伝えるべき言葉
目を覚ますと、知らない天井があった。
白い天井。
清潔な寝具。
窓から差し込む、柔らかな朝の光。
エミリアはしばらく、それが何を意味するのか理解できなかった。
石造りの部屋ではない。
窓には鉄格子もなく、扉の外に見張りもいない。
昨夜の記憶が、少しずつ戻ってくる。
森の中。
追ってきた男。
剣を抜いた女騎士。
そして、自分を守るように立ちはだかった騎士たち。
「……助かったんだ」
声に出して、ようやく実感が湧いた。
エミリアは両手で顔を覆った。
涙がこぼれた。
怖かった。
本当に、怖かった。
もう二度と学園へ戻れないと思った。
誰にも見つけてもらえず、あの建物で一生を終えるのではないかとさえ考えた。
けれど、自分は生きている。
その事実だけで、胸がいっぱいになった。
扉が軽く叩かれた。
「エミリアさん、起きていますか?」
聞き覚えのある声だった。
「……はい」
扉が開き、青い髪の女騎士が顔を覗かせた。
アイリス・フェルディア。
昨日、自分を助けてくれた人だ。
「おはようございます。体調はいかがですか?」
「……少し、足が痛いです。でも、大丈夫です」
「よかった」
アイリスは微笑んだ。
「医師からは、しばらく安静にするよう言われています。無理はしないでくださいね」
エミリアは頷いた。
そして、深く頭を下げた。
「……昨日は、本当にありがとうございました」
「私は任務を果たしただけです」
「それでも……」
エミリアは顔を上げた。
「助けに来てくれて、嬉しかったです」
アイリスは一瞬だけ目を細めた。
「……そう言っていただけると、私も嬉しいです」
◇
朝食を終えた後、エミリアは騎士団の事情聴取を受けた。
同席したのはアイリスと、記録を担当する女性騎士。
治療院の一室で、休憩を挟みながら話を聞くことになった。
「最初から、順番に確認させてください」
アイリスが言った。
「交流会の日、あなたは学園の裏門付近で男性と一緒にいたそうですね」
「……はい」
「その男性は、学園の関係者でしたか?」
「そうです。魔導理論の補助講師をしていた人です」
エミリアは、男の名前を告げた。
記録係の騎士が、すぐに書き留める。
アイリスは、学園から提出された名簿を確認した。
そこに記されていたのは、馬車の手配名義人と同じ名前だった。
「……間違いありませんか?」
「はい。授業で何度か見かけたことがあります」
アイリスは頷いた。
これで、学園の記録とエミリアの証言がつながった。
「その方に、どのように声をかけられたのですか?」
「……交流会の後、私が一人でいたときです」
エミリアは視線を落とした。
「ヴィオレッタ様のことで、色々あって……」
アイリスは急かさなかった。
「その人が、私の話を聞いてくれるって言ったんです。落ち着いて話せる場所があるから、一緒に来ないかって」
「それで、馬車に?」
「……はい」
「最初から、連れ去られると思っていましたか?」
エミリアは首を振った。
「いいえ。すぐに戻れると思っていました」
彼女は膝の上で手を握った。
「でも、連れていかれた建物からは、外に出してもらえなくて……」
声が震えた。
アイリスは記録係へ目配せした。
筆記の手が止まる。
「少し休みましょうか?」
「……大丈夫です」
エミリアは深呼吸した。
「ちゃんと話したいです」
アイリスは頷いた。
「分かりました。続けてください」
エミリアは、閉じ込められていた間の出来事を語り始めた。
男は、何度も奇妙な文字を見せてきた。
文字の意味が分かるかと尋ねられた。
次に、小さな金属片を渡された。
魔力を流していないのに、刻印が光ることがあった。
だが、そのことを男には伝えなかった。
「……どうして隠したんですか?」
アイリスが尋ねた。
「……怖かったからです」
エミリアは答えた。
「あの人、私が何かに反応するのを待っているみたいだったんです」
彼女は顔を上げた。
「もし光ったって言ったら、もっと帰してもらえなくなる気がして……」
アイリスは静かに頷いた。
「その判断について、あなたを責めるつもりはありません」
エミリアの肩から、少しだけ力が抜けた。
「それで、昨夜のことなんですけど……」
彼女は続けた。
別の場所へ移されることになった。
その直前に、金属片を持ち出した。
馬車から飛び降り、森へ逃げた。
古い木橋を渡ったとき、金属片が光った。
そして、川の向こうに立っていた石柱も光り始めた。
「……石柱が?」
アイリスが確認した。
「はい」
「金属片に触れたときですか?」
「持っていたときです。何かをしたわけじゃありません」
「分かりました」
アイリスは記録した。
「その後、男は何か話しましたか?」
エミリアは少し考えた。
「……検査装置の一部だって言ってました」
「検査装置?」
「はい。魔力を測るだけじゃなくて、特定の反応を示す人を見分けて、結果を記録する仕組みだって」
アイリスの表情が引き締まった。
「……その言葉を、確かに聞いたのですね?」
「はい」
「何を見分ける装置なのか、説明はありましたか?」
「……いいえ」
エミリアは首を振った。
「聞いたんですけど、教えてくれませんでした」
アイリスは頷いた。
「ありがとうございます。とても重要なお話です」
エミリアは、少しだけ不安そうな顔をした。
「……あの」
「はい?」
「私、何か変なんでしょうか?」
アイリスは目を瞬かせた。
「……どうして、そう思うのですか?」
「あの人、私が特別な反応をするかもしれないって……」
エミリアは唇を噛んだ。
「でも、私、普通の人間です。魔法だって、そんなに得意じゃないし……」
アイリスは、彼女の目を見た。
「現時点では、何も分かっていません」
はっきりと答えた。
「金属片の反応についても、専門家が調べています。ただ、それが何を意味するのかは、まだ判断できません」
「……そう、ですか」
「少なくとも、あなたが悪いことをしたわけではありません」
エミリアは、小さく頷いた。
「……はい」
◇
王立総合学園。
その日の午前。
教室に入ると、いつもより少し落ち着かない空気が漂っていた。
「シオン!」
カイルが駆け寄ってきた。
「聞いたか!?」
「何を?」
「エミリアが見つかったんだって!」
「……本当か!?」
俺は思わず声を上げた。
カイルが大きく頷く。
「ああ! 昨日、騎士団が保護したらしい!」
ディーンも近づいてきた。
「学園から正式に連絡があったそうだ。怪我はしているが、命に別状はないらしい」
俺は、深く息を吐いた。
「……よかった」
その言葉が、自然と口から出た。
エリオットも、安心したように胸を撫で下ろしている。
「本当に、よかったね」
リシアは頷いた。
「……まずは、無事だったことが何よりね」
俺も頷いた。
エミリアが姿を消してから、ずっと胸の奥に引っかかっていたものがあった。
事件がすべて解決したわけではない。
だが、彼女が生きて戻ってきた。
それだけでも、大きな前進だった。
「……ヴィオレッタには?」
俺が尋ねると、エリオットが答えた。
「まだ分からない。でも、学園から連絡があったなら、もう知っているかもしれないね」
そのとき、教室の扉が開いた。
ヴィオレッタが入ってきた。
隣にはセシリアの姿もある。
「ヴィオレッタ」
俺が声をかけると、彼女は足を止めた。
「シオン」
「エミリアのこと、聞いた?」
「……はい」
ヴィオレッタは頷いた。
「無事に保護されたと、先生から伺いました」
「よかったな」
「……ええ」
彼女は静かに微笑んだ。
「本当に、よかったです」
その表情には、安堵が浮かんでいた。
エミリアから根拠のない非難を受けたことは、簡単に忘れられるものではないはずだ。
それでも、彼女は心から無事を喜んでいるように見えた。
「……ヴィオレッタ」
「はい?」
「無理に、何かしなくてもいいからな」
彼女は少し驚いた顔をした。
俺は続けた。
「エミリアが見つかったからって、すぐに全部元どおりにしなきゃいけないわけじゃないだろ」
ヴィオレッタは、しばらく俺を見つめた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……ありがとうございます」
◇
王都の治療院。
午後になると、エミリアのもとへ一人の訪問者がやってきた。
第二王子、ルシアンだった。
部屋に入った彼は、ベッドのそばで足を止めた。
「……エミリア」
「……ルシアン殿下」
エミリアは驚いたように顔を上げた。
「どうして……」
「君が保護されたと聞いた」
ルシアンは、少しだけ視線を落とした。
「……無事でよかった」
エミリアは、何も言えなかった。
交流会の日。
自分は、ヴィオレッタを陥れようとした。
ルシアンに、事実ではないことを伝えた。
そして、その言葉を信じたルシアンは、大勢の前でヴィオレッタを責めた。
自分が原因だった。
「……殿下」
エミリアは、震える声で言った。
「……ごめんなさい」
ルシアンは顔を上げた。
「……エミリア?」
「私、嘘をつきました」
エミリアは俯いた。
「ヴィオレッタ様が、私にひどいことをしたって……」
声が震える。
「でも、ちゃんと見たわけじゃなかったんです」
ルシアンは黙って聞いていた。
「教科書だって、誰が隠したのか分からなかったのに……」
エミリアは、涙をこぼした。
「……ヴィオレッタ様がやったって、決めつけて……」
ルシアンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
エミリアは顔を上げた。
「……怒らないんですか?」
「怒る資格があるとは思えない」
ルシアンは答えた。
「君の話を確かめもせず、大勢の前でヴィオレッタを責めたのは私だ」
彼は、静かに続けた。
「責任は、私にもある」
エミリアは、唇を噛んだ。
「……私、ヴィオレッタ様に謝りたいです」
ルシアンは頷いた。
「……そうするべきだと思う」
そして、少し間を置いた。
「私も、まだ果たしていない責任がある」
「……責任?」
「交流会での発言を、正式に訂正することだ」
ルシアンは、はっきりと言った。
「私的に謝罪しただけでは、足りない」
エミリアは、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
◇
翌日。
王立総合学園の応接室。
ヴィオレッタは、教務担当者から呼び出しを受けていた。
理由は、エミリアとの面会だった。
彼女はまだ治療院で休養中だが、本人がどうしても直接謝罪したいと希望したため、医師の許可を得て短時間の面会が設けられた。
応接室には、学園の担当者とセシリアも同席している。
ヴィオレッタが部屋へ入ると、椅子に座っていたエミリアが立ち上がろうとした。
「……ヴィオレッタ様」
「そのままで結構です。お怪我をされているのでしょう?」
ヴィオレッタが声をかける。
エミリアは、動きを止めた。
「……ありがとうございます」
彼女は、深く頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした」
部屋が静まり返った。
エミリアは、顔を上げないまま続けた。
「私、ヴィオレッタ様が悪いことをしたって、嘘をつきました」
声が震えている。
「魔導理論の器具を壊したって言ったのも、ちゃんと見ていませんでした」
ヴィオレッタは、黙って聞いていた。
「教科書のことも、階段のことも……証拠なんてなかったのに……」
エミリアの目から涙が落ちた。
「……私が、勝手に決めつけたんです」
彼女は、顔を上げた。
「……本当に、ごめんなさい」
ヴィオレッタは、すぐには答えなかった。
しばらくして、静かに口を開いた。
「……謝罪は受け取りました」
エミリアの肩が、わずかに震えた。
「ですが、あなたの言葉によって、私がどのような立場に置かれたのかは、理解していただきたいと思います」
「……はい」
「多くの方の前で、私は事実ではないことを責められました」
ヴィオレッタの声は、穏やかだった。
だが、はっきりとしていた。
「それは、謝っていただいたからといって、すぐに消えるものではありません」
エミリアは、涙を拭った。
「……分かっています」
「それでも」
ヴィオレッタは、少しだけ表情を和らげた。
「あなたが無事に戻られたことは、心から嬉しく思っています」
エミリアは、目を見開いた。
「……ヴィオレッタ様……」
「今は、怪我を治すことを優先してください」
ヴィオレッタは続けた。
「その後で、ご自分がしたことと向き合っていただければと思います」
エミリアは、深く頷いた。
「……はい」
そして、もう一度頭を下げた。
「……本当に、申し訳ありませんでした」
◇
面会が終わった後。
ヴィオレッタは、応接室の外で待っていた俺のもとへやってきた。
「……終わった?」
「はい」
俺は、彼女の表情を見た。
「大丈夫?」
ヴィオレッタは、少しだけ考えた。
「……正直に申し上げれば、まだ気持ちの整理はついていません」
「そっか」
「ですが、謝罪を受け取ることはできました」
俺は頷いた。
「それでいいと思う」
ヴィオレッタは、静かに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
俺たちは、並んで廊下を歩き始めた。
窓の外では、午後の日差しが中庭を照らしている。
数日前まで、学園全体を騒がせていた事件。
その中心にいたエミリアが、ようやく戻ってきた。
まだ、すべてが解決したわけではない。
けれど、少しずつ前へ進んでいる。
そんな気がした。
◇
王都騎士団本部。
その日の夕方。
アイリスは、エミリアの証言をまとめた報告書をユリウスへ提出していた。
「……なるほど」
ユリウスは、資料を読み進めた。
「金属片は、特定の反応を示す人物を識別し、結果を記録する装置の一部……」
「はい。ただし、これは逃走した男の説明です。事実かどうかは、まだ確認できていません」
「そのとおりですね」
ユリウスは頷いた。
そして、別の書類を取り出した。
「……実は、気になることがあります」
「何でしょうか?」
「古い検査装置の管理記録です」
ユリウスは、書類の一部分を指した。
「以前、西門保管庫にあった装置の用途について、当時の記録には詳しい説明が残されていませんでした」
「……はい」
「ですが、管理区分には『識別系統』という記載があります」
アイリスは、目を見開いた。
「……識別系統?」
「ええ」
ユリウスは、慎重に続けた。
「今回の金属片と関係があるかは分かりません。ただ、調べる価値はありそうです」
アイリスは頷いた。
「……フィオナさんにも確認していただきます」
「お願いします」
ユリウスは、窓の外へ視線を向けた。
王都の夕暮れ。
街には、いつもどおりの人々の暮らしがあった。
だが、その裏側では、古い記録と現在の事件が少しずつ結びつき始めている。
ユリウスは、静かに呟いた。
「……いったい、何を識別していたのでしょうね」
その問いに、答える者はいなかった。
ただ、机の上には一枚の古い管理記録が置かれていた。
その隅に、小さな文字で記された分類名。
――識別系統・第七種。
それが何を意味するのか。
まだ、誰も知らなかった。




