もう一人の記憶
朝、寮の部屋を出る前に、俺は机の引き出しを開けた。
中には、昨夜書いた一枚の紙がある。
AからZまで。
二十六文字のアルファベットだ。
前世では珍しくもなかった文字が、今は古代の観測装置を調べるための手がかりになっている。
俺は紙を折り畳み、鞄の内側にしまった。
昨日、フィオナさんとレティシアさんに見せた「ORIGIN」という文字。
あれは、地下の装置全体に付けられた名前ではなく、数ある記録の一つに書かれていたものだった。
起源。
始まり。
言葉の意味は分かる。
だが、何の始まりを指しているのかは分からない。
「……考えても仕方ないか」
今日は、フィオナさんたちに文字を渡す約束がある。
まずは、それを済ませよう。
俺は鞄を肩に掛け、部屋を出た。
◇
「シオン、聞いたか!」
教室に入るなり、カイルが声をかけてきた。
「何を?」
「リューデン王国の使節団が王都に来てるらしい!」
「ああ、昨日エリオットが言ってたな」
「ヴァルターさんも来てるかもしれねえんだ!」
カイルは、朝から妙に機嫌がよかった。
理由はすぐに分かった。
以前、カイルとディーンはヴァルターさんに手合わせをしてもらったことがある。
二人がかりで挑んだものの、結果は完敗だった。
見学していた俺も、その光景をよく覚えている。
ヴァルターさんは二人の攻撃を見切り、ほとんど無駄な動きをせずに対処していた。
あのとき、二人は相手の視線や重心を読むこと、そして戦気に頼る前に剣術の基礎を磨くことの大切さを教わった。
それ以来、二人の訓練に対する姿勢は少し変わったように思う。
「また手合わせをお願いするつもりか?」
「もちろん!」
カイルは即答した。
「前は一撃もまともに当てられなかったからな。今度は少しくらい驚かせたい」
「その前に、昨日指摘された踏み込みを直せ」
隣でディーンが言った。
「分かってるって!」
「分かっているなら、同じ失敗を繰り返すな」
「お前だって、考えすぎて動きが遅れることあるだろ!」
「それは改善している」
「俺だって改善してる!」
相変わらずだ。
俺が笑っていると、エリオットが教室に入ってきた。
「二人とも、今日は一段と元気だね」
「ヴァルターさんが来てるかもしれないんだ!」
「ああ、なるほど」
エリオットは納得したように頷いた。
「でも、使節団の護衛として来ているなら、自由な時間は少ないんじゃないかな」
「……それは考えてなかった」
カイルが固まる。
ディーンがため息をついた。
「だから、まずは挨拶だけでもできれば十分だと言っただろう」
「いや、でも、頼んでみなきゃ分かんねえ!」
その前向きさは、少し見習いたいところだった。
◇
昼休み。
学園の正門近くを通りかかると、リューデン王国の紋章が付いた馬車が停まっていた。
使節団の一行らしい。
その中に、見覚えのある人物がいた。
「……ヴァルターさんだ!」
カイルが真っ先に気づいた。
大柄ではないが、引き締まった体つきの剣士。
無造作に立っているようで、まったく隙がない。
ヴァルターさんは、こちらを向いた。
「おお。カイルにディーンか」
「お久しぶりです!」
カイルが勢いよく頭を下げる。
ディーンも一礼した。
「ご無沙汰しております」
「元気そうだな」
ヴァルターさんは笑った。
「その後、稽古は続けているか?」
「もちろんです!」
「以前教わったことを意識して、訓練しています」
ディーンが答える。
「ほう。それは何よりだ」
ヴァルターさんは二人の立ち姿を眺めた。
「少しは変わったようだな」
「分かりますか!?」
カイルが嬉しそうに身を乗り出す。
「少なくとも、以前より足元が安定している」
「よっしゃ!」
「ただし、喜んだ途端に重心が前へ寄る癖は変わっていないな」
「うっ……」
ディーンが小さく笑った。
すると、ヴァルターさんは今度はディーンを見た。
「お前も、慎重すぎるところは直ったか?」
「……まだ課題は残っています」
「だろうな。考えることは大切だが、剣を振る瞬間まで迷っていては遅い」
「はい」
ディーンは真剣な顔で頷いた。
短いやり取りだったが、以前の手合わせを覚えているからこその会話だった。
カイルが一歩前に出る。
「あの、ヴァルターさん!」
「何だ?」
「今回も、時間があれば手合わせをお願いできませんか!」
ヴァルターさんは少し考えた。
「使節団の予定次第だな」
「やっぱりそうですよね……」
「だが、空き時間ができれば相手をしてやろう」
「本当ですか!?」
「ああ。どれだけ成長したか、俺も興味がある」
カイルは満面の笑みを浮かべた。
ディーンも、口元を緩めている。
その様子を見ていた俺に、ヴァルターさんが声をかけた。
「シオンも久しぶりだな」
「お久しぶりです、ヴァルターさん」
「元気にしていたか?」
「はい」
「そうか」
ヴァルターさんは軽く頷いた。
俺は以前、二人の手合わせを見学しただけだ。
だから、カイルやディーンほど話すことがあるわけではない。
それでも、覚えていてくれたのは嬉しかった。
そのとき、馬車の近くから少女が歩いてきた。
陽光を受けて輝く銀髪。
上品な装い。
エレノア・リューデン王女だった。
「ヴァルター、そろそろ参りましょう」
「ああ」
エレノア殿下は俺たちに気づき、足を止めた。
「皆さん、お久しぶりです」
俺たちは揃って頭を下げる。
「お久しぶりです、エレノア殿下」
以前、殿下に説明をする機会があった。
ただ、それ以上に親しい付き合いがあるわけではない。
「学園での生活はいかがですか?」
「おかげさまで、充実しています」
「それは何よりです」
殿下は穏やかに微笑んだ。
「今回は公務での訪問ですので、あまり長く滞在できませんが、皆さんも勉学に励んでください」
「ありがとうございます」
簡単な挨拶を交わし、殿下はヴァルターさんとともに校舎へ向かった。
その背中を見送った後、カイルが拳を握る。
「よし。今日の訓練、いつもより気合い入れてやるぞ!」
「いつもそれくらい真剣に取り組め」
ディーンが呆れたように言う。
「俺はいつも真剣だ!」
「昨日は途中で腹が減ったと言っていただろう」
「腹が減るのと真剣なのは別だろ!」
俺は笑いながら、二人と別れた。
今日は放課後に技術院へ行く予定がある。
カイルたちの訓練には付き合えそうになかった。
◇
同じ頃。
王都の北へ向かう街道を、一台の馬車が走っていた。
乗っているのは、ガルドとユリウスだった。
「リンド村までは、あとどれくらいだ?」
ガルドが御者に尋ねる。
「一刻ほどで到着します」
「分かった」
ガルドは座席に戻った。
向かいでは、ユリウスが書類を確認している。
「まだ読んでるのか」
「確認しておきたい箇所がありまして」
「昨日も遅くまで調べてただろ」
「本日の聞き取りに必要な資料ですので」
ガルドは腕を組んだ。
「……お前は昔からそうだな」
「何がでしょうか」
「一度決めたら、納得するまでやめねえところだ」
ユリウスは、少しだけ目を伏せた。
「……そうかもしれません」
「入団したばかりの頃も、毎日最後まで訓練場に残ってたな」
「覚えていらしたんですか」
「当たり前だ」
ガルドは笑った。
「最初は体も細かったし、剣を振りすぎて手の皮を剥いてたじゃねえか」
ユリウスの脳裏に、昔の光景が浮かぶ。
まだ幼かった頃、自分を救ってくれた騎士。
その背中を追いかけて、騎士団に入った。
若くして入団できたからといって、最初から強かったわけではない。
体格で勝る相手に何度も負けた。
訓練についていけず、悔しい思いをしたこともある。
それでも、剣を振り続けた。
いつか、あの人の隣に立つために。
「お前は、努力して強くなった」
ガルドが言った。
ユリウスは顔を上げる。
「今じゃ立派な副団長だ。俺が背中を預けられるくらいにな」
「……団長」
「だから、少しは休め。無理をしてまで証明することなんか、もうねえんだ」
ユリウスは、しばらく答えられなかった。
胸の奥が熱くなる。
ガルドにとっては、何気ない言葉なのだろう。
けれど、自分にとっては違う。
何年もかけて追いかけてきた人から、ようやく隣に立てたと認められた。
「……ありがとうございます」
ユリウスは、静かに微笑んだ。
「では、少し休ませていただきます」
「おう」
書類を閉じる。
馬車の窓から、春の風が吹き込んできた。
ガルドは、もう外の景色を眺めている。
ユリウスは、その横顔を見つめた。
昔から変わらない。
この人は、自分がどれほど大切な言葉を口にしているのか、少しも分かっていない。
◇
リンド村の外れに、オスカー・ベルンの家はあった。
小さな畑に囲まれた、古い木造の家だ。
戸を叩くと、白髪の老人が顔を出した。
「……何か用かね」
「王都騎士団のガルド・ヴァレンシュタインだ」
「副団長のユリウス・フォン・エーデルです」
ユリウスが身分証を示す。
「以前、王立保管局で技術監査官を務めていらっしゃいましたね」
老人の表情が変わった。
「……随分と昔の話だ」
「当時の移送記録について、お話を伺いたいのです」
オスカーは、二人をしばらく見つめていた。
やがて、深くため息をつく。
「……入りなさい」
家の中は質素だった。
古い本棚と、使い込まれた机。
壁には、若い頃のものらしい技術者の資格証が飾られている。
ユリウスは、持参した書類を広げた。
「こちらの移送許可証に、お名前が残っています」
オスカーは書類を見つめた。
「……間違いない。私の署名だ」
「何を運んだのか、覚えていますか?」
「覚えているとも」
老人は、乾いた笑いを漏らした。
「忘れたくても、忘れられん」
ガルドが身を乗り出す。
「どんな装置だった?」
「大きな輪と、透明な球体を持つ古い装置だ」
二人は視線を交わした。
時計塔の地下で発見されたものと、特徴が一致している。
「運搬先は?」
「当時、王都の学園がある場所に設けられていた保管施設だ」
「移送後、装置はどうなった?」
「知らん。私は移送前の検査を担当しただけだ」
ユリウスが尋ねる。
「その検査で、何か異常はありましたか?」
オスカーは黙り込んだ。
やがて、ゆっくり頷く。
「あった」
「どのような?」
「装置に魔力を流すと、球体の中にいくつもの光が現れた。そのうちの一つが、検査室にいた誰とも一致しなかった」
「……どういうことですか?」
「検査室にいた技術者は五人だった。全員の魔力反応を別の測定器で確認していた」
老人は、机の上で両手を組んだ。
「だが、球体には六つ目の反応が現れた」
ガルドが眉を寄せる。
「装置の誤作動じゃねえのか?」
「私もそう考えた。だが、魔力供給を止めても、その反応だけはしばらく残っていた」
「記録は残っていますか?」
ユリウスが尋ねる。
「正式な記録は保管局へ提出した。今も残っているかは知らん」
「個人的な控えは?」
オスカーは少し迷った。
そして、棚から古い封筒を取り出した。
「……これだけだ」
中には、手書きの検査表が入っていた。
ユリウスが慎重に受け取る。
「お借りしてもよろしいでしょうか」
「必ず返してくれるなら」
「お約束します」
ガルドは検査表を覗き込んだ。
古い文字と数字が並んでいる。
その一部に、赤い線が引かれていた。
「これは?」
「装置が自動的に追加した記録だ」
ユリウスが、その部分を読み上げる。
「……『所在不明の観測対象』」
オスカーは頷いた。
「誰を指しているのか、当時の技術者にも分からなかった」
ガルドは腕を組んだ。
「そこにいない何かを、装置が観測していたってことか?」
「そうとも言い切れん。古い記録が再表示されただけかもしれない」
オスカーは首を振った。
「ただ、あの装置が普通の魔力測定器ではないことは確かだ」
ユリウスは検査表を見つめた。
また一つ、調べるべきことが増えた。
◇
その日の夕方。
王都に戻ったユリウスは、騎士団本部の廊下でアイリスと顔を合わせた。
「副団長、お帰りなさい」
「ああ。ただいま」
「調査はいかがでしたか?」
「いくつか収穫はあったよ。詳しくは明日の報告で共有する」
「分かりました」
アイリスは頷いた。
だが、すぐには立ち去らなかった。
「……副団長」
「何だい?」
「少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
ユリウスは、彼女の表情を見た。
普段より、少しだけ緊張している。
「私でよければ、話を聞くよ」
「ありがとうございます」
二人は、人通りの少ない中庭へ移動した。
夕暮れの空の下、アイリスはしばらく言葉を探していた。
「……実は、相談したいことがありまして」
「仕事のこと?」
「いえ。個人的なことです」
ユリウスは、少し驚いた。
アイリスが私的な相談を持ちかけてくるのは珍しい。
「何かあったのかい?」
アイリスは小さく息を吸った。
「……大切な人がいるんです」
ユリウスは黙って続きを待った。
「その人も、私を大切に思ってくれていると感じています」
「そうなんだね」
「でも……そこから先に進めなくて」
アイリスは、少し困ったように笑った。
「今の関係が、とても大切なんです。だから、もし気持ちを言葉にして、何かが変わってしまったらと思うと……」
ユリウスは、静かに頷いた。
その気持ちは、痛いほど分かった。
「相手は……フィオナさん?」
アイリスが目を見開く。
「……分かっていたんですか?」
「君たちを見ていれば、何となくね」
アイリスは頬を赤くした。
「……そうですか」
「フィオナさんも、君を大切にしていると思うよ」
「はい。それは、私も感じています」
アイリスは、はっきりと答えた。
「ただ、お互いに分かっているからこそ、最後の一歩が踏み出せないんです」
ユリウスは少し考えた。
「……今の関係を壊したくないんだね」
「はい」
「でも、変わらないままでいることが、必ずしも相手の望みとは限らない」
アイリスは顔を上げた。
「……副団長も、そういう経験が?」
ユリウスは、すぐには答えられなかった。
ガルドの顔が浮かぶ。
幼い頃、自分を救ってくれた人。
何年も追いかけてきた人。
ようやく隣に立てた今も、想いを伝えられずにいる相手。
「……私にも、大切な人がいる」
アイリスは、驚いたように目を瞬かせた。
「そうだったんですね」
「長い間、ずっとね」
ユリウスは、少しだけ笑った。
「ただ、その人との関係が変わるのが怖いんだ」
「……同じですね」
「そうだね」
二人は、しばらく黙っていた。
やがて、アイリスが静かに口を開く。
「……副団長」
「何だい?」
「お互い、少しずつでも前に進めるといいですね」
ユリウスは頷いた。
「そうだね」
そのとき、遠くからガルドの声が響いた。
「ユリウス! まだ帰ってなかったのか!」
ユリウスが振り返る。
「団長。今、戻ります」
アイリスは、その様子を見ていた。
そして、何かに気づいたように微笑む。
「……副団長」
「ん?」
「応援しています」
ユリウスは、一瞬言葉を失った。
アイリスは、それ以上何も言わずに一礼した。
ユリウスは小さく息を吐く。
「……ありがとう」
そして、ガルドのもとへ歩いていった。
◇
放課後、俺は王立魔導技術院を訪れた。
「失礼します」
「シオン君、いらっしゃい」
フィオナさんが机から顔を上げた。
その隣では、レティシアさんが古い記録の写しを並べている。
「約束していたものを持ってきました」
俺は鞄から紙を取り出した。
AからZまでを書いたものだ。
フィオナさんは興味深そうに紙を見つめた。
「これが、あの文字と同じ体系なのね」
「はい。基本的には、この二十六種類を組み合わせて言葉を作ります」
「二十六種類か」
レティシアさんが顔を上げる。
「『ORIGIN』に使われている文字は、全部この中にあるな」
「はい」
フィオナさんは、以前の転写と紙を並べた。
――ORIGIN。
六文字。
俺にとっては見慣れた単語だ。
けれど、この世界でそれを見つけた意味は、まだ分からない。
「シオン君」
フィオナさんが尋ねる。
「この文字を使う言葉は、ほかにも知っている?」
「少しなら」
「ありがとう。今後、別の単語が見つかったら相談してもいいかしら」
「もちろんです」
フィオナさんは頷いた。
「実は、記録の保存順序について少し分かったことがあるの」
彼女は、別の紙を取り出した。
「通常の観測記録には、観測時刻と魔力の変化が残っている。でも、『ORIGIN』を含む記録には、それとは別の識別情報が付いているみたいなの」
「識別情報……」
「ええ。しかも、同じ形式の記録が、もう一件見つかったわ」
レティシアさんが続ける。
「ただし、そっちは欠損が激しい。何が書かれていたのかは、まだ分からない」
「……そうなんですね」
俺は紙を見つめた。
通常の観測記録とは違う形式。
その一つに、前世の世界の言葉が使われている。
偶然なのだろうか。
「この記録は、誰かが後から追加した可能性もあるんですよね?」
俺が尋ねると、フィオナさんは頷いた。
「ええ。装置を作った人と、記録を残した人が同じとは限らないわ」
「だから、今は断定できない」
レティシアさんが言った。
「それに、あの装置はまだ安全性が確認できていない。金属片も、今は差し込まない方針だ」
「分かりました」
俺は頷いた。
時計塔の地下で、球体の光が俺に反応したことを思い出す。
あれが何だったのか分からない以上、軽率に装置を動かすのは危険だ。
フィオナさんは、俺の書いた紙を丁寧にしまった。
「ありがとう、シオン君。何か分かったら、また連絡するわ」
「お願いします」
俺は研究室を後にした。
◇
その日の夕方。
学園へ戻る途中、俺は小さな古書店の前で足を止めた。
店先には、古代魔導技術に関する本が何冊も並んでいる。
エリオットから借りた本だけでは、調べられることに限界がある。
そう思い、一冊を手に取った。
「……それ、古い版ですよ」
背後から声がした。
振り返ると、一人の青年が立っていた。
二十歳前後だろうか。
黒に近い茶色の髪。
目立たない服装。
手には、買い物帰りらしい紙袋を提げている。
「新しい版なら、店の奥にあります。図版も増えているので、そちらの方が分かりやすいですよ」
「あ、ありがとうございます」
「いえ」
青年は軽く会釈した。
俺も本を棚へ戻そうとした。
そのときだった。
「……それ」
青年の視線が、俺の鞄に向いた。
鞄の口から、紙が少しだけ覗いている。
フィオナさんに見せたアルファベットの控えだった。
しまった。
きちんと入れたつもりだったのに。
「その文字……」
青年の表情が変わった。
俺は反射的に紙を鞄へ押し込んだ。
「……何か?」
「すみません。見間違いかもしれません」
青年は一度口を閉じた。
けれど、その場を離れようとはしなかった。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「……はい」
「あなたは、その文字を読めるんですか?」
心臓が跳ねた。
どうして、この人が。
「……何の文字のことですか?」
青年は俺の警戒に気づいたらしい。
「そうですよね。いきなり聞かれても困りますよね」
彼は少し考え、店主に声をかけて紙とペンを借りた。
そして、何かを書いた。
「これなら、どうでしょう」
差し出された紙を見る。
そこには、五文字が並んでいた。
――HELLO。
俺は息を呑んだ。
間違いない。
前世で何度も見た、英語の挨拶だった。
「……読めますか?」
青年が尋ねる。
俺は、すぐには答えなかった。
相手が何者か分からない。
けれど、目の前の文字を見れば、偶然だと片づけることもできなかった。
「……ハロー」
小さく答える。
青年の目が見開かれた。
そして、ゆっくり笑みが浮かぶ。
「……本当に、読めるんですね」
「あなたも?」
「ええ」
青年は頷いた。
「僕も、この文字を知っています」
俺は周囲を見回した。
通りには、買い物帰りの人々が行き交っている。
誰も、俺たちの会話に注意を向けていない。
「……どこで覚えたんですか」
青年は少し迷った。
そして、静かに答えた。
「この世界ではありません」
背筋が冷たくなった。
青年は続ける。
「僕には、ここで生まれる前の記憶があるんです」
俺は、言葉を失った。
前世の記憶。
まさか。
そんなことが。
「……あなたは」
ようやく声が出た。
「どこから来たんですか」
青年は俺をまっすぐ見つめた。
「日本です」
周囲の音が、遠くなった気がした。
日本。
俺が前世で暮らしていた国。
この世界で、誰にも話したことのない場所。
青年は、俺の反応を確かめるように続けた。
「あなたも、知っていますか?」
俺は、ゆっくり頷いた。
「……はい」
青年は大きく息を吐いた。
肩から力が抜けたようだった。
「よかった……」
その声には、隠しきれない安堵があった。
「僕は、アレンといいます」
「……シオン・クレイヴェルです」
「シオンさん、ですね」
アレンは微笑んだ。
「この世界で生まれてからの名前ですか?」
俺は答えをためらった。
けれど、ここまで話してしまった以上、完全に隠すこともできない。
「……そうです」
「やっぱり」
アレンは小さく頷いた。
「僕も、今の名前はこの世界で付けてもらったものなんです」
俺は彼を見つめた。
「あなたも……生まれ変わったんですか?」
「ええ。少なくとも、僕はそう考えています」
その答えに、胸の奥が熱くなった。
同じだ。
この人も、俺と同じように。
前世の記憶を持って、この世界で生きている。
「……俺以外にも、いたんですね」
思わず、そう呟いた。
アレンは少し驚いた顔をした。
それから、静かに笑った。
「僕も、初めて会いました」
「え?」
「前の世界の記憶を持っている人に、です」
俺たちは、しばらく黙って顔を見合わせた。
不思議な感覚だった。
初対面の相手なのに、誰よりも自分の秘密を理解してくれるかもしれない。
けれど、だからといって、すべてを信用していいわけではない。
俺は鞄を握り直した。
「……アレンさん」
「はい」
「少し、聞いてもいいですか」
「もちろん」
「日本では、いつ頃まで生きていたんですか?」
アレンは少し考えた。
「僕が最後に覚えているのは、西暦二〇一八年です」
俺は目を見開いた。
西暦。
その言葉を、この世界で聞く日が来るとは思わなかった。
「……二〇一八年」
「あなたは?」
俺は、自分の前世の記憶をたどった。
学校。
街並み。
スマートフォン。
家族の顔。
最後の日付を思い出そうとする。
「……俺も、近い時代です」
アレンは頷いた。
「そうですか」
そして、少しだけ声を落とした。
「ただ、一つ不思議なことがあるんです」
「何ですか?」
「僕は、この世界で生まれてから二十一年になります」
「……はい」
「でも、以前、前の世界の記憶について書かれた古い文献を見つけたことがあるんです」
俺は息を止めた。
「古い文献?」
「ええ。数百年前のものだと言われていました」
数百年前。
時計塔の地下。
古代装置。
ORIGIN。
頭の中で、いくつもの言葉がつながりかける。
「その文献には、何が書かれていたんですか?」
「詳しい内容は、僕にも分かりませんでした。ただ、そこに見覚えのある文字があったんです」
「……アルファベット?」
アレンは頷いた。
「はい」
俺は、思わず一歩近づいた。
「その文献は、今どこに?」
「……それが、もう手元にはないんです」
「どうして?」
アレンは少し困ったように笑った。
「僕が見たのは、原本ではなく写しだったので。持ち主も、今はどこにいるのか分からなくて」
俺は肩の力を落とした。
けれど、アレンは続けた。
「ただ、覚えていることがあります」
「何ですか?」
「その文献には、同じ文字が何度も出てきました」
俺は、無意識に息を詰めた。
アレンはゆっくりと、その単語を口にした。
「……オリジン」
心臓が、大きく跳ねた。
「……え?」
「ORIGIN。そう書かれていました」
俺は、彼の顔を見つめた。
まさか。
古代装置に残されていた文字と、同じ。
アレンは俺の反応に気づいた。
「……どうしました?」
「……その言葉を、俺も見たことがあります」
今度は、アレンが驚く番だった。
「どこで?」
俺は、すぐには答えなかった。
技術院での調査。
フィオナさんとの約束。
そして、エミリアの誘拐事件。
簡単に話していい内容ではない。
「……今は、詳しく言えません」
アレンは少し考えた後、頷いた。
「分かりました。無理に聞きません」
その反応に、俺は少しだけ安心した。
「ただ……」
アレンは真剣な表情になった。
「もし、その文字について調べているなら、一つだけ覚えておいてください」
「何ですか?」
「僕が見た文献では、ORIGINという言葉は、単独で書かれていたわけではありません」
「……どういうことですか?」
「いくつかの記録の見出しとして使われていたんです」
俺は黙って聞いた。
「それぞれの記録には、番号が付いていました」
番号。
フィオナさんが調べていた、古代装置の記録番号。
偶然なのだろうか。
「……その番号は、覚えていますか?」
「一部だけなら」
アレンは頷いた。
「ただ、今ここで正確に書ける自信はありません。家に戻れば、当時の覚え書きが残っているかもしれません」
「覚え書き?」
「ええ。気になって、写せる範囲だけ書き留めておいたんです」
俺は考えた。
これは、フィオナさんたちに伝えるべき情報だ。
ただし、アレンのことを勝手に話していいのかは分からない。
「……アレンさん」
「はい」
「その覚え書き、今度見せてもらえませんか」
アレンは少し迷った。
それから、頷いた。
「構いません。ただし、僕にも一つお願いがあります」
「何ですか?」
「あなたがORIGINを見た場所について、いつか教えてください」
俺は、すぐには答えられなかった。
けれど、彼の言うことはもっともだった。
こちらだけ情報を求めて、何も話さないわけにはいかない。
「……今は約束できません。でも、話せるようになったら、必ず」
「それで十分です」
アレンは微笑んだ。
俺たちは、数日後にもう一度会う約束をした。
場所は、この古書店の近く。
互いに連絡先を確認し、別れることになった。
「それじゃ、また」
「はい。また」
アレンが去っていく。
俺は、その背中をしばらく見送っていた。
前世の記憶を持つ人間。
俺以外にも、確かに存在した。
しかも、その人物は古代の文献で「ORIGIN」という文字を見たことがあるという。
俺は鞄を握り直した。
今日、分かったことは多い。
けれど、分からないことは、それ以上に増えてしまった。
数百年前の文献。
古代観測装置。
そして、異世界から来た者たち。
これらは、本当に無関係なのだろうか。
夕暮れの王都を歩きながら、俺は考え続けた。
少なくとも、もう一つだけ確かなことがある。
この世界で、俺は一人ではなかった。
それを知れただけでも。
今日という日は、忘れられない一日になった。




