恋人たちの休日
王都の朝は、澄んだ青空に包まれていた。
休日の大通りには、平日とは少し違う賑わいがある。
買い物を楽しむ家族連れ。
露店を覗き込む若者たち。
待ち合わせ場所で誰かを探す人々。
そんな人波の中で、アイリスは時計塔を見上げた。
「……少し早かったかな」
約束の時間までは、まだ十五分ほどある。
今日は騎士団の仕事が休みだった。
そして、フィオナも研究所の勤務が休みだ。
二人で休みを合わせることができたのは、交際を始めてから初めてのことだった。
「……」
アイリスは自分の服装を見下ろした。
白いブラウスに、落ち着いた青色のスカート。
普段の鎧姿とは違う、街歩き用の服だ。
何度も鏡で確認してきた。
それなのに、今になって少し不安になる。
「……変じゃないよね」
「何がですか?」
「ひゃっ!」
突然、背後から声をかけられた。
振り返ると、フィオナが立っていた。
淡い緑色のワンピース。
肩には小さな鞄をかけている。
普段は研究用の白衣を着ていることが多いため、その姿は新鮮だった。
「フィオナ!」
「おはようございます、アイリスさん」
フィオナは嬉しそうに微笑んだ。
「お待たせしてしまいましたか?」
「ううん。私も今来たところ」
「そうですか。よかったです」
アイリスはフィオナを見つめた。
「……その服、似合ってるね」
「えっ?」
「すごく可愛い」
フィオナの頬が、みるみる赤くなった。
「あ、ありがとうございます……」
「本当のことだよ」
「……アイリスさんも、とても素敵です」
今度はアイリスが赤くなった。
「……ありがと」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に小さく笑った。
まだ少し照れくさい。
けれど、その照れくさささえ嬉しかった。
「じゃあ、行こうか」
「はい!」
二人は並んで歩き始めた。
◇
最初に向かったのは、王都の南区画にある商店街だった。
色とりどりの布地。
香辛料の香り。
小さな装飾品が並ぶ露店。
フィオナは興味深そうに周囲を見回していた。
「……すごいですね」
「ここ、初めて?」
「はい。研究所と自宅の往復が多いので、あまり来たことがなくて」
「そうなんだ」
アイリスは笑った。
「じゃあ、今日はゆっくり見て回ろう」
「はい」
二人は露店を覗きながら歩いた。
フィオナが足を止めたのは、小さな装飾品を売る店だった。
「……あ」
「どうしたの?」
「これ、綺麗ですね」
フィオナが見つめていたのは、銀色の髪飾りだった。
小さな花を模した飾りがついている。
「似合いそうだね」
「そうでしょうか?」
「うん」
アイリスは髪飾りを手に取った。
「ちょっと、つけてみてもいい?」
「えっ?」
「フィオナに」
「……はい」
フィオナは少し恥ずかしそうに頷いた。
アイリスはそっと髪を整え、飾りを留める。
「……うん。やっぱり似合う」
「本当ですか?」
「本当」
フィオナは店先の小さな鏡を覗き込んだ。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「……綺麗です」
「でしょ?」
「はい」
アイリスは店主に代金を支払った。
「えっ、アイリスさん?」
「プレゼント」
「そんな、悪いです!」
「いいの。私が贈りたかったから」
フィオナは困ったように笑った。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
アイリスは少しだけ顔を近づけた。
「大切にしてくれたら嬉しいな」
フィオナは髪飾りにそっと触れた。
「……はい。大切にします」
その声は、いつもより少し柔らかかった。
◇
昼前。
二人は小さな喫茶店に入った。
大通りから少し外れた、落ち着いた店だ。
窓際の席に案内され、向かい合って座る。
「……何にしようかな」
アイリスがメニューを眺める。
「私は、果実のタルトにしようと思います」
「じゃあ、私は蜂蜜のケーキにしようかな」
「美味しそうですね」
「一口食べる?」
「えっ?」
「私のケーキ」
フィオナは少し驚いたあと、微笑んだ。
「……いいんですか?」
「もちろん」
「では、私のタルトもどうぞ」
「やった」
二人は楽しそうに笑った。
しばらくして、注文した菓子とお茶が運ばれてきた。
「……美味しいです」
フィオナが目を輝かせる。
「本当?」
「はい。果実の酸味がちょうどよくて……」
そこまで言って、フィオナははっとした。
「……すみません」
「どうしたの?」
「つい、味の分析をしてしまいました」
アイリスは思わず笑った。
「いいじゃない。フィオナらしいよ」
「……そうでしょうか」
「うん。そういうところ、好きだよ」
フィオナの手が止まった。
「……っ」
「……あ」
アイリスも気づいた。
周囲には、ほかの客がいる。
もちろん、今の会話だけで何かを疑う人はいないだろう。
それでも、二人は少しだけ声を落とした。
「……ごめん。つい」
アイリスが小さく言う。
フィオナは首を振った。
「……嬉しかったです」
その返事に、アイリスの胸が温かくなった。
フィオナは少し俯いたあと、そっと続けた。
「……私も、アイリスさんのそういうところが好きです」
今度はアイリスが言葉に詰まった。
「……そっか」
「はい」
二人は顔を見合わせた。
そして、また小さく笑った。
◇
食事を終えたあと。
二人は王都の公園へ向かった。
広い芝生。
花壇。
木々に囲まれた遊歩道。
休日ということもあり、家族連れや散歩を楽しむ人々の姿があった。
「……気持ちいいですね」
フィオナが空を見上げた。
「うん。天気もいいしね」
アイリスは隣を歩くフィオナを見た。
普段の研究所では、真剣な表情で装置や資料に向き合っている。
けれど、今日は違う。
何気ない景色を見て、嬉しそうに笑っている。
その姿を見られることが、アイリスには嬉しかった。
「……フィオナ」
「はい?」
「今日は楽しい?」
フィオナは少し驚いたように目を瞬かせた。
そして、微笑んだ。
「……とても」
「よかった」
「アイリスさんは?」
「もちろん楽しいよ」
アイリスは即答した。
「フィオナと一緒だから」
フィオナは頬を赤くした。
「……もう」
「ん?」
「アイリスさんは、時々ずるいです」
「えっ、何が?」
「……そういうことを、自然に言うところです」
アイリスは少し考えた。
そして、困ったように笑った。
「……だって、本当のことだし」
「……」
フィオナは小さく息を吐いた。
「……やっぱり、ずるいです」
アイリスは笑った。
「ごめんね」
「謝らないでください」
「え?」
フィオナはアイリスを見つめた。
「……嬉しいので」
今度は、アイリスが何も言えなくなった。
◇
公園の奥には、小さな池があった。
水面には木々が映り、時折、魚が跳ねて波紋を広げている。
二人は池のそばのベンチに腰を下ろした。
「……こうしていると、時間がゆっくり流れているみたいですね」
フィオナが言った。
「うん」
アイリスは頷いた。
「普段は、仕事ばっかりだからね」
「そうですね」
フィオナは小さく笑った。
「研究所にいると、気づいたら夜になっていることもあります」
「それ、あんまりよくないよ」
「……分かってはいるんですが」
「ちゃんと休まないと」
「はい」
フィオナは少しだけ俯いた。
「……アイリスさんも、無理はしないでくださいね」
「私?」
「はい。騎士団のお仕事も、大変でしょうから」
「まあ、それなりにね」
アイリスは笑った。
「でも、大丈夫だよ」
「本当ですか?」
「うん」
少し考えてから、続ける。
「……最近は、休みの日が楽しみになったし」
フィオナが顔を上げた。
「……どうしてですか?」
アイリスは、少しだけ照れくさそうに笑った。
「……また、こうしてフィオナと会えるから」
フィオナはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり微笑んだ。
「……私もです」
風が吹いた。
フィオナの髪が、頬にかかる。
アイリスはそっと手を伸ばしかけた。
けれど、周囲に人がいることを思い出し、その手を止める。
フィオナは、その動きに気づいた。
「……アイリスさん?」
「……ううん。何でもない」
アイリスは少し笑った。
フィオナも、それ以上は尋ねなかった。
代わりに、少しだけ距離を詰めて座り直す。
二人の肩が、触れそうになる。
それだけで、十分だった。
◇
しばらくして。
「……そういえば」
フィオナが口を開いた。
「昨日、レティシアさんから連絡がありました」
「研究所のこと?」
「はい」
アイリスは少し姿勢を正した。
「何かあったの?」
「シオン君から、古い記録について相談したいという連絡があったそうです」
「……古い記録?」
「詳しい内容は、まだ聞いていません」
フィオナは少し考えた。
「ただ、以前調べていた装置に関係する可能性があるそうです」
アイリスの表情が、少し真剣になった。
「……あの装置か」
「はい」
学園の古い時計塔の地下で見つかった装置。
透明な球体。
奇妙な魔力反応。
そして、説明のつかない記録。
アイリスも、その調査が続いていることは知っていた。
「危険はないの?」
「現時点では、装置を動かす予定はありません」
フィオナは答えた。
「レティシアさんも、安全性が確認できるまでは慎重に進める方針です」
「それなら、少し安心かな」
「はい」
フィオナは微笑んだ。
「私も、無理に動かすべきではないと思っています」
アイリスは頷いた。
「フィオナも気をつけてね」
「……はい」
「研究に夢中になると、周りが見えなくなることもあるでしょ?」
「……否定できません」
フィオナは苦笑した。
アイリスも笑う。
「だから、何かあったらちゃんと相談して」
「はい」
フィオナは少しだけ間を置いた。
「……アイリスさんにも?」
「もちろん」
アイリスは即答した。
「私にできることなら、何でも」
フィオナは嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
そして、少し照れくさそうに続けた。
「……でも、今日は研究のことを忘れようと思います」
「うん?」
「せっかく、アイリスさんと一緒にいられる日なので」
アイリスは目を瞬かせた。
それから、柔らかく笑った。
「……そうだね」
今日は、二人の休日だ。
難しいことは、明日考えればいい。
◇
夕方。
二人は再び大通りへ戻ってきた。
街には、少しずつ灯りがともり始めている。
「……今日は、ありがとうございました」
フィオナが言った。
「こちらこそ」
アイリスは笑った。
「楽しかったね」
「はい」
フィオナは髪飾りにそっと触れた。
「……これも、本当にありがとうございます」
「気に入ってくれた?」
「もちろんです」
フィオナは嬉しそうに微笑んだ。
「大切にします」
「うん」
アイリスは頷いた。
少しだけ、別れが惜しい。
まだ一緒にいたい。
そんな気持ちが胸に浮かぶ。
「……フィオナ」
「はい?」
「また、休みが合ったら出かけよう」
フィオナは目を輝かせた。
「……はい!」
「次は、どこに行きたい?」
「そうですね……」
フィオナは少し考えた。
「……アイリスさんが行きたいところなら、どこでも」
「それじゃあ、フィオナの希望が聞けないよ」
「……では」
フィオナは少しだけ頬を赤くした。
「……また、二人でゆっくりできる場所がいいです」
アイリスは微笑んだ。
「……うん。私も」
二人は顔を見合わせた。
そして、小さく笑った。
◇
別れ際。
フィオナが、ふと足を止めた。
「……アイリスさん」
「ん?」
「今日は、本当に楽しかったです」
「うん」
「……私、こういう時間を過ごせることが、まだ少し不思議で」
アイリスは静かに聞いていた。
「以前は、研究のことばかり考えていました」
フィオナは少し笑った。
「もちろん、今も研究は大切です。でも……」
そこで、少し言葉を探す。
「……今は、研究所の外にも、楽しみなことができました」
アイリスの胸が温かくなった。
「……私もだよ」
フィオナは微笑んだ。
「……また、会ってくださいね」
「もちろん」
アイリスは即答した。
「次の休みも、その次も」
フィオナは嬉しそうに笑った。
「……はい」
二人はそこで別れた。
人通りの多い大通り。
誰も、二人の関係を特別なものだとは思わない。
それでよかった。
今は、まだ。
大切な気持ちを、静かに育てていきたかった。
◇
その夜。
フィオナは自室の机に、小さな箱を置いた。
中には、アイリスから贈られた髪飾りが入っている。
「……」
そっと手に取る。
銀色の小さな花。
今日一日の出来事が、次々と蘇った。
待ち合わせ。
買い物。
喫茶店。
公園。
そして、別れ際の言葉。
『次の休みも、その次も』
フィオナは思わず微笑んだ。
「……アイリスさん」
名前を呟く。
それだけで、胸が温かくなる。
机の上には、研究所から持ち帰った資料も置かれていた。
古代装置の反応記録。
未解読の文字。
そして、あの奇妙な印。
フィオナは一度だけ資料に目を向けた。
けれど、すぐに視線を戻す。
「……今日は、お休みです」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
そして、髪飾りを大切に箱へ戻した。
◇
同じ頃。
アイリスも自室で、今日のことを思い返していた。
フィオナの笑顔。
少し照れた表情。
楽しそうに菓子を食べる姿。
そして、最後に見せた、嬉しそうな微笑み。
「……」
アイリスはベッドに腰掛けた。
自然と、口元が緩む。
「……可愛かったなあ」
小さく呟く。
誰も聞いていない。
それなのに、少し恥ずかしくなった。
「……もう」
アイリスは両手で頬を押さえた。
騎士として剣を握るときには、こんなに緊張しない。
危険な任務に向かうときでさえ、もっと冷静でいられる。
なのに。
フィオナの前では、時々どうしようもなく不器用になる。
「……好きだなあ」
その言葉は、静かな部屋に溶けていった。
アイリスは窓の外を見た。
王都の夜空には、いくつもの星が輝いている。
明日になれば、また仕事が始まる。
フィオナも研究所へ戻るだろう。
それぞれの場所で、それぞれの役目を果たす。
けれど。
次の休みには、また会える。
そう思うだけで、明日が少し楽しみになった。
アイリスは小さく微笑んだ。
「……おやすみ、フィオナ」
届くはずのない言葉。
けれど、その声には確かな幸せが込められていた。
王都の夜は、静かに更けていく。
古代の謎も。
迫りつつある影も。
今夜だけは、二人の穏やかな時間を邪魔しなかった。




