長い片思いの終わり
朝の騎士団本部は、いつもどおり騒がしかった。
訓練場からは剣を打ち合わせる音が響き、廊下では騎士たちが忙しそうに行き交っている。
その中を、ユリウスは数枚の書類を手に歩いていた。
古代の装置に関係する移管記録。
先日から調べている管理番号について、旧王都管理局の後継部署から回答が届いたのだ。
問題の記録は、数十年前の組織改編によって別の保管庫へ移されていた。
しかし、その保管庫を管理していた部署も、現在は存在しない。
「……また一つ、確認先が増えましたね」
ユリウスは小さく呟いた。
調査は少しずつ進んでいる。
だが、肝心の記録には、まだ辿り着けていなかった。
執務室の前に着く。
ユリウスは扉に手を伸ばした。
そして、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
昨日の夜。
ガルドと交わした言葉が、脳裏に蘇る。
――俺も逃げねえから。
あの言葉を聞いたとき、胸の奥にあった不安が少しだけ和らいだ。
突然、口づけをしてしまったこと。
そのあと、何も言わずに逃げ出したこと。
どちらも、なかったことにはできない。
けれど、ガルドは自分を拒絶しなかった。
驚いたと、正直に言ってくれた。
そして、自分の気持ちを考える時間がほしいと告げた。
「……」
ユリウスは静かに息を吸った。
もう、逃げない。
そう決めたのだ。
「失礼します」
扉を開ける。
「おう、ユリウス」
ガルドはいつものように机に向かっていた。
「おはようございます、団長」
「おはよう。ちょうどよかった」
「何でしょうか?」
「例の管理記録だ。追加の回答が来てる」
ガルドが書類を差し出す。
ユリウスは受け取り、内容を確認した。
「……移送先の部署が判明したのですね」
「ああ。ただ、そこも今はねえらしい」
「組織改編による統合ですね。後継部署を確認します」
「頼む」
「承知しました」
いつもの会話だった。
必要な報告を行い、次の調査方針を決める。
それだけのことなのに、ユリウスは少し安心した。
昨日の出来事があっても、二人の仕事は変わらない。
ガルドは、これまでと同じように自分を信頼してくれている。
「……ユリウス」
「はい」
「今夜、時間はあるか?」
ユリウスの手が止まった。
「……今夜、ですか?」
「おう。仕事が終わったら、少し付き合ってくれ」
「……どちらへ?」
「そう遠くねえところだ」
ガルドは少し笑った。
「話したいことがある」
ユリウスは顔を上げた。
ガルドは、まっすぐこちらを見ていた。
その瞳に、迷いは見えなかった。
「……はい」
ユリウスは静かに頷いた。
「承知しました」
◇
午前の訓練場。
「そこだ! 踏み込む前に肩が動いてるぞ!」
「は、はい!」
「相手の剣ばっかり見るな! 足元も見ろ!」
ガルドの声が響く。
若い騎士が慌てて姿勢を直し、再び木剣を構えた。
ガルドは腕を組み、その動きを確認する。
しばらくして、訓練が一区切りついた。
「団長」
アイリスが近づいてきた。
「おう、アイリス。どうだった?」
「予定していた訓練は終了しました。大きな問題はありません」
「そうか。ご苦労さん」
「ありがとうございます」
アイリスは一礼し、報告書を差し出した。
「こちらが本日の記録です」
「おう」
ガルドは受け取り、ざっと目を通した。
「……最近、全体的に動きがよくなってきたな」
「はい。特に若手の成長が目立ちます」
「いいことだ」
ガルドは満足そうに頷いた。
アイリスは、その横顔をちらりと見た。
普段どおりに見える。
けれど、どこか考え事をしているようでもあった。
「……団長」
「ん?」
「何か、お悩みですか?」
ガルドは目を瞬かせた。
「……そんな顔してたか?」
「少しだけ」
「まいったな」
ガルドは苦笑した。
「まあ、考え事はある」
「そうですか」
「だが、自分で答えを出さなきゃならねえことだ」
アイリスは静かに頷いた。
「……はい」
それ以上は尋ねなかった。
ガルドは、必要だと思えば自分から話す人だ。
そして、誰かに対して答えを出すと決めたなら、最後まで向き合う人でもある。
「団長」
「おう」
「きっと、きちんと向き合えば伝わると思います」
ガルドは少し驚いたようにアイリスを見た。
「……何の話かも聞いてねえのに?」
「そうですね」
アイリスは小さく笑った。
「でも、団長はそういう方ですから」
ガルドはしばらく黙っていた。
やがて、口元を緩める。
「……ありがとな」
「いえ」
アイリスは一礼し、訓練場を後にした。
その背中を見送ってから、ガルドは空を見上げた。
「……向き合う、か」
昨夜から、何度も考えていた。
ユリウスのことを。
幼い頃に出会った、痩せた少年。
剣を握ることさえ難しかった手。
何度倒れても立ち上がり、必死に自分を追いかけてきた姿。
それが今では、騎士団の副団長だ。
誰よりも信頼できる男になった。
いつからだろう。
ユリウスが隣にいることを、当たり前だと思うようになったのは。
仕事の話だけではない。
食事をするとき。
休みの日。
何か面白いことがあったとき。
気づけば、真っ先にあいつの顔が浮かぶ。
「……」
ガルドは自分の手を見つめた。
昨日、ユリウスが頭を下げたとき。
思わず、引き止めたくなった。
謝ってほしかったわけではない。
ただ、あんな顔をさせたくなかった。
そして何より。
自分を避けてほしくなかった。
「……まったく」
ガルドは小さく笑った。
「今さら、何を考えてんだかな」
◇
昼休み。
ユリウスは騎士団本部の食堂で、簡単な食事を取っていた。
「副団長」
顔を上げると、アイリスが立っていた。
「アイリス。どうしました?」
「こちら、よろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
アイリスは向かいの席に座った。
周囲にはほかの騎士たちもいる。
彼女はしばらく世間話をしてから、声を少し落とした。
「……副団長。団長とは、お話しできましたか?」
ユリウスは静かに頷いた。
「ええ。昨夜、少し」
「そうだったんですね」
「……私の話を、きちんと聞いてくださいました」
アイリスは安心したように微笑んだ。
「よかったです」
「はい」
ユリウスは少しだけ目を伏せた。
「……団長は、本当にお優しい方です」
その表情を見て、アイリスは何も言わずに頷いた。
ユリウスがどれほど長い間、ガルドを想ってきたのか。
すべてを知っているわけではない。
それでも、その気持ちが軽いものではないことは分かっていた。
「副団長」
「はい」
「私は、副団長が幸せでいてくださることが一番嬉しいです」
ユリウスは少し驚いたように顔を上げた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その微笑みには、まだ少し緊張が残っていた。
けれど、昨日までのような迷いはなかった。
「……今夜、団長とお話しすることになっています」
ユリウスが告げる。
アイリスは目を瞬かせた。
「そうなんですか?」
「はい」
「……それなら」
アイリスは少しだけ笑った。
「応援しています、副団長」
「ありがとうございます、アイリス」
ユリウスは静かに頷いた。
「今度こそ、きちんと伝えようと思います」
◇
夕刻。
騎士団本部の仕事が一段落した頃。
「ユリウス」
「はい」
「そろそろ行くか」
ガルドが立ち上がった。
「……はい」
ユリウスも書類を片づける。
二人は騎士団本部を出て、王都の通りを歩いた。
夕暮れの街には、仕事を終えた人々の姿があった。
露店から漂う焼き肉の香り。
帰宅を急ぐ馬車。
店先で談笑する商人たち。
いつもと変わらない風景だった。
「……団長」
「ん?」
「どちらへ向かっているのでしょうか?」
「もう少しだ」
ガルドは前を向いたまま答えた。
やがて、二人は大通りから少し外れた場所へ出た。
そこには、小さな広場があった。
中央には古い噴水。
周囲には木々が植えられ、石造りのベンチが並んでいる。
「……ここは」
ユリウスが呟いた。
「覚えてるか?」
ガルドが尋ねる。
「……はい」
忘れるはずがなかった。
幼い頃、ガルドに連れられて何度も訪れた場所だった。
まだ騎士団に入る前。
剣を握ることさえ満足にできなかった頃。
ガルドは時折、ここへ連れてきてくれた。
食事をしたり、話をしたり。
何でもない時間を、一緒に過ごした。
「懐かしいですね」
「だろ?」
ガルドは笑った。
「久しぶりに来たくなってな」
二人は噴水の近くのベンチに座った。
しばらく、何も話さなかった。
風が木々を揺らす。
水の流れる音が、静かに響いていた。
「……ユリウス」
やがて、ガルドが口を開いた。
「はい」
「昨日、俺に言いかけたことがあっただろ」
ユリウスの胸が高鳴った。
「……はい」
「聞かせてくれ」
ガルドは真っすぐに彼を見た。
「今度は、最後まで」
ユリウスは膝の上で手を握った。
逃げたい。
ほんの一瞬、そんな気持ちが浮かんだ。
だが、それ以上に。
伝えたいと思った。
「……団長」
ユリウスはゆっくり口を開いた。
「私は、幼い頃から、あなたに憧れていました」
ガルドは黙って聞いていた。
「何も持たなかった私に、あなたは手を差し伸べてくださいました」
ユリウスの脳裏に、遠い日の記憶が浮かぶ。
寒い夜。
空腹を抱え、行くあてもなく座り込んでいた自分。
そこへ現れた、大きな男。
恐ろしそうな顔をしていた。
けれど、差し伸べられた手は温かかった。
「最初は、ただ……あなたのように強くなりたかったのです」
ユリウスは静かに続けた。
「あなたの後ろを歩くのではなく、いつか隣に立てるようになりたかった」
「……ああ」
「だから、剣を学びました。騎士になり、努力を重ねました」
ガルドは小さく頷いた。
「知ってる」
その一言に、ユリウスの胸が熱くなる。
「お前がどれだけ頑張ってきたか、俺は見てきた」
「……ありがとうございます」
ユリウスは少しだけ微笑んだ。
「ですが、いつからでしょうか」
視線を落とす。
「あなたの隣に立ちたいという気持ちが、それだけではなくなっていました」
ガルドは何も言わなかった。
「あなたが笑うと、嬉しくて」
ユリウスの声が、少し震えた。
「あなたが誰かを助ける姿を見るたび、誇らしくて」
そして。
「あなたが、私以外の誰かと親しげにしていると……時折、胸が苦しくなりました」
ユリウスはゆっくり顔を上げた。
「……私は、あなたをお慕いしています」
静かな声だった。
けれど、長い年月をかけて育った想いが、その一言に込められていた。
「団長としてではなく、一人の男性として」
ユリウスはガルドを見つめた。
「……ずっと、あなたが好きでした」
言い終えた瞬間。
胸の奥が、少し軽くなった気がした。
長い間、誰にも言えなかった言葉。
それを、ようやく伝えられた。
ガルドは黙っていた。
ユリウスも、返事を急かさなかった。
ただ、待った。
どんな答えでも、受け止めようと決めていた。
やがて、ガルドが静かに口を開いた。
「……ユリウス」
「……はい」
「俺は――」
◇
翌朝。
騎士団本部の執務室には、朝日が差し込んでいた。
「おはようございます、団長」
「おう、おはよう」
いつもどおりの挨拶。
いつもどおりの仕事。
机に向かう二人の姿は、昨日までと何も変わらない。
ただ。
ユリウスの表情は、どこか穏やかだった。
「団長、こちらの書類ですが」
「おう」
「本日中に確認をお願いいたします」
「分かった」
ガルドが書類を受け取る。
「……なあ、ユリウス」
「はい?」
「今日、仕事が終わったら飯でも行くか?」
ユリウスは一瞬、目を見開いた。
そして、自然に微笑んだ。
「……はい。喜んで」
「おう」
ガルドも笑った。
それだけの会話だった。
だが、ユリウスはそのあとも、しばらく穏やかな表情を浮かべていた。
◇
昼休み。
アイリスは廊下でユリウスを見かけた。
「副団長」
「アイリス」
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
いつもどおりの挨拶。
けれど、アイリスはすぐに気づいた。
ユリウスの表情が、昨日までとは少し違う。
「……副団長」
「はい?」
「昨日は、団長とお話しできましたか?」
ユリウスは静かに頷いた。
「……ええ」
そして、穏やかに微笑んだ。
「きちんと、お話しできました」
アイリスはその表情を見つめた。
何かを尋ねようとして、やめた。
代わりに、柔らかく微笑む。
「……そうですか」
「はい」
「よかったです」
ユリウスは小さく頷いた。
「……ありがとうございます、アイリス」
それ以上、二人は何も話さなかった。
アイリスは、ユリウスの背中を見送った。
いつもと変わらない、凛とした姿。
けれど、その足取りは、どこか軽やかに見えた。
◇
夕方。
騎士団本部の執務室。
「……ユリウス」
「はい」
「そろそろ終わるか?」
「あと少しです」
「そうか」
ガルドは椅子に腰掛けたまま、書類を片づけていた。
「急がなくていいぞ」
「ありがとうございます」
ユリウスは最後の書類に目を通し、署名を入れた。
そして、静かにペンを置く。
「……お待たせしました」
「おう」
ガルドが立ち上がる。
「じゃあ、行くか」
「はい」
二人は並んで執務室を出た。
廊下では、若い騎士たちが敬礼する。
「お疲れさまです、団長! 副団長!」
「おう、ご苦労さん」
「お疲れさまです」
いつもと同じ光景だった。
誰も、二人の間に何があったのかは知らない。
ガルドもユリウスも、何も語らなかった。
ただ、廊下を歩きながら、ガルドが何かを言った。
ユリウスは一瞬、驚いたように顔を上げる。
そして。
ふっと、柔らかく笑った。
それは、騎士団の副団長として見せる、整った微笑みとは少し違っていた。
長い間、胸の奥にしまい込んでいたものが、ようやく安らげる場所を見つけたような。
そんな笑顔だった。
ガルドはそれを見て、満足そうに笑った。
二人はそのまま、並んで歩いていく。
距離は、これまでと変わらない。
ただ、その表情だけが、ほんの少し違っていた。
長い片想いが、どのような結末を迎えたのか。
それを知るのは、二人だけだった。




