追跡者の影
誰かに見られている。
そう感じたことはあるだろうか。
例えば、夜道を歩いているとき。
あるいは、誰もいないはずの廊下を歩いているとき。
ふと背後が気になって、振り返る。
けれど、そこには誰もいない。
前世では、そういう話を聞くたびに、気のせいだろうと思っていた。
人間の感覚なんて、案外いい加減なものだ。
ところが。
「……」
今の俺は、そんなことを考えながら学園の廊下に立っていた。
窓の外には、よく晴れた空。
廊下には生徒たちの話し声。
何もおかしなことはない。
それなのに。
「……何だ?」
さっきから、妙な感覚が消えない。
誰かがこちらを見ているような。
いや。
もっと正確に言えば。
何かに、位置を確かめられているような。
「シオン?」
声をかけられ、振り返った。
ヴィオレッタが立っていた。
「どうしたの? そんなところで」
「ああ、いや……」
俺はもう一度、廊下の先を見た。
誰もいない。
「ちょっと、気になることがあって」
「気になること?」
「……気のせいかもしれないけど」
ヴィオレッタは俺の表情を見つめた。
「また、古代装置のこと?」
「それとは限らないよ」
「否定はしないのね」
「……まあ」
ヴィオレッタは小さく息を吐いた。
「あなた、最近ずっと考え事をしているでしょう」
「そんなに分かる?」
「分かるわよ」
即答だった。
俺は苦笑した。
「……ごめん」
「謝ることじゃないわ」
ヴィオレッタは少し声を落とした。
「でも、何か危険なことがあるなら、黙って一人で抱え込まないで」
「……うん」
俺は頷いた。
その言葉が、妙に胸に残った。
◇
午前の授業は、魔力制御の実技だった。
教官の指示に従い、生徒たちは訓練場に集まっている。
「今日は魔力の出力ではなく、維持と精度を評価する」
教官が説明する。
「指定された魔法陣を一定時間維持し、魔力の揺らぎを最小限に抑えること。過剰な出力は減点対象だ」
「……うわあ」
隣でカイルが顔をしかめた。
「俺、こういうの苦手なんだよな」
「知ってる」
ディーンが淡々と答える。
「お前、何でも力任せだから」
「そんなことねえよ!」
「この前、訓練用の標的を壊しただろ」
「あれは標的が古かったんだって!」
「新品だったぞ」
「……」
カイルが黙った。
俺は思わず笑ってしまった。
「まあ、今日は壊さなければいいんじゃない?」
「シオンまで!」
エリオットが眼鏡を押し上げる。
「でも、今回の試験は面白いよ。魔力回路の安定性を見られるからね」
「エリオットは楽しそうだな」
「そりゃそうだよ。出力が大きいだけじゃ、魔法は扱えないから」
リシアも頷いた。
「細かい制御なら、普段の練習が出ると思う」
「……よし」
カイルが拳を握る。
「俺もやってやる!」
ディーンが小さく呟いた。
「まず、落ち着け」
……本当に、そのとおりだと思う。
◇
実技が始まった。
俺の前には、小さな魔法陣が浮かんでいる。
魔力を流し込む。
円環が淡く光り、内側に複雑な模様が現れた。
ここまでは問題ない。
あとは、出力を一定に保つだけだ。
「……」
呼吸を整える。
魔力の流れを意識する。
余計な力を入れず、均等に。
すると。
――ちりっ。
「……?」
指先に、わずかな違和感が走った。
魔法陣の光が、一瞬だけ揺らぐ。
俺は慌てて魔力を調整した。
すぐに安定する。
「……何だ、今の」
魔力の乱れ。
そう考えれば、それまでだ。
だが、少し違う。
俺自身の魔力が乱れたというより、外から何かが触れたような感覚だった。
「シオン君」
教官の声がした。
「集中しなさい」
「……はい!」
俺は慌てて姿勢を正した。
いけない。
今は試験中だ。
余計なことを考えている場合じゃない。
俺はもう一度、魔法陣に意識を集中させた。
その後、同じ違和感は起こらなかった。
◇
昼休み。
「……というわけなんだけど」
俺はエリオットに、実技中の出来事を話していた。
場所は学園の食堂。
周囲には生徒たちが大勢いる。
もちろん、古代装置の詳しい事情までは話していない。
単に、魔力制御中に妙な感覚があったという相談だ。
「外から触れられたような感覚?」
エリオットが首を傾げた。
「うん」
「魔力干渉かな」
「そういうこともあるの?」
「あるよ。近くで別の魔法が発動していると、微弱な干渉が起こる場合もある」
「なるほど」
「ただ、訓練場には干渉を抑える結界があるからね」
エリオットは少し考えた。
「普通なら、そこまで強く感じないと思う」
「……そっか」
リシアが口を開いた。
「体調の影響かもしれないよ」
「体調?」
「魔力の感覚は、疲労でも変わるから」
「なるほど……」
ヴィオレッタがこちらを見た。
「だから、ちゃんと休みなさいと言っているのよ」
「……はい」
思わず素直に返事をした。
カイルが笑う。
「シオン、怒られてるな!」
「カイルも昨日、教官に怒られてただろ」
ディーンが言った。
「あれは違う!」
「何が違うんだ?」
「……気合いの入れ方?」
「意味が分からない」
食堂に笑い声が広がった。
俺も笑った。
こういう時間は、やっぱり落ち着く。
けれど。
心のどこかに、あの違和感が残っていた。
◇
放課後。
俺は研究所へ向かった。
レティシアさんに、魔力の違和感について相談するためだ。
資料室に入ると、フィオナさんが机に向かっていた。
「こんにちは」
「あ、シオン君」
フィオナさんが顔を上げる。
「いらっしゃい。今日はどうしたんですか?」
「少し相談したいことがあって」
「相談ですか?」
「はい。レティシアさんはいますか?」
「奥の作業室にいらっしゃいますよ」
フィオナさんが立ち上がった。
「呼んできますね」
しばらくして、レティシアさんが姿を現した。
「どうしたの、シオン君」
「実は……」
俺は、朝から感じていた妙な感覚と、実技中の出来事を説明した。
レティシアさんは、途中で口を挟まずに聞いていた。
「……なるほど」
話し終えると、彼女は腕を組んだ。
「外部から魔力に触れられたような感覚、ね」
「はい」
「実際に干渉があったかどうかは、まだ分からないわ」
「ですよね」
「でも、気になるのはタイミングね」
「タイミング?」
「古代装置の調査を始めてから、そういう違和感が増えているんでしょう?」
俺は少し考えた。
「……確かに、最近です」
フィオナさんが表情を引き締めた。
「以前、時計塔の装置がシオン君の魔力に反応したこともありましたね」
「はい」
「ただし、それと今回の現象が関係しているとは限りません」
レティシアさんが頷く。
「そのとおり。今の段階で結びつけるのは早いわ」
彼女は少し考えてから言った。
「シオン君、簡単な魔力測定をしてもいい?」
「測定ですか?」
「ええ。今の状態を記録しておきたいの」
「分かりました」
◇
測定は、研究所の小さな検査室で行われた。
机の上には、透明な結晶を組み込んだ測定器が置かれている。
俺は指示に従い、少量の魔力を流し込んだ。
結晶が淡く光る。
フィオナさんが記録を取る。
「……魔力量は安定しています」
「制御精度も問題ないわね」
レティシアさんが頷く。
「特に異常は見られない」
「……そうですか」
少し安心した。
だが、その直後。
測定器の光が、わずかに揺れた。
「……あれ?」
フィオナさんが声を上げた。
「どうしました?」
「今、一瞬だけ……」
彼女は記録紙を見つめた。
そこには、細い線が一本、通常の波形から外れていた。
「……外部干渉?」
俺が尋ねる。
「分かりません」
フィオナさんは首を振った。
「測定器の誤差かもしれません」
レティシアさんが記録紙を受け取った。
「……もう一度、同じ条件で測定しましょう」
「はい」
二度目の測定。
三度目の測定。
どちらも正常だった。
「……再現しないわね」
レティシアさんが呟いた。
「はい」
フィオナさんも頷く。
「今のところ、原因は特定できません」
俺は測定器を見つめた。
たった一度の乱れ。
それだけで、何かを判断することはできない。
けれど。
やはり、何かが引っかかる。
「……シオン君」
レティシアさんが言った。
「しばらくは、魔力の使用を必要最低限にしておきなさい」
「……分かりました」
「それと、同じことが起きたら、時間と場所を記録して」
「はい」
「危険を感じたら、一人で調べようとしないこと」
「……はい」
最後の言葉だけ、少し強かった。
俺は素直に頷いた。
◇
その日の夕方。
王都の古書店。
アレンは店内の整理を終え、帳簿を閉じた。
窓の外では、夕暮れの光が通りを染めている。
「……今日は静かだったな」
小さく呟き、棚の本を整える。
そのとき。
入口の鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ」
アレンが顔を上げる。
店に入ってきたのは、灰色の外套を着た男だった。
年齢は三十代とも、四十代とも見える。
目深に被った帽子のせいで、顔はよく分からない。
「……古い記録を探している」
男が言った。
「どのような記録でしょうか?」
アレンは普段どおりの口調で尋ねた。
「観測に関するものだ」
アレンの指先が、わずかに止まった。
だが、表情は変えなかった。
「観測、ですか」
「ああ」
「天文観測でしょうか。それとも、魔導技術に関する資料ですか?」
男は少し黙った。
「……古代の記録だ」
「なるほど」
アレンは頷いた。
「申し訳ありませんが、当店では専門的な古代資料の取り扱いは多くありません」
「そうか」
男は店内を見回した。
その視線が、棚の一角で止まる。
そこには、古い文字で書かれた本が並んでいた。
「……ここには、読める者がいると聞いた」
アレンの胸が、わずかに強く打った。
「……古い文字を、ですか?」
「ああ」
「私どもでも、読めるものと読めないものがあります」
男はアレンを見つめた。
「……若い学生が、時々ここへ来るそうだな」
アレンは静かに答えた。
「学生のお客様は、何人もいらっしゃいますよ」
「黒髪の少年だ」
店内の空気が、わずかに重くなった。
「……」
アレンは一瞬だけ考えた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「申し訳ありません。お客様について、こちらからお話しすることはできません」
男は黙っていた。
しばらくして、低く言った。
「……そうか」
そして、踵を返した。
「また来る」
「……ありがとうございました」
男が店を出る。
鐘が鳴った。
扉が閉まる。
アレンはしばらく、その場に立っていた。
「……」
やがて、ゆっくり息を吐く。
「……シオン君」
その名前を、誰にも聞こえない声で呟いた。
偶然ではない。
少なくとも、あの男はシオンを探している。
そして。
古代の観測記録にも、関心を持っている。
アレンは急いで店の奥へ向かった。
◇
翌朝。
俺が学園へ向かおうとしていたとき、連絡が届いた。
差出人は、アレンさん。
短い文章だった。
『至急、お話ししたいことがあります。可能であれば、今日中にお会いできますか』
「……?」
俺は首を傾げた。
アレンさんが、こんな連絡をしてくるのは珍しい。
何かあったのだろうか。
少し考えてから、返事を書いた。
『放課後に伺います』
そして、鞄を持ち直した。
そのとき。
――ちりっ。
「……っ」
昨日と同じ感覚。
今度は、はっきり分かった。
魔力を使っていないのに、指先に小さな刺激が走った。
俺は周囲を見回した。
通りには、いつもどおり人々が歩いている。
荷車を引く商人。
店を開ける職人。
学園へ向かう生徒たち。
不審な人物は見当たらない。
「……何なんだよ」
思わず呟いた。
そのとき。
少し離れた建物の影で、何かが動いた気がした。
俺は目を凝らした。
だが、そこには誰もいない。
風が吹いた。
通りの旗が、静かに揺れる。
俺はしばらく立ち尽くしていた。
そして、ゆっくり歩き始めた。
……気のせいだ。
そう思いたかった。
けれど。
胸の奥で、何かが警告している。
この違和感を、無視してはいけない。
◇
王都の別の場所。
灰色の外套を着た男が、建物の屋上に立っていた。
その手には、小さな金属板がある。
表面には、淡い光が浮かんでいた。
いくつかの小さな点。
そのうちの一つが、ゆっくりと移動している。
男は目を細めた。
「……やはり、反応するか」
金属板の光が、わずかに強くなった。
「識別は、まだ不完全……」
男は低く呟いた。
「だが、位置は追える」
彼は遠くの学園を見た。
その方向へ、ゆっくりと歩き始める。
「……見つけた」
声は、風に紛れて消えた。
王都の朝。
人々は、いつもどおりの日常を過ごしている。
誰も知らない。
その静かな街の中で。
古い記録を追う者が、一人の少年へと近づき始めていることを。




