穏やかな午後
王立総合学園の午後は、いつもより少し静かだった。
窓の外では、秋の風が中庭の木々を揺らしている。
俺は机の上に広げた教科書を閉じ、大きく息を吐いた。
「……終わった」
「お疲れ、シオン」
隣から声をかけてきたのは、エリオットだった。
茶色の巻き毛を揺らしながら、俺の机を覗き込む。
「今日の魔導理論、難しかったね」
「難しかったというか、途中から何を説明してるのか分からなくなった」
「それは困ったね」
エリオットは笑った。
「今度、一緒に復習しようか?」
「頼む。特に最後の回路式」
「うん。あそこは少し考え方を変えると分かりやすいんだ」
エリオットは嬉しそうに頷いた。
こいつは本当に魔導回路が好きらしい。
授業が終わった直後だというのに、もう次の勉強の話をしている。
「……シオン」
不意に、後ろから声がした。
振り返る。
そこには、ヴィオレッタ・ローゼンベルクが立っていた。
金色の髪が、窓から差し込む光を受けて輝いている。
「ヴィオレッタ。どうした?」
「今日の放課後、お時間はありますか?」
「……今日?」
「はい」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「以前、お約束したことがありましたでしょう?」
俺は一瞬考えた。
そして、思い出した。
「……ああ、お茶か」
「はい」
ヴィオレッタは頷いた。
「エミリアさんも無事に保護されましたし、そろそろよろしいかと思いまして」
俺は笑った。
「もちろん。空いてるよ」
「……よかった」
彼女の表情が、少しだけ明るくなった。
「それでは、放課後に」
「ああ」
ヴィオレッタは軽く会釈し、自分の席へ戻っていった。
その背中を見送っていると、エリオットがこちらを見ていた。
「……何だよ」
「いや、別に」
口元が笑っている。
「……何だよ、その顔」
「楽しんできてね」
「……お前な」
エリオットは、楽しそうに笑った。
◇
放課後。
俺が向かったのは、学園の東棟にある小さな談話室だった。
普段は生徒同士の交流や、少人数の集まりに使われている場所らしい。
扉を開けると、すでにヴィオレッタが待っていた。
「シオン」
「待たせた?」
「いいえ。私も、今来たところです」
室内には丸いテーブルが置かれ、窓際には小さな花瓶が飾られていた。
テーブルの上には、茶器と焼き菓子が用意されている。
「……すごいな」
俺が呟くと、ヴィオレッタは少しだけ笑った。
「大げさですよ」
「いや、俺の知ってるお茶って、もっと適当だから」
「……適当?」
「湯を沸かして、茶葉を入れて、飲むだけ」
ヴィオレッタは目を瞬かせた。
そして、くすりと笑った。
「それも、立派なお茶の時間だと思います」
「そう言ってもらえると助かる」
俺たちは向かい合って座った。
ヴィオレッタが慣れた手つきで茶を注ぐ。
ふわりと、花に似た香りが広がった。
「どうぞ」
「ありがとう」
俺はカップを手に取った。
一口飲む。
柔らかな甘みが口の中に広がった。
「……うまい」
「お気に召しましたか?」
「ああ。すごく」
ヴィオレッタは嬉しそうに微笑んだ。
「よかったです」
俺は、もう一口飲んだ。
しばらく、穏やかな沈黙が流れた。
窓の外から、遠くで生徒たちが笑う声が聞こえる。
こういう時間は、久しぶりな気がした。
最近は色々ありすぎた。
交流会。
ヴィオレッタへの疑惑。
エミリアの失踪。
騎士団の捜索。
どれも、気の休まる話じゃなかった。
「……ようやく、落ち着いたな」
俺が呟くと、ヴィオレッタが頷いた。
「……そうですね」
彼女はカップを置いた。
「まだ、すべてが解決したわけではありませんけれど」
「ああ」
「それでも、こうして普通に過ごせることが、とてもありがたく感じます」
俺は頷いた。
「……分かる」
しばらくして、ヴィオレッタが口を開いた。
「シオン」
「ん?」
「……少し、聞いてもよろしいですか?」
「もちろん」
彼女は、少しだけ迷ったようだった。
そして、静かに言った。
「あなたは、どうして私を信じてくださったのですか?」
俺は、カップを持つ手を止めた。
「……どうして?」
「はい」
ヴィオレッタは、まっすぐに俺を見つめていた。
「交流会のとき、私は大勢の前で責められました」
彼女は続けた。
「ルシアン殿下まで、エミリアさんの言葉を信じていらっしゃった」
「……ああ」
「それなのに、シオンは私の話を聞いてくださいました」
俺は、少し考えた。
理由。
改めて聞かれると、難しい。
ただ、あのとき。
俺は、ヴィオレッタが何かをしたと決めつける気にはなれなかった。
「……信じたっていうより、決めつけたくなかったんだと思う」
「……決めつけたくなかった?」
「ああ」
俺は頷いた。
「誰かが悪いって言っただけで、本当に悪いことをしたって決まるわけじゃないだろ」
ヴィオレッタは、静かに聞いていた。
「それに、俺はヴィオレッタのことを少しは知ってるつもりだったから」
「……私のことを?」
「ああ」
俺は、少し照れくさくなりながら続けた。
「少なくとも、理由もなく人を傷つけるような奴じゃないと思ってた」
ヴィオレッタは、目を見開いた。
そして、ゆっくりと視線を落とした。
「……そう、ですか」
その声は、少しだけ震えていた。
「……ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことじゃないよ」
「いいえ」
ヴィオレッタは、顔を上げた。
「私にとっては、とても大きなことでした」
俺は、何も言えなかった。
彼女は、静かに微笑んだ。
「……シオンがいてくださって、本当によかった」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
◇
しばらくして、話題は学園生活へ移った。
授業のこと。
友人たちのこと。
最近、カイルが戦気の訓練に熱中しすぎて、授業中に居眠りしていること。
「……カイルさんらしいですね」
ヴィオレッタが笑った。
「この前なんか、ディーンに起こされてた」
「ふふっ」
「しかも、起きた瞬間に『まだ戦える!』って叫んだんだ」
「……本当ですか?」
「本当」
ヴィオレッタは、とうとう声を上げて笑った。
その姿を見て、俺も笑ってしまった。
普段は落ち着いていて、どこか隙のない印象がある彼女。
けれど、こうして笑っていると、同じ年頃の少女なんだと改めて感じる。
「……何ですか?」
俺の視線に気づいたヴィオレッタが、首を傾げた。
「いや」
「……?」
「楽しそうだなって」
彼女は、一瞬だけ目を瞬かせた。
そして、頬を少し赤くした。
「……シオンとお話ししているから、です」
「……え?」
今度は俺が固まった。
ヴィオレッタも、自分が何を言ったのか気づいたらしい。
さらに頬が赤くなる。
「……い、いえ、その……」
彼女は、慌ててカップを手に取った。
「……お茶が、とても美味しいので」
「……そ、そうだな」
俺もカップを持ち上げた。
妙に静かな時間が流れた。
さっきまで普通に話していたのに。
急に、何を言えばいいのか分からなくなった。
……何だこれ。
前世を含めれば、それなりに長く生きているはずなのに。
こういう場面には、まったく慣れていない。
◇
「……シオン」
少しして、ヴィオレッタが口を開いた。
「ん?」
「あなたは、時々、不思議なことをおっしゃいますね」
「……そうか?」
「はい」
彼女は、少し考えるように続けた。
「学園に入学したばかりの頃から、そう思っていました」
「……例えば?」
「物事の考え方が、少し違うのです」
俺は、内心で身構えた。
「……違う?」
「ええ」
ヴィオレッタは、穏やかに微笑んだ。
「身分や立場にとらわれず、相手の話を聞こうとなさるところなど」
「……それは、普通じゃないか?」
「普通だと思っていても、実際にできる方は多くありません」
彼女は、少しだけ視線を落とした。
「特に、貴族社会では」
俺は、黙って聞いていた。
「シオンは、どなたに対しても自然に接していらっしゃいます」
「……まあ、あんまり気にしてないからな」
「そこが、不思議なのです」
ヴィオレッタは、俺を見た。
「……どこで、そのような考え方を身につけられたのですか?」
心臓が、わずかに跳ねた。
前世。
その言葉が、頭をよぎる。
もちろん、今ここで話すつもりはない。
けれど、嘘をつくのも嫌だった。
「……昔から、そういう性格だったんだと思う」
俺は、少し考えて答えた。
「それに、家族にも色々教わったし」
「……ご家族に?」
「ああ」
俺は頷いた。
「うちは裕福じゃないけど、家族仲はいいから」
ヴィオレッタは、柔らかく微笑んだ。
「……素敵ですね」
「まあな」
俺も笑った。
彼女は、それ以上追及しなかった。
ただ、少しだけ興味深そうに俺を見つめていた。
◇
気がつけば、窓の外の光が傾き始めていた。
「……そろそろ、戻らないとな」
俺が言うと、ヴィオレッタが時計を見た。
「……もう、こんな時間なのですね」
「結構話したな」
「……はい」
彼女は、少し名残惜しそうに微笑んだ。
「とても、楽しい時間でした」
「俺も」
俺は立ち上がった。
「また、こういう時間があるといいな」
ヴィオレッタが顔を上げた。
「……本当ですか?」
「もちろん」
俺は笑った。
「今日だけで終わりってのも、もったいないだろ」
ヴィオレッタは、しばらく俺を見つめた。
そして、嬉しそうに頷いた。
「……はい」
その笑顔を見て、俺は少しだけ照れくさくなった。
◇
談話室を出ると、廊下には夕暮れの光が差し込んでいた。
俺たちは並んで歩いた。
しばらくして、ヴィオレッタが足を止めた。
「……シオン」
「ん?」
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
彼女は、少しだけ迷ったように手を動かした。
そして。
俺の袖を、そっとつまんだ。
「……また、お誘いしてもよろしいですか?」
俺は、少し驚いた。
けれど、すぐに笑った。
「もちろん」
ヴィオレッタの表情が、ぱっと明るくなった。
「……よかった」
彼女は、そっと手を離した。
その指先が、少しだけ名残惜しそうに見えた。
俺たちは、再び歩き始めた。
窓の外では、夕日が学園の屋根を赤く染めている。
色々なことがあった。
これからも、きっと色々あるんだろう。
それでも。
こういう時間は、大切にしたい。
俺は、隣を歩くヴィオレッタを見た。
彼女も、ちょうどこちらを見ていた。
目が合う。
どちらからともなく、笑った。
その瞬間。
俺は、はっきりと思った。
――この世界で出会えたことを、嬉しく思う人がいる。
それは、前世にはなかった感覚かもしれない。
少なくとも、今の俺にとっては。
とても、大切なものだった。




