踏み出した先に
人の評判というものは、実に不思議だ。
積み重ねるには長い時間がかかるのに、崩れるときは驚くほど早い。
そして、一度崩れたものを元に戻すのは、さらに難しい。
そんなことを考えるようになったのは、ヴィオレッタの一件があったからだ。
彼女がしていないことを、したと言われた。
それだけで、周囲の態度は大きく変わった。
真実が明らかになった今でも、すべてが元どおりになったわけではない。
だからこそ、今日という日には意味がある。
学園で、ヴィオレッタに関する正式な説明会が開かれるのだ。
◇
「……人、多いな」
俺は講堂の入口を見ながら呟いた。
説明会の開始までは、まだ少し時間がある。
それなのに、廊下には多くの生徒が集まっていた。
「当然だと思うよ」
隣にいたエリオットが言った。
「王家の方が出席する説明会なんて、そう何度もあることじゃないからね」
「まあ、そうだよな」
「それに、今回の件は学園中で話題になっていたし」
エリオットは眼鏡の位置を直した。
「きちんと説明されるのは、いいことだと思う」
「……うん」
リシアも静かに頷いた。
「噂だけが広まったままでは、ヴィオレッタも前に進めないもの」
俺は二人を見た。
「ありがとう」
「どうしてシオンがお礼を言うの?」
エリオットが不思議そうに尋ねる。
「いや、何となく」
「変なの」
リシアが小さく笑った。
そのとき、背後から声がした。
「シオン!」
振り返ると、カイルとディーンが歩いてきた。
「お前、ここにいたのか!」
「カイル。ディーンも」
「ヴィオレッタ様の説明会だろ? 俺たちも聞きに来たんだ」
ディーンが頷く。
「当事者だけの問題ではないからな」
「そうだね」
俺は講堂の扉を見つめた。
もうすぐ始まる。
今日が、彼女にとって新しい一歩になればいい。
◇
講堂には、重苦しい空気が漂っていた。
前方には学園の責任者たちが並び、その中央にルシアン王子が座っている。
そして、少し離れた席にはヴィオレッタの姿があった。
背筋を伸ばし、静かに前を向いている。
その表情から緊張は読み取れなかった。
けれど、俺は知っている。
彼女が今日を迎えるまで、どれほど悩んできたのか。
やがて、学園長が立ち上がった。
「本日は、過去に学園内で申し立てのあった事案について、調査結果と正式な説明を行います」
講堂が静まり返る。
学園長は書類に目を落とした。
「まず、ヴィオレッタ・フォン・アルヴェイン嬢に対して申し立てられた、エミリア嬢への継続的な嫌がらせについてです」
周囲の生徒たちが、わずかに身じろぎした。
「関係者への聞き取りと提出資料の再確認を行った結果、当該申し立てを裏付ける事実は確認されませんでした」
俺は息を止めた。
「また、申し立てを行ったエミリア嬢本人からも、内容が事実ではなかったとの訂正がなされています」
ざわめきが広がる。
「……本当に?」
「じゃあ、あの噂は……」
「ヴィオレッタ様は何もしていなかったの?」
学園長は静かに続けた。
「学園として、事実確認が不十分な段階で噂の拡散を防げなかったことを重く受け止めています」
そして、ヴィオレッタへ向き直った。
「ヴィオレッタ嬢。学園を代表し、深くお詫び申し上げます」
学園長が頭を下げた。
続いて、ルシアン王子が立ち上がった。
講堂が再び静まり返る。
「私からも、皆に伝えたいことがある」
その声は、よく通った。
「私は当初、エミリアの申し立てを十分に確かめることなく受け止めてしまった」
ルシアンはヴィオレッタへ目を向けた。
「その結果、ヴィオレッタに不当な疑いが向けられる状況を招いた。王族としても、一人の人間としても、軽率な判断だった」
王子は深く頭を下げた。
「ヴィオレッタ。改めて謝罪する」
講堂が静まり返った。
王族が、多くの生徒の前で自らの非を認める。
それがどれほど重いことなのか、俺にも分かった。
ルシアンは顔を上げた。
「そして、ここにいる皆にもお願いしたい。今後は、確かめられていない話を事実として扱わないでほしい」
誰も声を上げなかった。
しばらくして、学園長がヴィオレッタへ発言を求めた。
彼女はゆっくりと立ち上がった。
「……この場を設けていただいたことに、感謝いたします」
落ち着いた声だった。
「私は、今回の件について、すべてを忘れられるわけではありません」
講堂の空気が張り詰める。
「ですが、過去の出来事だけにとらわれていたいとも思いません」
ヴィオレッタは顔を上げた。
「私が望むのは、特別な扱いではありません。ただ、これからは私自身の言葉と行動を見ていただきたいのです」
その言葉は、静かに講堂へ響いた。
「私もまた、皆様と同じように、この学園で学び、成長していきたいと思っています」
彼女は丁寧に一礼した。
最初に拍手が聞こえたのは、どこからだっただろう。
一人。
また一人。
やがて、講堂のあちこちから拍手が広がった。
俺も手を叩いた。
隣のカイルは、俺よりずっと大きな音を立てていた。
「……よかったな」
彼が小さく言った。
「うん」
俺は頷いた。
前方のヴィオレッタが、ほんの少しだけこちらを見た。
目が合う。
彼女は、静かに微笑んだ。
◇
説明会が終わったあと。
講堂の外では、ヴィオレッタに声をかける生徒が何人もいた。
「ヴィオレッタ様……今まで、申し訳ありませんでした」
「私も、噂を信じてしまって……」
彼女は一人ひとりの言葉を聞いていた。
そのすべてに、すぐ許しの言葉を返しているわけではない。
けれど、相手を責めることもしなかった。
「今後は、互いに気持ちよく学園生活を送れればと思います」
そう答える姿は、堂々としていた。
俺は少し離れた場所で待っていた。
やがて、人の波が落ち着く。
「シオン」
ヴィオレッタがこちらへ歩いてきた。
「お疲れさま」
「ありがとう」
「……立派だったよ」
そう言うと、彼女は少し驚いたように目を見開いた。
「そうかしら」
「うん。俺だったら、あんなに落ち着いて話せないと思う」
「実は、かなり緊張していたのよ」
「そうなの?」
「ええ。途中で声が震えそうになったもの」
彼女は小さく笑った。
「でも、シオンが見ていてくれたから」
「俺?」
「あなたと目が合ったとき、少し安心したの」
俺は何と答えればいいか分からなくなった。
ヴィオレッタは楽しそうに微笑む。
「さて」
「ん?」
「約束、覚えているわよね?」
「もちろん」
「それなら、今日は私をどこへ連れていってくれるのかしら?」
俺は少し胸を張った。
「実は、考えてあるんだ」
「あら」
ヴィオレッタの目が輝いた。
「それは楽しみね」
◇
学園を出た俺たちは、王都の商業区へ向かった。
大通りから少し外れた場所に、小さな菓子店がある。
以前、買い物の途中で見つけた店だった。
窓際には季節の花が飾られ、店内には焼き菓子の甘い香りが漂っている。
「ここ?」
ヴィオレッタが尋ねた。
「うん。評判がいいらしいんだ」
「素敵なお店ね」
俺たちは窓際の席に座った。
店員が運んできたのは、果実を使った焼き菓子と温かい紅茶だった。
「……美味しい」
一口食べたヴィオレッタが、嬉しそうに呟く。
「よかった」
「シオンは、こういうお店をよく知っているの?」
「いや。実は、今日のために調べたんだ」
「……私のために?」
「うん」
ヴィオレッタは一瞬、動きを止めた。
そして、ゆっくり微笑んだ。
「……ありがとう」
「そんなに大したことじゃないよ」
「いいえ」
彼女は首を振った。
「とても嬉しいわ」
窓の外では、夕方の街を人々が行き交っている。
俺たちは、しばらく他愛のない話をした。
授業のこと。
最近読んだ本のこと。
カイルとディーンがヴァルターさんとの手合わせ以来、ますます訓練に熱心になっていること。
ヴィオレッタは何度も笑った。
こんなふうに、彼女が何の心配もなく笑っている姿を見るのは、久しぶりな気がした。
「……シオン」
紅茶を飲み終えた頃、ヴィオレッタが静かに口を開いた。
「今日は、本当にありがとう」
「さっきも聞いたよ」
「何度でも言いたいの」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「私、一時期は学園に来ることさえ怖かったの」
俺は黙って聞いていた。
「何をしても悪く受け取られる気がして。誰かと話すだけでも、また噂になるんじゃないかって」
「……うん」
「でも、あなたは変わらなかった」
ヴィオレッタは俺を見た。
「それが、どれほど心強かったか」
俺は少し考えてから答えた。
「俺は、ヴィオレッタのことを信じていただけだよ」
「……そうね」
彼女は微笑んだ。
「だからこそ、嬉しかったの」
少しの沈黙。
それから、ヴィオレッタはそっと手を伸ばした。
テーブルの上に置かれた俺の手に、彼女の指先が触れる。
「……これからも、こうして一緒に過ごせたら嬉しいわ」
心臓が、少し速くなった。
「……俺も」
そう答えると、ヴィオレッタの表情が柔らかくなった。
俺たちはしばらく、そのままでいた。
窓の外には、穏やかな夕暮れが広がっていた。
◇
同じ日の午後。
騎士団本部の中庭では、ユリウスがベンチに腰掛けていた。
手元には、古い搬送記録の写しがある。
前日に発見した管理番号の欠落について、担当部署への照会を済ませたところだった。
「副団長、少しお時間よろしいですか?」
声をかけてきたのはアイリスだった。
「アイリス。どうしました?」
「少し、ご報告したいことがありまして」
アイリスはユリウスの隣に腰掛けた。
その表情は、いつになく明るい。
「……何か良いことがあったのですか?」
「分かりますか?」
「ええ。随分と嬉しそうですから」
アイリスは照れくさそうに笑った。
「実は……フィオナとお付き合いすることになったんです」
ユリウスは一瞬、目を見開いた。
「……本当ですか?」
「はい」
アイリスは嬉しそうに頷いた。
「勇気を出して気持ちを伝えたら、フィオナも同じ気持ちだと言ってくれて」
「……そうでしたか」
ユリウスは穏やかに微笑んだ。
「おめでとうございます、アイリス」
「ありがとうございます!」
アイリスは満面の笑みを浮かべた。
以前から、アイリスがフィオナを特別に想っていることは知っていた。
だからこそ、二人の関係が実を結んだことが、自分のことのように喜ばしかった。
「……勇気を出してよかったですね」
「はい。本当にそう思います」
アイリスは空を見上げた。
「もちろん、怖かったです。もし気持ちを伝えて、今までみたいに話せなくなったらどうしようって」
「……ええ」
「でも、言わなかったら、ずっと分からないままだったんだと思います」
ユリウスは黙って聞いていた。
「フィオナと一緒にいられるだけで幸せだって、ずっと思っていました。でも、本当はもっと近くにいたかったんです」
アイリスは少し照れながら笑った。
「今は、好きだって言えることが、すごく嬉しくて」
その言葉が、ユリウスの胸に静かに響いた。
好きだと言えること。
自分には、まだできないことだった。
「……アイリス」
「はい?」
「一つ、尋ねてもよろしいですか?」
「もちろんです」
「もし……フィオナさんが、あなたと同じ気持ちではなかったら」
ユリウスは少し言葉を選んだ。
「それでも、想いを伝えたことを後悔しなかったと思いますか?」
アイリスはすぐには答えなかった。
少し考えてから、静かに口を開いた。
「……悲しかったと思います」
「……そうですよね」
「でも、伝えたこと自体は、後悔しなかったんじゃないでしょうか」
ユリウスが顔を上げる。
「どうしてですか?」
「好きになったことまで、間違いだったとは思いたくないからです」
アイリスは真っすぐに答えた。
「フィオナを好きになって、一緒に過ごして、たくさん幸せをもらいました。それは、どんな返事だったとしても変わりません」
「……」
「もちろん、相手が困るようなことはしたくありません。でも、自分の気持ちまで、なかったことにする必要はないと思うんです」
ユリウスは膝の上で手を握った。
脳裏に浮かぶのは、一人の男の姿。
大きな背中。
豪快な笑い声。
幼い自分に手を差し伸べてくれた、あの日の記憶。
そして、今も変わらず隣に立つことを許してくれている人。
「……私は」
ユリウスは小さく呟いた。
「ずっと、今の関係が変わることを恐れていました」
アイリスは何も言わず、続きを待った。
「ですが……本当は、変わることを望んでもいるのです」
「……はい」
「矛盾していますね」
「そんなことありません」
アイリスは優しく首を振った。
「大切だから、失うのが怖いんですよね」
ユリウスは目を伏せた。
「……はい」
アイリスは微笑んだ。
「副団長が誰を好きなのか、私は知っています」
「……!」
「ずっと見てきましたから」
ユリウスは少しだけ頬を赤くした。
「……そんなに、分かりやすかったでしょうか」
「ご本人以外には、結構」
「……それは困りましたね」
アイリスがくすりと笑う。
「でも、無理に告白してくださいとは言いません」
彼女はユリウスを見つめた。
「ただ、副団長にも幸せになってほしいんです」
その言葉に、ユリウスはゆっくり顔を上げた。
「……ありがとうございます」
「いえ」
アイリスは立ち上がった。
「それでは、そろそろ戻りますね」
「はい」
数歩進んだところで、アイリスが振り返る。
「副団長」
「何でしょう?」
「応援しています」
ユリウスは少し驚いたあと、静かに微笑んだ。
「……はい」
アイリスが去ったあとも、ユリウスはしばらく中庭に残っていた。
風が、白い髪を揺らす。
長年、胸の奥にしまい続けてきた想い。
それを伝えたら、何かが変わってしまうかもしれない。
けれど。
変わらないままでいることが、本当に自分の望みなのだろうか。
「……団長」
誰もいない中庭で、その名を呟く。
◇
夕刻。
騎士団本部の執務室では、ガルドが報告書を確認していた。
「……なるほどな」
書類を机に置く。
「ユリウス!」
「はい」
隣の机で作業していたユリウスが顔を上げた。
「例の搬送記録の件、よく気づいたな」
「管理番号の欠落でしょうか」
「おう。担当部署から返事が来た」
ガルドは一枚の書類を差し出した。
「どうやら、当時の書類は別の保管庫に移されたらしい」
「別の保管庫……」
「ただし、移送先の記録が残ってねえ」
ユリウスは眉をひそめた。
「意図的な移動の可能性もありますね」
「そうだな。引き続き調べる必要がある」
「承知しました」
ユリウスが書類を受け取る。
ガルドはその姿を見ながら、ふっと笑った。
「……それにしても」
「何でしょう?」
「お前が副団長で、本当によかったよ」
ユリウスの手が止まった。
「……団長?」
「いやな。こういう調査は、俺一人じゃどうにもならねえからな」
ガルドは椅子の背にもたれた。
「お前がいてくれるから、俺は安心して現場に出られる」
「……」
「昔は、俺の後ろを必死についてきてたのにな」
ガルドは懐かしそうに笑った。
「いつの間にか、立派になりやがって」
ユリウスは目を伏せた。
幼い頃。
何も持たず、行くあてもなかった自分に手を差し伸べてくれた人。
あの日から、ずっと追いかけてきた背中。
少しでも近づきたくて、剣を振った。
隣に立ちたくて、努力を重ねた。
そして、ようやく副団長になった。
それでも。
本当に欲しかったものは、まだ手に入っていない。
「……団長」
「ん?」
「私は……」
声が震えそうになった。
アイリスの言葉が、頭をよぎる。
――好きになったことまで、間違いだったとは思いたくないから。
ユリウスは顔を上げた。
「私は、あなたに……」
そこまで言って、言葉が止まった。
ガルドが不思議そうに首を傾げる。
「どうした?」
その顔を見た瞬間。
胸の奥に押し込めていた感情が、あふれた。
ユリウスは一歩、前に出た。
「……っ」
自分でも、何をしているのか分からなかった。
ただ、気づけば。
ガルドの頬に手を添え、唇を重ねていた。
ほんの一瞬。
触れるだけの口づけ。
ガルドが目を見開く。
「……ユリウス?」
その声で、我に返った。
ユリウスは弾かれたように身を引いた。
「……っ!」
顔が熱い。
心臓が、激しく鳴っている。
何をした。
自分は、今、何をした。
「……申し訳、ありません」
ようやく絞り出した声は、ひどく震えていた。
「ユリウス、待て。今の――」
「失礼します!」
ガルドの言葉を最後まで聞くことができなかった。
ユリウスは深く頭を下げ、そのまま執務室を飛び出した。
廊下へ出ても、足を止められない。
ただ、少しでも遠くへ行きたかった。
あの人の顔を、今は見られない。
「……私は……」
曲がり角で立ち止まり、壁に手をつく。
呼吸を整えようとしても、うまくいかなかった。
ずっと、隠してきたのに。
あれほど慎重に守ってきた関係を、自分の手で変えてしまった。
けれど。
後悔しているのかと問われれば、答えられなかった。
唇に残る、わずかな感触。
それを思い出すだけで、胸が苦しくなる。
「……団長」
ユリウスは目を閉じた。
今さら、なかったことにはできない。
◇
執務室には、ガルドが一人残されていた。
「……」
しばらく、動けなかった。
何が起きたのか。
理解はしている。
ユリウスが、自分に口づけをした。
それだけのことだ。
いや。
それだけのことではない。
「……あいつ」
ガルドはゆっくり椅子に腰を下ろした。
脳裏に浮かぶのは、幼いユリウスの姿だった。
初めて出会った頃は、小さく、痩せた少年だった。
それが今では、自分の隣に立つ副団長だ。
誰よりも信頼できる部下。
大切な仲間。
そして。
「……俺は、あいつのことを……」
そこまで呟いて、言葉が止まった。
今まで、考えたこともなかった。
ユリウスが自分をどう見ているのか。
自分がユリウスをどう見ているのか。
当たり前のように隣にいる存在だった。
だからこそ、その関係に名前を付けようとしたことがなかった。
ガルドは大きく息を吐いた。
「……まいったな」
困ったように笑う。
だが、不思議と嫌悪感はなかった。
驚きはした。
戸惑いもある。
それでも、ユリウスに触れられたことを、不快だとは思わなかった。
むしろ。
あいつが、あんな顔をするとは。
ガルドは扉を見つめた。
「……逃げることねえだろうが」
小さく呟く。
けれど、追いかけて何を言えばいいのか。
今は、まだ分からなかった。
◇
夜。
王都の街路には、街灯の明かりがともり始めていた。
俺はヴィオレッタを馬車の待つ場所まで送ったところだった。
「今日は、ありがとう」
彼女が微笑む。
「こちらこそ。楽しかったよ」
「私も、とても楽しかったわ」
ヴィオレッタは少しだけ名残惜しそうに俺を見た。
「……また、誘ってくれる?」
「もちろん」
「約束よ?」
「うん。約束」
彼女は嬉しそうに笑った。
そして、馬車へ乗り込む前に振り返る。
「シオン」
「ん?」
「今日のこと、忘れないわ」
その言葉に、俺は少し照れながら答えた。
「……俺も」
馬車がゆっくりと走り出す。
俺はその姿が見えなくなるまで見送った。
ようやく、ヴィオレッタの冤罪が正式に否定された。
すべてが元どおりになるわけではない。
けれど、彼女は確かに前へ進み始めた。
「……よかった」
俺は小さく呟いた。
そして、夜空を見上げる。
星が、静かに輝いていた。
今日という日が、誰かにとって新しい始まりになったように。
きっと、俺たちの知らないところでも、何かが変わり始めている。
その変化が、どこへ向かうのか。
今はまだ、誰にも分からない。
◇
その夜。
ユリウスは自室の窓辺に立っていた。
外には、王都の夜景が広がっている。
机の上には、明日提出する予定の報告書が置かれていた。
仕事は終わらせた。
必要な手続きも済ませた。
けれど、心だけが落ち着かなかった。
ガルドの顔が、何度も浮かぶ。
驚いた表情。
自分を呼び止めようとした声。
そして、最後まで聞けなかった言葉。
「……明日、どうすれば……」
ユリウスは小さく呟いた。
騎士団を辞めるつもりはない。
副団長としての責任を放棄するつもりもない。
ただ。
あの人の前で、今までどおりに振る舞える自信がなかった。
ユリウスはそっと目を閉じた。
アイリスの言葉を思い出す。
――好きになったことまで、間違いだったとは思いたくないから。
「……そうですね」
静かに呟く。
突然口づけしたことは、謝らなければならない。
相手の気持ちも確かめず、勝手に触れてしまったのだから。
けれど。
好きになったことまで、謝る必要はない。
その想いだけは、否定したくなかった。
「……団長」
窓の向こうに、星が瞬いていた。
長い間、胸の奥にしまってきた気持ち。
それが、ついに外へこぼれ落ちた。
もう、以前とまったく同じ関係には戻れないのかもしれない。
それでも。
明日も、あの人の隣に立ちたい。
ユリウスは静かに拳を握った。




