残された記憶
王立総合学園の朝は、いつもどおりの喧騒に包まれていた。
授業へ急ぐ生徒。
中庭で談笑する友人同士。
食堂から漂ってくる、焼きたてのパンの匂い。
だが、俺――シオン・クレイヴェルには、その光景がどこか落ち着かないものに見えた。
エミリアが姿を消してから、二日が経っていた。
学園側は引き続き所在を確認しているものの、まだ本人とは連絡が取れていないらしい。
昨日、カイルが教務棟へ伝えた目撃情報についても、進展があったという話は聞いていなかった。
「……シオン」
隣を歩いていたリシアが声をかけた。
「また考え事?」
「……顔に出てたか?」
「少しね」
彼女は、小さく笑った。
「気になるのは分かるけど、歩きながら考え込むと危ないわよ」
「……気をつける」
そのとき、前方からエリオットが走ってきた。
「シオン! リシア!」
「どうした?」
エリオットは、息を整えながら言った。
「アーネスト先生が、僕たちを呼んでる!」
「……先生が?」
「うん。魔導理論のことで、確認したいことがあるんだって」
俺は、リシアと顔を見合わせた。
「……分かった。行こう」
◇
魔導実習棟の研究室には、アーネスト・フェルグ先生が待っていた。
机の上には、数枚の授業記録が並べられている。
「来ましたね」
先生は、俺たちを見ると頷いた。
「今日は、先日の教材の件で確認したいことがあります」
俺は、少しだけ身構えた。
エミリアが訴えていた、魔導理論の授業での教材破損。
学園側の調査では、ヴィオレッタが関与した事実は確認されなかった。
だが、エミリア自身が何を見たのかについては、まだ十分に聞き取れていない。
「まず、クレイヴェル君」
「はい」
「当日の実習で、エミリアさんと同じ班だったのですね?」
「はい」
「実習中、教材が破損した場面を見ましたか?」
「……いいえ」
俺は、首を振った。
「少なくとも、俺が見ていた範囲ではありません」
先生は頷いた。
「それで構いません」
次に、エリオットへ視線を向ける。
「エリオット君。あなたが班の代表として、教材の返却確認をしていますね」
「はい」
エリオットは、少し緊張した様子で答えた。
「返却するときに、番号と数量を確認しました。外から見て分かる破損もありませんでした」
「内部の回路については?」
「……そこまでは確認していません」
先生は、静かに頷いた。
「正確な回答です」
俺は、机の上の記録を見た。
そこには、実習教材の番号と返却時刻が記されている。
「……先生」
「何でしょう?」
「教材は、もう一度調べたんですか?」
「はい」
先生は、一枚の用紙を取り出した。
「返却された教材について、外観と基本的な動作を確認しました」
「……結果は?」
「現時点で、破損は確認されていません」
エリオットが、ほっとしたように息を吐いた。
だが、先生は続けた。
「ただし、エミリアさんが何を破損と認識したのかは、本人に確認できていません」
リシアが、静かに口を開いた。
「……教材が壊れたと思い込んだ可能性もある、ということですか?」
「その可能性はあります」
先生は答えた。
「ですが、今はまだ結論を出す段階ではありません」
俺は頷いた。
ヴィオレッタが関与した証拠がないこと。
教材に破損が確認されていないこと。
そして、エミリアが何を見ていたのか分からないこと。
それらは、別々に考える必要がある。
「……先生」
俺は、少し迷ってから尋ねた。
「エミリアのことは、何か分かりましたか?」
アーネスト先生は、表情を曇らせた。
「……まだ、所在は確認できていません」
「……そうですか」
「ただ、学園側では、昨日の目撃情報について確認を進めています」
俺は、顔を上げた。
「……カイルの話ですか?」
「そうです」
先生は頷いた。
「裏門付近で、教員らしい人物と一緒にいたという証言ですね」
エリオットが、少し身を乗り出した。
「……誰だったか、分かったんですか?」
「現時点では、特定できていません」
先生は、慎重に答えた。
「ただ、教員の出入り記録と照合しています」
リシアが、少しだけ眉をひそめた。
「……教員ではない可能性もありますよね」
「ええ」
先生は頷いた。
「ですから、先入観を持たずに確認しています」
俺は、静かに息を吐いた。
まだ、何も分からない。
だが、少なくとも学園側は動いている。
「……ありがとうございます」
俺が言うと、先生は小さく頷いた。
「君たちは、普段どおり授業に集中してください」
「……はい」
俺たちは、研究室を後にした。
◇
同じ頃。
王立総合学園の武術訓練場。
「……遅い!」
グレイグ先生の声が響いた。
カイルが、勢いよく踏み込む。
だが、先生は軽く身体をずらした。
カイルの木剣が空を切る。
「うわっ!」
次の瞬間、足を払われた。
カイルは、砂地へ転がった。
「……いてて」
「だから言っただろう」
グレイグ先生は、木剣を肩に担いだ。
「勢いだけでは通用しない」
「……はい」
カイルは、起き上がった。
その隣では、ディーンが静かに構えている。
「次、ディーン」
「はい!」
ディーンが、一歩踏み込んだ。
剣を振る。
グレイグ先生が受け流す。
ディーンは、すぐに追撃しなかった。
相手の動きを見る。
次の瞬間。
先生の木剣が、横から迫った。
ディーンは、身体を引いてかわす。
そして、反撃。
だが。
「……そこだ」
グレイグ先生の木剣が、ディーンの肩へ軽く触れた。
「……っ!」
ディーンは、動きを止めた。
「判断は悪くない」
グレイグ先生は言った。
「だが、相手の動きを待ちすぎた」
「……はい」
「カイルは動きすぎる。ディーンは待ちすぎる」
先生は、二人を見渡した。
「お前たち、足して二で割ればちょうどいいな」
カイルが、思わず笑った。
「……先生、それって褒めてます?」
「褒めていない」
「……ですよね!」
ディーンも、苦笑した。
グレイグ先生は、少しだけ表情を和らげた。
「だが、以前よりは良くなっている」
二人の顔が上がる。
「来週の騎士団見学まで、まだ時間はある」
先生は続けた。
「それまでに、自分の弱点を一つでも減らせ」
「はい!」
二人の返事が重なった。
◇
午前の訓練が終わった後。
カイルとディーンは、訓練場の隅で休んでいた。
「……なあ、ディーン」
カイルが、水を飲みながら言った。
「何だ?」
「騎士団って、どんな訓練してるんだろうな」
「……学園より厳しいだろうな」
「だよな!」
カイルは、楽しそうに笑った。
「本物の騎士と手合わせできたりするかな」
「見学が中心だろ」
「でも、実技もあるかもしれないって言ってたじゃん」
「……そうだな」
ディーンは、少しだけ表情を引き締めた。
「もし機会があるなら、俺は全力で挑みたい」
「……おっ」
カイルが、にやりと笑った。
「珍しく熱いな」
「……うるさい」
ディーンは、少しだけ顔を逸らした。
カイルは笑った。
「俺も負けねえぞ!」
そのとき。
「……カイル君、ディーン君」
訓練場の入口から、教務担当者が声をかけた。
二人は、顔を上げた。
「……はい?」
「昨日の目撃情報について、もう一度確認したいことがあります」
カイルの表情が変わった。
「……エミリアの件ですか?」
「はい」
担当者は頷いた。
「少し、お時間をいただけますか?」
二人は、顔を見合わせた。
ディーンが、静かに答えた。
「……分かりました」
◇
午後。
王都騎士団の本部。
ユリウス・フォン・エーデルは、机の上に並べられた書類を見つめていた。
西門保管庫から移された古い検査装置。
王室管理物品としての登録。
王立魔導技術院への貸与。
そして、帳簿上の除却。
それぞれの記録は存在している。
だが、実物の移動を確認できる資料が不足していた。
「……ここまでは、分かっている」
ユリウスは、小さく呟いた。
そして、別の帳簿を開いた。
そこには、当時の物品管理担当者の名前が記されていた。
ただし、それは帳簿の記入担当者であって、装置の移動を指示した人物とは限らない。
「……指示した者と、記録した者は別かもしれない」
ユリウスは、慎重に書き留めた。
そのとき、扉が叩かれた。
「失礼します」
アイリスが入ってきた。
「副団長。技術院から、追加の連絡が届いています」
「……フィオナさんからですか?」
「はい」
アイリスは、書類を差し出した。
ユリウスは、内容を確認した。
金属板の回路について、追加の分析が行われたらしい。
「……魔力の分岐経路に、一定の規則性がある?」
「はい」
アイリスが答えた。
「フィオナさんによると、単純に魔力を逃がすだけの構造ではない可能性があるそうです」
ユリウスは、少しだけ眉をひそめた。
「……どういう意味でしょう?」
「流れる魔力の量によって、分岐先が変わるような構造になっているとのことです」
ユリウスは、書類へ目を落とした。
「……なるほど」
ただし、それが何のために設計されたものなのかは、まだ分からない。
検査装置の一部だったという確証もない。
「……用途は、引き続き不明ですね」
「はい」
アイリスは頷いた。
「フィオナさんも、実際の装置と組み合わせて確認できない限り、断定は難しいとおっしゃっていました」
ユリウスは、静かに頷いた。
「……分かりました」
そして、書類を机へ置いた。
「こちらも、装置の行方を追う必要がありますね」
「……はい」
アイリスは、少しだけ考えてから尋ねた。
「副団長。王宮への照会は、進んでいるのでしょうか?」
「正式な手続きを進めています」
ユリウスは答えた。
「ただ、王室管理物品に関する記録です。すぐに閲覧できるとは限りません」
「……そうですか」
「焦っても仕方ありません」
ユリウスは、静かに言った。
「今は、確認できる範囲を確実に調べましょう」
◇
その頃。
王立魔導技術院。
フィオナは、再び金属板を調べていた。
机の上には、小型の魔力測定器が置かれている。
金属板へ流す魔力を、少しずつ変化させる。
すると、回路の一部が淡く光った。
「……やっぱり」
フィオナは、記録用紙へ数値を書き込んだ。
魔力が一定以下のとき。
分岐経路には、ほとんど流れが生じない。
だが、魔力が増えると、別の経路へ流れ始める。
さらに量を増やすと、その割合が変化する。
「……単純な排出回路じゃない」
彼女は、小さく呟いた。
ただし、それが意図的な制御なのか。
それとも、古い回路の特性によるものなのか。
まだ判断できない。
フィオナは、慎重に魔力の供給を止めた。
「……これ以上は、装置全体を確認しないと危ないですね」
彼女は、金属板を保護容器へ戻した。
そして、机の上にある別の記録へ目を向けた。
古い検査装置の管理記録。
技術院への貸与。
帳簿上の除却。
だが、受入記録はまだ見つかっていない。
「……どこに行ったんでしょう」
フィオナは、静かに呟いた。
その答えは、まだ見つからなかった。
◇
夕方。
王立総合学園の教務棟。
カイルとディーンは、教務担当者と向かい合っていた。
「……確認したいのは、昨日お話しいただいた人物についてです」
担当者が言った。
カイルは頷いた。
「はい」
「教員らしい服装だったとのことですが、具体的にはどのようなものでしたか?」
カイルは、少しだけ考えた。
「……学園の先生がよく着ている、暗い色の上着でした」
「色は?」
「……黒に近かったと思います」
「袖や襟に、特徴はありましたか?」
「……そこまでは」
カイルは、首を振った。
「すみません。背中しか見てなくて」
「構いません」
担当者は、静かに頷いた。
「分からないことは、分からないと答えてください」
ディーンが、少しだけ口を開いた。
「……その服装なら、教員以外でも着られるのでは?」
「その可能性もあります」
担当者は答えた。
「だからこそ、確認しています」
カイルは、少しだけ眉をひそめた。
「……じゃあ、先生じゃなかったかもしれないんですね」
「そうです」
担当者は、静かに頷いた。
「現時点では、人物を特定できていません」
カイルは、少しだけ肩を落とした。
「……そうですか」
担当者は、記録用紙へ視線を落とした。
「最後に、もう一つ」
「はい」
「その人物は、エミリアさんに何か話しかけていましたか?」
カイルは、少しだけ考えた。
「……話していたと思います」
「内容は?」
「聞こえませんでした」
「エミリアさんの様子は?」
「……普通に歩いていました」
カイルは、少しだけ迷った。
「ただ……」
「何でしょう?」
「……先生の方が、少し急いでるように見えました」
担当者は、静かに頷いた。
「……分かりました」
そして、記録用紙を閉じた。
「ご協力、ありがとうございました」
カイルとディーンは、礼をして部屋を出た。
◇
教務棟を出ると、夕陽が校舎を赤く染めていた。
「……結局、あんまり役に立てなかったな」
カイルが呟いた。
ディーンは、首を振った。
「そんなことはない」
「……そうか?」
「ああ」
ディーンは、静かに答えた。
「曖昧な記憶を、確かなことのように話さなかった。それだけでも意味はある」
カイルは、少しだけ笑った。
「……お前、ほんと真面目だな」
「今さらだろ」
「……まあな!」
二人は、並んで歩き始めた。
そのとき。
中央校舎の方から、シオンが歩いてきた。
「……あれ、二人とも」
「おう!」
カイルが手を上げた。
「また教務棟に呼ばれてたんだ」
「……エミリアの件か?」
「ああ」
ディーンが頷いた。
「目撃した人物の服装について、詳しく聞かれた」
「……何か分かった?」
「いや」
カイルが、首を振った。
「先生だったかどうかも、まだ分からないみたいだ」
シオンは、静かに頷いた。
「……そうか」
しばらく、三人は黙っていた。
やがて、カイルが口を開いた。
「……なあ、シオン」
「何?」
「もし、エミリアが見つかったらさ」
カイルは、少しだけ言葉を探した。
「……ちゃんと話を聞いてやりたいよな」
シオンは、少し驚いたようにカイルを見た。
「……ああ」
そして、頷いた。
「そうだな」
ディーンも、静かに頷いた。
「何をしたのかは、きちんと確認する必要がある。でも、それと無事かどうかは別の話だ」
「……うん」
シオンは、少しだけ表情を和らげた。
「二人とも、ありがとう」
カイルが笑った。
「何だよ、また礼か?」
「……何となく」
「変な奴!」
三人は、小さく笑った。
◇
夜。
王都の外れにある古い石造りの建物。
エミリアは、部屋の隅に座っていた。
扉には、相変わらず鍵がかかっている。
何度も帰りたいと伝えた。
だが、教師は曖昧な返事を繰り返すだけだった。
「……どうして」
エミリアは、膝を抱えた。
学園へ戻りたい。
ヴィオレッタに謝りたい。
ルシアン殿下にも、きちんと話をしたい。
だが、ここから出ることができない。
そのとき。
廊下から、足音が聞こえた。
エミリアは、顔を上げた。
足音は、扉の前で止まった。
鍵が回る音。
扉が開く。
そこには、あの教師が立っていた。
「……エミリアさん」
穏やかな声だった。
「少し、お話ししましょう」
エミリアは、ゆっくりと立ち上がった。
「……帰してくれるんですか?」
教師は、すぐには答えなかった。
そして、静かに言った。
「……その前に、確認したいことがあります」
「……何ですか?」
教師は、机の上に置かれた紙へ視線を向けた。
以前、エミリアに渡した、見慣れない文字と記号が並ぶ紙だった。
「……この文字についてです」
エミリアは、眉をひそめた。
「……読めません」
「本当に?」
教師が、静かに尋ねた。
「……はい」
エミリアは、首を振った。
「見たこともありません」
教師は、しばらく彼女を見つめていた。
そして、微笑んだ。
「……そうですか」
その表情からは、何を考えているのか分からなかった。
「では、今日はここまでにしましょう」
「……待ってください!」
エミリアが、思わず声を上げた。
「私は、いつ帰れるんですか!?」
教師は、扉の前で立ち止まった。
そして、振り返らずに答えた。
「……もう少し、時間が必要です」
扉が閉まる。
鍵の音が響いた。
エミリアは、その場に立ち尽くした。
机の上の紙を見つめる。
見慣れない文字。
意味の分からない記号。
なぜ、こんなものを読ませようとするのか。
何を確かめようとしているのか。
彼女には、何も分からなかった。
ただ一つ。
ここに来たことは、間違いだった。
そのことだけは、はっきりと理解していた。
エミリアは、震える手で紙を握り締めた。
「……誰か……」
小さな声が、部屋に落ちた。
「……助けて……」
その声は、厚い石壁の向こうへ届くことなく、夜の静けさに消えていった。




