。
「こういう場所、久しぶりだわ」
「学園の外じゃ、あまり機会がないのか?」
「そうね。家にいた頃は、外出するにもいろいろ準備が必要だったから」
公爵令嬢という立場を考えれば、当然なのかもしれない。
「今は自由に歩けるから、楽しいわ」
彼女はそう言って、俺を見た。
「それに、今日はシオンも一緒だし」
「……そっか」
俺は少し照れくさくなった。
ヴィオレッタはそんな俺を見て、小さく笑った。
「ふふ。どうしたの?」
「いや、何でもない」
「そう?」
彼女はそれ以上追及しなかった。
その代わり、広場の端にある菓子店を指さした。
「あれ、食べてみない?」
店先では、薄く焼いた生地に果物と甘いクリームを包んだ菓子が売られていた。
「いいな。買ってみよう」
俺たちは一つずつ注文した。
ヴィオレッタは赤い果実の入ったもの。
俺は蜂蜜と木の実を使ったものを選んだ。
「……おいしい!」
一口食べたヴィオレッタが笑顔になる。
「これ、すごく好きかも」
「そんなに?」
「ええ。シオンも食べてみる?」
彼女は自分の菓子を差し出した。
俺は一瞬、動きを止めた。
「……いいのか?」
「もちろん。代わりに、そっちも少しちょうだい」
「ああ」
互いの菓子を少しずつ交換する。
ただそれだけのことなのに、妙に落ち着かなかった。
ヴィオレッタも同じなのか、頬が少し赤い。
「……おいしいね」
俺が言うと、彼女はうなずいた。
「ええ」
そして、二人で笑った。
◇
午後の遅い時間。
俺たちは王都の北側にある庭園へ向かった。
そこは王家が管理する庭園で、一般にも開放されている場所だった。
広い敷地には花壇や小さな池があり、石造りの遊歩道が続いている。
王城の庭園とは違い、家族連れや恋人同士の姿も多かった。
「……きれい」
ヴィオレッタが足を止めた。
夕日が池の水面に反射し、周囲の花々を柔らかく照らしている。
「来てよかったな」
「ええ。本当に」
俺たちは池のそばのベンチに腰を下ろした。
少し離れた場所では、護衛の二人が周囲を警戒している。
風が吹き、ヴィオレッタの金色の髪が揺れた。
「ねえ、シオン」
「何だ?」
「今日はありがとう」
「どうしたんだ、急に」
「楽しかったから」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「こうして何も考えずに街を歩いたの、久しぶりだったわ」
「俺も楽しかったよ」
「本当?」
「ああ」
俺は池の水面を見つめた。
「最近は、ずっと事件のことばかりだったからな」
「そうね」
ヴィオレッタも水面へ目を向けた。
しばらく、二人とも黙っていた。
気まずい沈黙ではなかった。
むしろ、何も話さなくても落ち着く。
そんな時間だった。
「……シオン」
やがて、ヴィオレッタが口を開いた。
「私、少し変わったと思うの」
「変わった?」
「ええ」
彼女は膝の上で手を重ねた。
「以前は、自分がどう見られるかばかり気にしていたわ」
俺は黙って聞いていた。
「公爵家の娘として、間違ったことをしてはいけない。誰よりも立派でいなければならない。そう思っていたの」
彼女は少し苦笑した。
「今でも、その気持ちがなくなったわけじゃないけれど」
「……そうだったんだな」
「でも、学園に入って、いろいろな人と出会って……」
ヴィオレッタは俺を見た。
「自分が本当にしたいことを、少しずつ考えられるようになったの」
「それは、いいことだと思う」
「ええ。私もそう思うわ」
彼女は微笑んだ。
「シオンのおかげでもあるのよ」
「俺の?」
「そう」
ヴィオレッタはまっすぐに俺を見つめた。
「シオンは、私を公爵令嬢としてだけじゃなく、一人の人間として見てくれたでしょう?」
俺は少し考えた。
「……そうかな」
「そうよ」
彼女は小さく笑った。
「自覚がないところも、シオンらしいけれど」
俺は頭をかいた。
そんなふうに言われると、どう答えればいいのか分からない。
「……俺も、ヴィオレッタには助けられてるよ」
「私に?」
「ああ」
俺は彼女を見た。
「何かあったとき、いつも一緒に考えてくれるだろ。危ないときも、無理に一人で抱え込ませないでくれる」
北部遺跡での戦闘。
研究都市での襲撃。
それ以前にも、何度も助けられてきた。
「ヴィオレッタがいてくれて、よかったと思ってる」
彼女は目を見開いた。
そして、ゆっくりと頬を赤らめた。
「……そういうこと、急に言うのね」
「え?」
「何でもないわ」
ヴィオレッタは少しだけ顔をそむけた。
だが、その口元には笑みが浮かんでいた。
◇
日が沈み始める頃、庭園の灯りがともされた。
遊歩道に並ぶ魔導灯が、柔らかな光を放っている。
昼間とは違う、静かな景色が広がっていた。
「そろそろ戻ろうか」
俺が言うと、ヴィオレッタはうなずいた。
「そうね」
立ち上がった彼女が、ふと足を止める。
「シオン」
「ん?」
「少しだけ、待って」
彼女は庭園の奥を指さした。
そこには、小さな東屋があった。
周囲には白い花が咲き、魔導灯の光に照らされている。
「最後に、あそこを見ていきたいの」
「いいよ」
俺たちは東屋へ向かった。
近づくと、花の甘い香りが漂ってきた。
白い花びらが風に揺れている。
「……きれいね」
ヴィオレッタがつぶやいた。
「ああ」
俺も同じ景色を見つめた。
しばらくして、彼女が小さく息を吸った。
「ねえ、シオン」
「何だ?」
「もし……」
彼女はそこで言葉を止めた。
俺は顔を向ける。
「もし?」
「……ううん」
ヴィオレッタは首を横に振った。
「やっぱり、何でもないわ」
「そうか?」
「ええ」
彼女は微笑んだ。
けれど、その表情には少しだけ迷いがあった。
俺は何も言わず、彼女の言葉を待った。
やがて、ヴィオレッタがもう一度口を開く。
「……シオンは、これから先のことを考えたりする?」
「これから先?」
「学園を卒業した後のことよ」
俺は少し考えた。
「もちろん、考えることはあるよ」
「どんなこと?」
「研究を続けたいと思ってる。古代魔導技術について、まだ分からないことがたくさんあるからな」
「そうね」
「でも、それだけじゃない」
俺は夜空を見上げた。
「家族や仲間たちが、安心して暮らせる世界にしたいと思ってる」
ヴィオレッタは静かに聞いていた。
「……シオンらしいわね」
「そうかな」
「ええ」
彼女は少しだけ笑った。
「じゃあ、その未来に……」
言葉が途切れる。
ヴィオレッタは俺を見つめた。
「……私も、いていい?」
俺は驚いた。
その問いかけが、何を意味しているのか。
すぐには言葉にできなかった。
けれど、答えだけは自然に浮かんだ。
「……もちろん」
俺は彼女を見た。
「ヴィオレッタが一緒にいてくれたら、嬉しい」
彼女は目を見開いた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとう」
その声は、とても小さかった。
風が吹き、白い花びらが舞い上がる。
魔導灯の光の中で、ヴィオレッタの金色の髪が柔らかく揺れた。
俺は、その姿から目を離せなかった。
◇
王城へ戻る途中。
俺はふと思い出した。
「そうだ、ヴィオレッタ」
「何?」
「渡したいものがあるんだ」
俺は小さな包みを取り出した。
昼間、装飾品店で購入したものだった。
「これ……」
ヴィオレッタが包みを開く。
中に入っていたのは、銀色の髪飾り。
小さな青い石が三つ並んでいる。
彼女が店で手に取っていたものだ。
「……シオン?」
「気に入ってたみたいだったから」
俺は少し照れくさくなった。
「よかったら、使ってくれ」
ヴィオレッタはしばらく髪飾りを見つめていた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとう」
その瞳が、わずかに潤んでいるように見えた。
「すごく嬉しい」
「よかった」
「ねえ、シオン」
「ん?」
「つけてみてもいい?」
「もちろん」
ヴィオレッタは髪飾りを手に取り、金色の髪へそっと留めた。
「……どう?」
俺は彼女を見た。
銀色の飾りと青い石が、金色の髪によく映えている。
「……似合ってる」
俺は素直に答えた。
「すごくきれいだ」
ヴィオレッタは頬を赤らめた。
「……もう」
彼女は小さく笑った。
「シオンって、時々ずるいわ」
「何が?」
「……教えてあげない」
そう言って、彼女は楽しそうに笑った。
俺もつられて笑った。
◇
王城へ戻ると、すでに夜になっていた。
客室へ向かう廊下で、ヴィオレッタが足を止めた。
「シオン」
「何だ?」
「今日は、本当にありがとう」
「こちらこそ。楽しかったよ」
「……また、一緒に出かけたいわ」
「ああ。ぜひ」
ヴィオレッタは微笑んだ。
「約束よ」
「分かった」
彼女は少しだけ俺を見つめていた。
何か言いたそうだったが、結局、何も言わなかった。
「……おやすみ、シオン」
「おやすみ、ヴィオレッタ」
彼女は自分の部屋へ入っていった。
俺はしばらく、その扉を見つめていた。
今日一日のことを思い返す。
街を歩いたこと。
菓子を食べたこと。
庭園で話したこと。
そして――。
『その未来に……私も、いていい?』
あの言葉が、頭から離れなかった。
俺は胸に手を当てた。
心臓が、少し速く打っている。
……そうか。
ようやく、自分の気持ちがはっきりした。
俺は、ヴィオレッタのことが好きなんだ。
仲間としてだけじゃない。
大切な友人としてだけでもない。
これから先も、ずっと一緒にいたい。
そう思っている。
「……ちゃんと、伝えないとな」
俺は小さくつぶやいた。
明日。
機会を見つけて、彼女に伝えよう。
そう決めて、自分の部屋へ向かった。
◇
一方、その頃。
王都北西にあるグランツ商会の倉庫では、慌ただしい動きが続いていた。
「急げ! 夜明けまでに運び出すんだ!」
男たちが木箱を荷車へ積み込んでいる。
箱の中には、古代遺跡から持ち出された金属板や魔導具が収められていた。
倉庫の奥では、責任者らしき男が書類を燃やしている。
「……王女が動いた以上、ここはもう使えない」
男は炎を見つめながらつぶやいた。
「だが、必要なものはすでに移した」
そのとき、部下が駆け込んできた。
「大変です!」
「どうした?」
「倉庫の周囲に、王国警備隊の姿が!」
男の表情が変わった。
「……何?」
次の瞬間。
倉庫の外から、鋭い声が響いた。
「王国警備隊だ! 全員、その場を動くな!」
男は歯を食いしばった。
「……くそっ!」
王国警備隊による、グランツ商会の倉庫への捜索が始まろうとしていた。
そして、その指揮を執っていたのは――。
ヴァルターだった。
「逃がすな」
彼は静かに告げた。
「証拠も、人間も、すべて押さえる」
王都の夜は、まだ終わらない。




