逃走の夜
馬車の車輪が、石畳を踏みしめていた。
窓には厚い布が掛けられ、外の景色はほとんど見えない。
エミリアは座席の端に腰掛け、膝の上で両手を握り締めていた。
向かいには、学園で教師として振る舞っていた男が座っている。
男は書類を広げ、何かを確認していた。
「……どこへ行くんですか?」
エミリアが尋ねた。
「もう少しで着きます」
「それ、さっきも言いました」
「そうでしたか」
男は顔を上げずに答えた。
エミリアは唇を噛んだ。
最初に連れてこられた石造りの建物でも、この男は何も教えてくれなかった。
何のために閉じ込められているのか。
いつ帰れるのか。
あの奇妙な文字や金属片は何なのか。
何度尋ねても、まともな答えは返ってこなかった。
「……私、帰りたいんです」
男が顔を上げた。
「その件については、説明したはずですが」
「説明なんてされてません!」
思わず声が大きくなった。
「確認が必要だって、そればっかり……。何を確認するのかも教えてくれないじゃないですか!」
男は書類を閉じた。
「あなたに危害を加えるつもりはありません」
「だったら、どうして帰してくれないんですか?」
男は答えなかった。
エミリアは視線を落とした。
袖の内側には、小さな金属片を隠している。
石造りの建物を出る直前、男の目を盗んで持ち出したものだった。
細い線と点が刻まれた、薄い金属片。
昨日、その刻印が確かに光った。
何の役に立つのか分からない。
けれど、男が執拗に反応を確かめていたものだ。
何か手掛かりになるかもしれない。
そう思って持ち出した。
馬車が大きく揺れた。
「きゃっ!」
エミリアは座席の縁をつかんだ。
外から御者の声が響く。
「申し訳ありません! 道が荒れておりまして!」
「速度を落としてください」
男が答えた。
車輪の音が緩やかになる。
エミリアは、窓を覆う布の隙間から外を覗いた。
暗い道。
木々の影。
遠くに、ぽつぽつと灯りが見える。
王都の中心部ではない。
少なくとも、人通りの多い場所からは離れているようだった。
エミリアは、そっと扉へ目を向けた。
内側に取っ手がある。
鍵は見当たらない。
――開くかもしれない。
心臓が速く打ち始めた。
◇
王都騎士団本部。
アイリス・フェルディアは、学園から届けられた書類を机に広げていた。
エミリア失踪事件。
交流会当日の目撃証言。
裏門付近に停車していた可能性がある馬車。
そして、その車両を手配した人物の名前。
「……なるほど」
アイリスは記録を読み進めた。
馬車の手配名義人は、王立総合学園に出入りしていた魔導理論の補助講師だった。
交流会当日にも学園へ来ていたことが、勤務記録から確認されている。
ただし、現在は連絡が取れていない。
無断欠勤が続いているという。
「……失踪した生徒と、連絡の取れない講師」
アイリスは小さく呟いた。
状況は気になる。
だが、二人が一緒にいたと断定できる証言はまだない。
裏門付近で目撃された人物も、顔までは確認されていなかった。
そのとき、扉が叩かれた。
「アイリス」
ユリウス・フォン・エーデルが入ってきた。
雪のように白い長髪が、肩の後ろで揺れる。
「副団長」
「学園からの資料は確認しましたか?」
「はい」
アイリスは立ち上がった。
「まず、運送業者へ確認しようと考えています。車両の手配経緯と、当日の御者についてです」
「妥当な判断です」
ユリウスは頷いた。
「名義人の所在については、別の担当者にも確認させています」
「ありがとうございます」
「それと、学園には引き続き協力を依頼してください。勤務記録や連絡先の確認が必要になるでしょう」
「承知しました」
ユリウスは、机の上の資料へ視線を落とした。
「……エミリアさんが無事であればよいのですが」
「はい」
アイリスは静かに答えた。
行方不明になってから、すでに数日が経過している。
単なる無断外泊として片づけられる状況ではなかった。
「可能な限り、早く所在を確認します」
ユリウスは頷いた。
「お願いします」
◇
翌朝。
王立総合学園。
「昨日の騎士団見学、どうだった?」
俺――シオン・クレイヴェルが尋ねると、カイルは勢いよく振り返った。
「すごかった!」
「……それは昨日も聞いた」
「いや、何回でも言いたくなるくらいすごかったんだって!」
カイルは身振りを交えて話し始めた。
「ガルド団長とユリウス副団長が模擬戦をしたんだけどさ、動きが全然見えなくて!」
ディーンが苦笑した。
「見えなかったわけじゃないだろう」
「ほとんど見えなかっただろ!」
「……まあ、速かったのは確かだ」
ディーンは頷いた。
その表情には、昨日の興奮がまだ残っているようだった。
「特に、戦気の扱いが違った」
「グレイグ先生の訓練と比べて?」
俺が尋ねると、ディーンは少し考えた。
「基本は同じだと思う。ただ、実際の戦闘で使うときの精度が違う」
「精度?」
「必要な瞬間に、必要な分だけ力を使っているように見えた」
ディーンは、自分の手を見つめた。
「俺たちは、戦気を維持するだけでも意識を使う。でも、あの二人は剣の動きと完全に一体化していた」
「……なるほど」
カイルが腕を組んだ。
「俺も、もっと鍛えないとな!」
「まずは、突っ込みすぎる癖を直した方がいい」
「ディーン、お前までそれ言うのかよ!」
俺は思わず笑った。
騎士団の見学は、二人にとって良い経験になったようだ。
特にディーンは、以前よりも目標がはっきりしたように見える。
「そういえば」
俺は声を落とした。
「エミリアの件、騎士団が調べ始めたらしいな」
「ああ」
ディーンが頷いた。
「昨日、学園から正式に協力を依頼したそうだ」
「……何か分かったのかな」
「詳しいことは聞いていない」
カイルも表情を引き締めた。
「俺たちが見た二人連れのことも、もう一度確認された」
俺は頷いた。
学園側の調査が、騎士団へ引き継がれ始めている。
これで少しでも進展すればいい。
そう考えていると、エリオットが教室へ入ってきた。
「おはよう。みんな、朝から集まってどうしたの?」
「騎士団見学の話だよ」
俺が答えると、エリオットは納得したように頷いた。
「ああ、昨日だったね」
続いて、リシアもやってきた。
「おはよう」
「おはよう、リシア」
リシアはカイルとディーンを見た。
「二人とも、今日はずいぶん元気ね」
「昨日、騎士団長の戦いを見たからな!」
カイルが胸を張った。
「……それと、今日はグレイグ先生の授業がある」
ディーンが言った。
「昨日教わったことを、少しでも試してみたい」
リシアは小さく笑った。
「怪我をしない程度にね」
「分かってるって!」
カイルが答えた。
その直後、始業を知らせる鐘が鳴った。
俺たちは、それぞれの席へ向かった。
◇
王都の運送業者の営業所。
アイリスは、責任者から差し出された配車台帳を確認していた。
「交流会当日、学園の裏門付近へ向かった車両はこちらですね」
「はい」
責任者が頷いた。
「送迎の依頼として受けています」
「依頼者は、この方で間違いありませんか?」
アイリスが補助講師の名前を示すと、責任者は記録を確認した。
「台帳上は、そのお名前になっています」
「本人が直接申し込んだのでしょうか?」
「そこまでは分かりません。依頼は書面で届きましたので」
アイリスは頷いた。
「では、当日の御者について教えてください」
責任者の表情が曇った。
「……実は、そのことで困っておりまして」
「何かありましたか?」
「車両が、まだ戻っていないんです」
アイリスは顔を上げた。
「……戻っていない?」
「はい。予定では交流会当日の夜に返却されるはずでした」
「御者とは連絡が取れていますか?」
「いいえ」
責任者は首を振った。
「外部契約の御者だったのですが、連絡がつかなくなっています」
アイリスは記録用紙を取り出した。
「御者の氏名と住所、車両の特徴を教えてください」
「分かりました」
「最後に連絡が取れた日時もお願いします」
責任者は、別の帳簿を取り出した。
アイリスは、必要な情報を一つずつ記録していく。
馬車が戻っていない。
御者とも連絡が取れない。
これまでより、明らかに不審な状況だった。
ただし、その馬車がエミリアを乗せたものかどうかは、まだ確認できていない。
「……ありがとうございます」
アイリスは立ち上がった。
「こちらでも所在を調べます」
責任者は、深く頭を下げた。
「どうか、よろしくお願いします」
◇
王立魔導技術院。
フィオナ・リュミエールは、机の上に並べた測定結果を見つめていた。
魔力の量。
流す間隔。
そして、回路の分岐割合。
それぞれの条件を変えると、金属板の反応も変化する。
ただし、変化には一定の傾向があった。
「……やっぱり、何かの条件を判別しているようにも見えますね」
フィオナは小さく呟いた。
もっとも、それが本当に識別のための仕組みなのかは分からない。
魔力の流れを安定させるための制御回路という可能性もある。
現段階で用途を決めつけるべきではなかった。
そのとき、扉が叩かれた。
「フィオナさん」
アイリスの声だった。
「はい、どうぞ」
扉が開き、アイリスが入ってきた。
「お疲れさまです」
「アイリスさん。お疲れさまです」
フィオナは顔を上げた。
「今日は、どうされたんですか?」
「騎士団から追加の資料を預かってきました」
アイリスは書類を差し出した。
「ありがとうございます」
フィオナは受け取り、内容を確認した。
古い検査装置に関する管理記録。
移管先の部署名。
そして、当時の担当者の情報。
「……これなら、前の記録と照合できそうです」
「よかったです」
アイリスは微笑んだ。
フィオナは書類を机へ置いた。
そして、ふとアイリスの顔を見た。
「……アイリスさん」
「はい?」
「少し、お疲れではありませんか?」
アイリスは目を瞬かせた。
「……分かります?」
「はい。いつもより、少しだけ」
フィオナは心配そうに眉を下げた。
「お仕事、お忙しいんですか?」
「行方不明になっている学園の生徒の件で、調査が始まったんです」
「……そうだったんですね」
フィオナは頷いた。
「それは、心配ですね」
「はい。早く見つかればいいのですが」
アイリスは、小さく息を吐いた。
フィオナは少し考えた。
そして、立ち上がった。
「……お茶でもいかがですか?」
「え?」
「少し休憩しましょう」
フィオナは柔らかく微笑んだ。
「この前は、アイリスさんが食事に誘ってくださいましたから」
アイリスは、少しだけ驚いた。
そして、笑った。
「……ありがとうございます」
フィオナは棚から茶葉を取り出した。
「実は、最近お気に入りのお茶があるんです」
「そうなんですか?」
「はい。香りがとても良くて」
アイリスは、フィオナの楽しそうな様子を見つめた。
研究の話をしているときとは、少し違う表情だった。
穏やかで、柔らかい。
そんな顔を見るのは、初めてかもしれない。
「……楽しみです」
アイリスが答えると、フィオナは嬉しそうに微笑んだ。
◇
その夜。
王都の外れを走る馬車。
エミリアは、男が書類へ目を落とした瞬間を見計らった。
扉の取っ手へ手を伸ばす。
ゆっくりと回す。
小さな音がした。
扉がわずかに開く。
冷たい風が頬に触れた。
――開いた。
エミリアは息を呑んだ。
馬車はまだ動いている。
飛び降りれば怪我をするかもしれない。
それでも、ここに残るわけにはいかなかった。
「……何をしているのですか?」
男の声がした。
エミリアは振り返った。
男がこちらを見ている。
「……っ!」
彼女は扉を押し開けた。
「待ちなさい!」
男が立ち上がる。
エミリアは、馬車から飛び降りた。
地面に肩から落ちる。
「痛っ……!」
衝撃で息が詰まった。
体が転がり、腕や膝を擦りむく。
それでも、彼女は必死に立ち上がった。
「止めろ!」
背後で男が叫ぶ。
馬車が急停止した。
エミリアは振り返らず、道脇の林へ駆け込んだ。
枝が頬を打つ。
靴が泥に沈む。
暗くて、足元がほとんど見えない。
「はっ……はっ……!」
呼吸が乱れる。
胸が苦しい。
それでも走った。
――捕まったら、もう逃げられない。
その思いだけが、足を動かしていた。
背後から声が聞こえる。
「こちらです!」
「足跡を探せ!」
追ってきている。
エミリアは、必死に木々の間を抜けた。
やがて、林が途切れた。
目の前に、小さな川が流れていた。
川幅は、それほど広くない。
だが、水は暗く、深さが分からない。
「……どうしよう」
エミリアは周囲を見回した。
少し先に、古い木橋があった。
板の一部が欠け、手すりも壊れている。
安全には見えなかった。
だが、ほかに道はない。
彼女は橋へ向かって走り出した。
足元の板が軋む。
一歩。
二歩。
そのとき。
袖の内側で、何かが熱を帯びた。
「……え?」
エミリアは足を止めた。
隠していた金属片だった。
取り出すと、刻まれた細い線の一部が淡く光っていた。
「……どうして……?」
光は、すぐに消えた。
エミリアは息を呑んだ。
その直後。
足元の板が、大きく軋んだ。
「……っ!」
古い板が割れた。
片足が隙間に落ちる。
エミリアは、咄嗟に橋の縁をつかんだ。
だが、体勢を立て直せない。
「きゃあっ!」
体が傾く。
その瞬間。
遠くで、低い音が響いた。
鐘のような音。
けれど、教会の鐘とは違う。
もっと鈍く、地面の奥から伝わってくるような響きだった。
エミリアは、必死に橋の上へ這い上がった。
金属片の光は、すでに消えていた。
背後から、足音が近づいてくる。
「……エミリアさん」
あの男の声だった。
彼女は振り返った。
男は橋の手前に立っていた。
だが、その視線はエミリアではなく、川の向こうへ向けられていた。
「……まさか」
男が、小さく呟いた。
その声には、これまでになかった緊張が滲んでいた。
エミリアは、ゆっくりと顔を上げた。
川の向こう。
木々の間に、古い石柱が立っていた。
表面には、何かの模様が刻まれている。
そして。
その模様の一部が、かすかに光っていた。
「……何、あれ……?」
エミリアは、震える声で呟いた。
男は答えなかった。
ただ、石柱を見つめていた。
その隙に、エミリアは立ち上がった。
痛む足を引きずりながら、橋の向こうへ走り出す。
今は、逃げることだけを考えなければならない。
彼女の背後で、男が何かを叫んだ。
だが、その声は夜の風にかき消された。
そして、川の向こうの暗闇で。
古い石柱の光が、もう一度だけ明滅した。




