↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
群星のヴェルシェリア  作者: セイ
第二部 交錯する星々

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
80/120

言葉にする勇気

 ――HELLO。


 たった五文字の英単語が、これほど心を揺さぶるとは思わなかった。


 朝、寮の机に向かった俺は、昨日受け取った紙をもう一度広げた。


 書いたのはアレン。


 古書店で出会った、二十一歳の青年だ。


 彼はこの世界で生まれ育った人間でありながら、日本で暮らしていた記憶を持っているという。


 西暦二〇一八年。


 彼が覚えている、前世の最後の時代。


 その数字を聞いた瞬間の感覚は、今でも鮮明だった。


 この世界に来てから、俺はずっと一人だと思っていた。


 家族がいないという意味じゃない。


 父さんも母さんもいる。大切な人たちも増えた。


 それでも、日本のことを知っているのは自分だけだと思っていた。


 だから、アレンが書いた文字を見たとき、胸の奥にあった何かがほどけた気がした。


「……まさか、本当にいるとはな」


 ただ、浮かれてばかりもいられない。


 アレンが話していた、数百年前の文献。


 そこには、番号の付いた記録の見出しとして、何度も「ORIGIN」という文字が使われていたらしい。


 古い写本のさらに写しだったというが、現在その写しは失われている。


 彼の手元には、当時書き留めた覚え書きが残っているかもしれない。


 数日後、それを見せてもらう約束をした。


 古代の装置に関係する文字と、日本の記憶を持つ人間。


 偶然にしては、妙な重なり方をしている。


 だが、だからといってアレンに何もかも話していいわけではない。


 時計塔の地下にある装置のことは、フィオナさんたちとの約束もある。


 少なくとも、彼が何を知っているのか確かめるまでは慎重に行動するべきだろう。


 俺は紙を引き出しにしまった。


「……さて、学園に行くか」


 考えることは多い。


 けれど、授業まで待ってはくれない。


     ◇


「シオン!」


 教室に入った途端、カイルが駆け寄ってきた。


「今日の放課後、時間あるか!?」


「あるけど……何だよ、朝から」


「ヴァルターさんが手合わせしてくれることになった!」


「え、本当に?」


「ああ! 昨日、使節団の仕事が終わったあとに話がついたんだ!」


 カイルは興奮を隠そうともしない。


 その後ろから、ディーンが歩いてきた。


「朝から騒がしいぞ、カイル」


「お前だって楽しみにしてるだろ!」


「否定はしない」


 ディーンがあっさり答えたので、俺は思わず笑った。


 以前、二人はヴァルターさんに手合わせを挑んだ。


 結果は完敗。


 しかも、ほとんど何もできなかった。


 だが、あのとき教わったことを、二人はずっと練習していたらしい。


「今回はどうするんだ?」


 俺が尋ねると、カイルは胸を張った。


「今度こそ、一撃入れる!」


「目標はいいけど、作戦は?」


「気合い!」


「……それは作戦じゃないだろ」


 ディーンがため息をついた。


「前回は、二人とも相手の動きを追うことばかり考えていた。今回は、こちらから動きを誘導する」


「誘導?」


「ああ。視線と重心の使い方を意識して、相手に選択を迫るんだ」


「なるほど」


「まあ、ヴァルターさん相手に通用するとは思っていないが」


「最初から諦めるなよ!」


「諦めてはいない。現実を見ているだけだ」


 相変わらずの二人だった。


「シオンも見に来いよ!」


「もちろん」


 俺は頷いた。


 あの人の剣術を、もう一度見られる。


 それだけでも十分に価値がある。


     ◇


 昼休み。


 俺は中庭のベンチに座り、エリオットから借りた本を読んでいた。


 古代の記録媒体について書かれた資料だ。


 もっとも、専門用語が多すぎて、半分も理解できていない。


「……記録結晶の残留魔力が、観測対象の識別に影響する場合がある……?」


 思わず声に出してしまう。


 どういう意味だろう。


 記録そのものが、観測対象として認識されることもあるということか。


 そう考えていると、聞き慣れた声がした。


「シオン」


 顔を上げる。


「ヴィオレッタ」


 金色の髪を揺らしながら、ヴィオレッタが歩いてきた。


「こんなところにいたのね」


「ああ。少し調べ物をしてた」


「古代魔導技術?」


「うん。最近、気になることがあって」


「そうなのね」


 ヴィオレッタは俺の隣を見た。


「座ってもいいかしら?」


「もちろん」


 彼女は静かに腰を下ろした。


 しばらく、二人で中庭を眺める。


 風が吹き、木々の葉が揺れた。


「……シオン」


「ん?」


「来週のことなのだけれど」


 その言葉で、何の話か分かった。


「ルシアン殿下の件?」


「ええ」


 ヴィオレッタは頷いた。


「正式な撤回の場について、日程が決まったの」


「そうなんだ」


「学園の関係者と、当時の件に関わった方々の前で説明が行われるそうよ」


 彼女の声は落ち着いていた。


 けれど、膝の上で重ねた手には、少し力が入っている。


「……緊張してる?」


「少しだけ」


 ヴィオレッタは小さく笑った。


「誤解が解けることは嬉しいわ。でも、あの日のことをもう一度思い出すのは……やっぱり、簡単ではないの」


 俺は頷いた。


 身に覚えのない罪を責められたこと。


 信じていた相手に疑われたこと。


 その痛みは、謝罪されたからといって簡単に消えるものじゃない。


「……無理に平気なふりをしなくてもいいと思う」


 俺は言った。


「つらかったことは、つらかったままでいいんじゃないかな」


「……シオン」


「撤回されるのは、ヴィオレッタが悪くなかったからだ。だから、周りの人のために笑う必要なんてないよ」


 彼女は、しばらく黙っていた。


 それから、ゆっくり微笑む。


「……ありがとう」


 その声は、少しだけ震えていた。


「不思議ね。シオンと話していると、気持ちが軽くなるの」


「俺は、思ったことを言っただけだよ」


「それが嬉しいの」


 ヴィオレッタは微笑んだ。


 俺は、何と返せばいいのか分からなくなった。


 彼女は少しだけ身を寄せる。


 肩が触れるほどではない。


 けれど、先ほどより距離が近い。


「……来週、もしよかったら」


「うん」


「撤回の場が終わったあと、少しだけ時間をもらえる?」


「もちろん」


 俺が答えると、ヴィオレッタは安心したように笑った。


「ありがとう。じゃあ、約束ね」


 その笑顔を見て、俺の胸も少し温かくなった。


     ◇


 同じ頃。


 王立魔導技術院では、フィオナとレティシアが古い検査表を確認していた。


 騎士団がオスカー・ベルンから借り受けた資料の写しだ。


「……五人の技術者に対して、六つの反応」


 フィオナが呟いた。


「しかも、魔力供給を停止したあとも、最後の反応だけが残っている」


 レティシアが記録を指でなぞる。


「単純な測定誤差とは考えにくいな」


「ええ。でも、これだけでは何とも言えません」


「生体反応とは限らない、ということか」


「そうです。装置が記録そのものを観測していた可能性もあります」


 レティシアは頷いた。


「それなら、供給停止後も反応が残った説明にはなる」


「ただし、推測にすぎませんけれど」


 フィオナは別の資料を取り出した。


 シオンから受け取ったアルファベットの一覧だ。


「こちらの解析も進めたいのですが……」


「何か気になるのか?」


「シオン君が、どうしてこの文字を知っているのか……少しだけ」


 レティシアは紙を見た。


「本人にも説明できないことはある。それに、今は装置の安全性を確認する方が先だ」


「そうですね」


 フィオナは頷いた。


 そのとき、研究室の扉が叩かれた。


「失礼します」


 アイリスだった。


「アイリスさん!」


 フィオナの表情が明るくなる。


「お仕事はもう終わったのですか?」


「はい。今日は早めに交代できましたので」


 アイリスはレティシアにも挨拶した。


「調査の進捗はいかがですか?」


「少しずつだな」


 レティシアは書類をまとめた。


「ちょうど区切りがついたところだ。私は保管室に行ってくる」


「え、でも……」


 フィオナが何か言いかける。


「夕方までには戻る」


 レティシアは淡々と答えた。


 そして、資料を抱えて研究室を出ていった。


 扉が閉まる。


 部屋には、フィオナとアイリスだけが残された。


「……レティシアさん、忙しそうですね」


 アイリスが言った。


「ええ。最近、調べることが増えてしまって」


 フィオナは笑った。


 けれど、すぐに表情を和らげる。


「でも、アイリスさんが来てくださって嬉しいです」


「……私も、お会いしたかったので」


 アイリスが答える。


 フィオナは少し驚いた。


「……そうなのですか?」


「はい」


 アイリスは、まっすぐに彼女を見つめた。


「今日は、お話ししたいことがあって来ました」


     ◇


 技術院の中庭には、小さな花壇があった。


 夕方になると、建物の影が伸びて、周囲は静かになる。


 フィオナとアイリスは、並んで歩いていた。


「……何か、ありましたか?」


 フィオナが尋ねる。


 アイリスは少しだけ緊張していた。


 昨日、ユリウスと話したことを思い出す。


 大切な関係だからこそ、変わるのが怖い。


 けれど、変わらないことが、相手の望みとは限らない。


「……フィオナさん」


「はい」


「私たち、これまで何度も一緒に過ごしてきましたよね」


「ええ」


 フィオナは微笑んだ。


「研究の合間にお茶を飲んだり、街を歩いたり……」


「はい」


「私は、そういう時間がとても好きです」


 アイリスは頷いた。


「私もです」


 二人は足を止めた。


 風が吹き、花壇の小さな花が揺れる。


「……実は」


 アイリスは、ゆっくり言葉を選んだ。


「ずっと、伝えたいことがありました」


 フィオナの表情が変わる。


 何を言おうとしているのか、分かったのかもしれない。


 けれど、彼女は何も言わずに待っていた。


「フィオナさんと一緒にいると、安心します」


 アイリスは続ける。


「嬉しいことがあれば、最初に伝えたくなります。つらいことがあれば、声を聞きたくなります」


 フィオナは静かに聞いていた。


「騎士として、守りたい人はたくさんいます」


 アイリスは少しだけ笑った。


「でも……あなたのことは、それとは違う意味で、大切に思っています」


 フィオナの頬が赤くなった。


「……アイリスさん」


「私は、あなたが好きです」


 アイリスは、はっきりと言った。


「友人としてだけではありません」


 短い沈黙が落ちた。


 アイリスの心臓は、早鐘のように鳴っていた。


 もし、困らせてしまったら。


 もし、今までの関係が変わってしまったら。


 そんな不安が、胸をよぎる。


 けれど。


「……私もです」


 フィオナが答えた。


 アイリスは顔を上げた。


 フィオナは、少し涙ぐんでいた。


「私も、アイリスさんが好きです」


「……フィオナさん」


「ずっと、そうでした」


 フィオナは小さく笑った。


「でも、私も怖かったんです。今の関係が大切すぎて、言葉にする勇気がなくて」


 アイリスの胸が、熱くなった。


「……同じだったんですね」


「ええ」


 フィオナは頷いた。


「本当に、同じだったみたいです」


 二人は、しばらく見つめ合った。


 やがて、アイリスが手を差し出す。


「……手を、つないでもいいですか?」


 フィオナは微笑んだ。


「もちろんです」


 指先が触れる。


 そして、ゆっくりと手が重なった。


 これまでにも、何度か手を取ったことはある。


 けれど、今日は違った。


 互いの気持ちを、言葉にしたあとだったから。


「……これからも、一緒にいてください」


 アイリスが言った。


 フィオナは、つないだ手に少し力を込めた。


「はい。喜んで」


 そして、少し恥ずかしそうに付け加える。


「……恋人として、ですよね?」


 アイリスは目を見開いた。


 それから、頬を赤くして笑った。


「……はい」


 フィオナも笑った。


 二人の間に、もう迷いはなかった。


     ◇


 放課後。


 学園の訓練場には、カイルとディーンが立っていた。


 向かいにいるのは、ヴァルターさんだ。


「準備はいいか?」


「はい!」


 カイルが元気よく答える。


 ディーンも剣を構えた。


「お願いします」


 俺は訓練場の端で、その様子を見守っていた。


 前回と同じく、二人がかりで挑む形式だ。


 ただし、今回は最初から全力で攻めるわけではないらしい。


「では、始めよう」


 ヴァルターさんが言った。


 カイルが動く。


 真正面からではない。


 斜めに踏み込み、ヴァルターさんの右側へ回り込む。


 同時に、ディーンが反対側へ動いた。


 前回より、明らかに連携がよくなっている。


「ほう」


 ヴァルターさんが小さく笑った。


 カイルが剣を振る。


 だが、ヴァルターさんは半歩だけ動き、その軌道を外した。


 その瞬間、ディーンが踏み込む。


 ヴァルターさんの背後を狙った一撃。


 しかし。


 カンッ!


 乾いた音が響いた。


 ヴァルターさんは振り返ることなく、剣を合わせていた。


「……っ!」


 ディーンが目を見開く。


「悪くない」


 ヴァルターさんが言った。


「だが、まだ分かりやすい」


 次の瞬間、カイルの剣が弾かれた。


「うおっ!?」


 カイルが体勢を崩す。


 そこへ、ヴァルターさんの剣先が向けられた。


「一本」


「……くそっ!」


 カイルが悔しそうに唇を噛む。


 ディーンは、すぐに剣を下ろさなかった。


「……もう一度、お願いします」


「いいだろう」


 ヴァルターさんは頷いた。


「今度は、さっきの失敗を踏まえてみろ」


 二人は再び構える。


 俺は、その様子をじっと見つめていた。


 前回と違う。


 二人の動きは、確実によくなっている。


 それでも、ヴァルターさんには届かない。


 だが、届かないからこそ、学べることがあるのだろう。


 何度か手合わせを繰り返したあと、ヴァルターさんが剣を下ろした。


「今日はここまでだ」


「ありがとうございました!」


 二人が頭を下げる。


 ヴァルターさんは笑った。


「前よりよくなっている。特に、互いの動きを見る余裕ができたな」


 カイルが顔を上げる。


「本当ですか!?」


「ああ。ただ、まだ自分たちの攻撃を成功させることばかり考えている」


 ヴァルターさんは二人を見た。


「相手に何をさせたいのか。それを考えろ」


「相手に……?」


 ディーンが呟く。


「そうだ。強い相手ほど、自分の思いどおりには動いてくれない。なら、動かすんだ」


 ヴァルターさんは木剣を肩に担いだ。


「そのためには、相手が何を嫌がるかを知らなきゃならん」


 カイルは真剣な顔で頷いた。


「……分かりました!」


 ディーンも頭を下げる。


「ありがとうございます。次の訓練から意識します」


「期待している」


 ヴァルターさんは笑った。


 俺は、少し離れた場所からそのやり取りを見ていた。


 剣の強さは、単純な力や速さだけでは決まらない。


 それは、魔法にも通じることなのかもしれない。


 そんなことを考えていると、ヴァルターさんがこちらを向いた。


「シオン」


「はい」


「お前は、どう見た?」


 突然尋ねられ、俺は少し驚いた。


「……そうですね」


 俺は、さっきの手合わせを思い返した。


「カイルとディーンは、前よりずっと連携できていたと思います」


「ほう」


「でも、ヴァルターさんは二人の動きを見てから対応しているようには見えませんでした」


 ヴァルターさんの目が、少し細くなる。


「続けてみろ」


「……二人が何をしようとしているのか、動く前から分かっていたように見えました」


 ヴァルターさんは、しばらく黙っていた。


 それから、笑った。


「よく見ていたな」


「ありがとうございます」


「だが、正確には少し違う」


「え?」


「分かっていたんじゃない。分かるように仕向けていたんだ」


 俺は、思わず息を止めた。


「……仕向ける?」


「ああ」


 ヴァルターさんは頷いた。


「相手が選べる動きを減らしていけば、次に何をするかは自然と絞られる」


 その言葉が、妙に心に残った。


 相手が選べる動きを減らす。


 それは、単なる剣術の話ではないように思えた。


「……なるほど」


 俺が頷くと、ヴァルターさんは笑った。


「まあ、言葉で理解するのと、実際にできるのは別だがな」


「そうですね」


 カイルが横から口を挟む。


「シオンも次は一緒にやろうぜ!」


「いや、俺は剣術じゃ二人に追いつけないって」


「だから面白いんだろ!」


「何が面白いんだよ……」


 ディーンがため息をつく。


 ヴァルターさんは、そんな俺たちを見て楽しそうに笑った。


     ◇


 その日の夕刻。


 騎士団本部の執務室では、ユリウスが調査報告をまとめていた。


 机には、オスカーから借りた検査表の写しが置かれている。


 六つ目の反応。


 所在不明の観測対象。


 そして、記録が残された時期。


 どれも、まだ断定できるものではない。


「……もう少し、調べる必要がありますね」


 ユリウスが呟いたとき、扉が開いた。


「まだ仕事してたのか」


 ガルドだった。


「団長」


「もう夕方だぞ。少しは休め」


「昨日の調査結果を整理しておきたかったので」


「相変わらずだな」


 ガルドは呆れたように笑った。


 そして、机の上の書類を見る。


「例の検査表か」


「はい」


「何か分かったか?」


「まだ、はっきりとは」


 ユリウスは首を振った。


「ただ、当時の装置が何を観測していたのか、それを確認する必要があると考えています」


「そうか」


 ガルドは頷いた。


 そして、ユリウスの肩に手を置いた。


「無理すんなよ」


 その何気ない仕草に、ユリウスの胸が跳ねた。


「……はい」


「お前が倒れたら、俺が困る」


 ガルドは笑った。


「頼りにしてるんだからな」


 ユリウスは、思わず目を伏せた。


 努力して強くなった。


 背中を預けられる。


 頼りにしている。


 その言葉が、どれほど嬉しいか。


 この人は、きっと知らない。


「……団長」


「ん?」


 ユリウスは顔を上げた。


 言いたいことは、いくつもあった。


 けれど。


「……ありがとうございます」


 結局、そう答えることしかできなかった。


 ガルドは笑った。


「礼を言うようなことじゃねえよ」


 そして、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 ユリウスは、しばらくその場に立っていた。


 やがて、静かに息を吐く。


「……本当に、ずるい人ですね」


 その声は、誰にも届かなかった。


     ◇


 夜。


 寮の部屋に戻った俺は、机の引き出しを開けた。


 中には、昨日アレンから受け取った紙がある。


 ――HELLO。


 俺は、それをもう一度眺めた。


 今日、ヴァルターさんから聞いた言葉を思い出す。


 相手が選べる動きを減らせば、次に何をするかは絞られる。


 アレンとの出会いも、偶然ではなかったのだろうか。


 いや。


 そこまで考えるのは、さすがに飛躍しすぎかもしれない。


 けれど、古代の文献に日本の文字が残されている。


 それだけは、無視できない。


 俺は紙を引き出しに戻した。


 数日後、アレンと再び会う。


 そのとき、何か新しいことが分かるかもしれない。


 窓の外では、夜空に星が輝いていた。


 俺は、しばらくその光を眺めていた。


 前世の世界でも、こうして星を見上げたことがあった。


 あの空と、この空は違う。


 それでも。


 誰かと同じ記憶を分かち合えるかもしれないと思うだけで、少しだけ心が軽くなった。


     ◇


 同じ夜。


 フィオナの部屋には、二人分の紅茶が用意されていた。


 いつもなら研究の話や騎士団での出来事を語り合い、時間を忘れてしまう二人だった。


 けれど、今夜は少し違う。


 互いの気持ちを確かめ合い、恋人になって初めて迎える夜。


 アイリスは、向かいに座るフィオナを見つめた。


「……フィオナさん」


「はい」


「今日は、帰りたくないと思ってしまいます」


 フィオナの頬が赤くなる。


「……実は、私も帰ってほしくないと思っていました」


 二人は顔を見合わせ、照れくさそうに笑った。


「それなら……今夜は泊まっていきませんか?」


「……はい」


 答えたアイリスの声は、少し震えていた。


 やがて紅茶を飲み終え、二人は寝台の端に並んで腰掛けた。


 肩が触れる。


 それだけで、互いの鼓動が速くなった。


「……私、こういうことは初めてで」


 アイリスが小さく呟いた。


「私もです」


 フィオナは微笑んだ。


「本で読んだことはありますけれど……実際には、どうしたらいいのか分からなくて」


「フィオナさんでも、分からないことがあるんですね」


「もう。私だって、何でも知っているわけではありません」


 少し拗ねたような言い方に、アイリスが笑う。


 その笑顔を見て、フィオナも緊張が和らいだ。


「……でも」


 フィオナは、そっとアイリスの手を取った。


「分からないからこそ、二人で少しずつ確かめていきたいです」


 アイリスは、つないだ手を見つめた。


「……はい」


 ゆっくりと顔を近づける。


 唇が触れ合った。


 初めての口づけは、驚くほど短かった。


 二人とも、どうすればいいのか分からず、すぐに離れてしまったのだ。


「……ふふっ」


 フィオナが笑う。


「……何か、おかしかったですか?」


「いいえ。ただ、二人とも緊張しているんだなと思って」


「……そうですね」


 アイリスも笑った。


 今度は、フィオナの方から顔を寄せた。


 二度目の口づけ。


 先ほどよりも、少し長く。


 アイリスは彼女の背中に腕を回し、フィオナもその肩に手を添えた。


 触れ合う温もりが、二人の緊張を少しずつ溶かしていく。


「……アイリスさん」


「はい」


「もう少し、近くに来てください」


 アイリスは頷き、フィオナを優しく抱き寄せた。


 フィオナの額が、アイリスの肩に触れる。


「……好きです」


 フィオナが囁いた。


「私も、大好きです」


 アイリスは答えた。


 しばらく、二人はそのまま抱き合っていた。


 やがて、フィオナが顔を上げる。


「……今夜、もっとあなたに近づきたいです」


 その言葉の意味を理解したアイリスは、頬を赤くした。


「……私も、同じ気持ちです」


 けれど、すぐに不安そうな表情を浮かべる。


「ただ……私には、どうすればいいのか分かりません」


「私も、知識だけです」


 フィオナは、少し恥ずかしそうに笑った。


「きっと、うまくできないこともあると思います」


「……それでも、いいんですか?」


「もちろんです」


 フィオナはアイリスの頬に手を添えた。


「上手にできることよりも、あなたと一緒にいられることの方が大切ですから」


 アイリスは、その手に自分の手を重ねた。


「……ありがとうございます」


 そして、もう一度口づけた。


 今度は、どちらもすぐには離れなかった。


 やがて二人は、互いの気持ちを確かめながら、ゆっくりと寝台に身を横たえた。


 初めてのことばかりだった。


 どうすれば相手が安心できるのか、何を望んでいるのか。


 分からないことがあれば、言葉にして尋ねた。


 戸惑えば、一度立ち止まった。


 そして、何度も名前を呼び合った。


 拙い知識しかなくても、相手を大切にしたいという気持ちだけは、はっきりしていた。


 やがて、部屋の灯りが落とされた。


 その夜、二人は初めて身体を重ねた。


     ◇


 翌朝。


 フィオナが目を覚ますと、すぐ隣でアイリスがこちらを見つめていた。


「……おはよう、フィオナ」


「おはようございます、アイリスさん」


 フィオナは微笑み、そっとアイリスの手を握った。


「よく眠れた?」


「はい。アイリスさんは?」


「うん。ぐっすり」


 アイリスは少し照れくさそうに笑った。


「……昨日は、幸せだったよ」


 フィオナの頬が赤くなる。


「……私もです。とても幸せでした」


 アイリスはフィオナを優しく抱き寄せた。


「もう少し、このままでいてもいい?」


「もちろんです」


 フィオナはアイリスの胸元に顔を寄せた。


「今日は、お休みなんですよね?」


「うん。だから、急いで起きなくても大丈夫」


「ふふっ。それなら、もう少し甘えさせてください」


「いくらでも」


 アイリスはフィオナの髪を優しく撫でた。


「大好きだよ、フィオナ」


「私も大好きです、アイリスさん」


 二人は微笑み合い、朝の光の中でそっと口づけを交わした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。