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群星のヴェルシェリア  作者: セイ
第二部 交錯する星々

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謝罪と消えた少女

 翌朝。


 王立総合学園の正門をくぐった俺――シオン・クレイヴェルは、いつもと違う空気に気づいた。


 普段なら、授業に遅れそうな生徒が走り抜けたり、友人同士で昨日の出来事を話したりしている時間だ。


 だが、今日は違った。


 誰もが声を潜め、中央校舎の方へ視線を向けている。


 その理由は、すぐに分かった。


 掲示板の前に、大勢の生徒が集まっていたのだ。


「……何かあったのか?」


 俺が近づこうとしたとき。


「おーい、シオン!」


 背後から、聞き慣れた声が響いた。


 振り返ると、カイルがこちらへ走ってきていた。


 濃紺の髪を揺らしながら、いつものように片手を上げている。


 その後ろには、ディーンの姿もあった。


「……カイル、ディーン」


「昨日は大変だったらしいな!」


 カイルは、開口一番そう言った。


「……もう知ってるのか?」


「知ってるも何も、学園中その話だぞ」


 ディーンが、呆れたように答えた。


「俺たちは昨日、武術実演の補助で講堂の外にいたからな。騒ぎがあったことは後から聞いた」


「ああ、そうだったな」


 学園交流会では、グレイグ先生の指導のもと、武術科の学生たちが模擬戦を披露していた。


 カイルとディーンも、その準備と実演に参加していたはずだ。


「それで?」


 カイルが、身を乗り出した。


「第二王子殿下に意見したって、本当か?」


「……まあ」


「すげえじゃん!」


「すごいで済ませる話じゃないだろ」


 ディーンが、すぐに口を挟んだ。


「相手は王族だぞ。発言の内容によっては、本人だけじゃなく家にも影響が出る」


「……それは、分かってる」


 俺は、少しだけ肩を落とした。


「昨日の夜から、何度も考えてた」


 ディーンは、俺の顔を見た。


「……それでも、言う必要があったんだな?」


「ああ」


 俺は頷いた。


「ヴィオレッタが、していないことをしたと決めつけられそうだったから」


 ディーンは、しばらく黙った。


 そして、小さく息を吐いた。


「……なら、仕方ないな」


「え?」


「騎士だって、間違った命令に黙って従えばいいわけじゃない」


 ディーンは、真面目な表情で続けた。


「ただし、正しいことを言うなら、その責任も引き受けなきゃならない。そこは忘れるなよ」


「……分かった」


 俺が頷くと、カイルが笑った。


「ま、俺だったら先に怒鳴ってたかもしれないけどな!」


「だからお前は危なっかしいんだ」


 ディーンが即座に言った。


「何だよ。助けるのが先だろ?」


「助け方の問題だ」


「細けえなあ」


 二人のやり取りに、俺は思わず笑った。


 昨日からずっと張り詰めていた気持ちが、少しだけ軽くなる。


「……ありがとう、二人とも」


「何だよ、急に」


 カイルが首を傾げた。


「いや、何でもない」


 俺は、掲示板へ視線を戻した。


「とりあえず、あれを見に行こう」


     ◇


 掲示板には、一枚の告知が貼られていた。


『学園交流会における学生間の告発について』


 そう題された文書には、昨日の騒動に関する学園側の見解が記されていた。


 魔導理論の授業における教材破損について、管理記録と授業出席記録を確認した結果、ヴィオレッタの関与を示す事実は認められなかったこと。


 教科書の紛失と階段での出来事については、引き続き調査中であること。


 そして、未確認の噂を広めないよう求める一文。


「……なるほどな」


 ディーンが、腕を組んだ。


「学園側も、かなり早く動いたみたいだ」


「昨日のうちに先生たちが確認してくれたんだと思う」


 俺が答えると、カイルが掲示板を覗き込んだ。


「でも、これじゃまだヴィオレッタが疑われるんじゃないか?」


「……そうだな」


 俺は、少しだけ眉をひそめた。


 教材の件については、かなりはっきりした。


 だが、残りの二件については、まだ調査中だ。


 それを理由に、疑い続ける人間が出てくるかもしれない。


「……シオン」


 背後から、リシアの声がした。


 振り返ると、エリオットと一緒に歩いてきていた。


「おはよう」


「おはよう、リシア」


 エリオットが、カイルたちを見て目を丸くした。


「あれ、二人とも早いね」


「武術科は朝から訓練があるんだよ」


 カイルが答えた。


「グレイグ先生、交流会が終わったからって容赦ないんだ」


「むしろ、交流会で浮かれていた分を取り戻せと言われた」


 ディーンが、少し疲れたように付け加えた。


 リシアは掲示板を確認すると、静かに頷いた。


「……ひとまず、正式な告知が出たのね」


「ああ」


 俺は答えた。


「でも、まだ全部は終わってない」


「そうね」


 リシアは、少しだけ表情を曇らせた。


「噂を広めるのは簡単だけど、訂正するのは難しいもの」


 俺は、もう一度掲示板を見た。


 ヴィオレッタは、これをどう受け止めているだろう。


 昨日、彼女は最後まで堂々としていた。


 だが、それが平気だったという意味ではないことを、俺は知っている。


     ◇


 同じ頃。


 王立総合学園の教務棟。


 第二王子ルシアンは、教務責任者と向かい合っていた。


 机の上には、昨日の調査資料が並べられている。


「……こちらが、追加で確認できた内容です」


 教務責任者が、一枚の書類を差し出した。


 ルシアンは、それを受け取った。


 そこには、教材破損の件に続き、教科書の紛失と階段での出来事についての調査結果が記されていた。


「教科書は、図書室で見つかったのか?」


「はい」


 教務責任者が頷いた。


「エミリアさんが使用していた教科書と確認されています。返却台の下に落ちていたものを、図書室の職員が保管していました」


「……誰かが隠した可能性は?」


「否定はできません。ただ、ローゼンベルクさんが関わったと示す証拠はありません」


 ルシアンは、黙って次の項目へ目を移した。


 階段で突き飛ばされそうになったという訴え。


 その件については、近くにいた複数の生徒から話を聞いていた。


 エミリアが階段で足を踏み外しかけたこと自体は、確認されている。


 だが、誰かに押されたと証言する者はいなかった。


 さらに、ヴィオレッタはその時間、別の校舎で講義を受けていた。


「……つまり」


 ルシアンが、静かに言った。


「三件とも、ヴィオレッタが関わったという根拠はないのだな」


「現時点では、そのとおりです」


 教務責任者は答えた。


「ただし、エミリアさんが故意に虚偽の申告をしたかどうかは、別の問題です」


「……分かっている」


 ルシアンは、書類を机へ置いた。


 しばらく、沈黙が続いた。


「……私は」


 彼が、ぽつりと呟いた。


「何をしていたのだろうな」


 教務責任者は、何も言わなかった。


 ルシアンは、窓の外へ視線を向けた。


 昨日、自分は何を言っただろう。


 身分によって誰かが傷つけられることを許さない。


 平民も貴族も、同じように扱われるべきだ。


 その考えは、今も変わらない。


 だが。


 自分は、その言葉を掲げながら、一人の少女を大勢の前で追い詰めた。


 彼女が公爵家の令嬢であることを理由に、言葉を疑った。


 エミリアが平民であることを理由に、その訴えを信じようとした。


 結局、自分もまた、身分によって人を判断していたのではないか。


「……ヴィオレッタは、何度も否定していた」


 ルシアンは、低い声で言った。


「それなのに私は、彼女の言葉を確かめようともしなかった」


 教務責任者が、静かに答えた。


「殿下。誤りを認めることと、その責任を果たすことは別です」


 ルシアンは、顔を上げた。


「……分かっている」


 彼は、ゆっくりと立ち上がった。


「まずは、本人に謝罪しなければならない」


     ◇


 午前の授業が終わった頃。


 俺は、魔導実習棟の廊下でアーネスト先生に呼び止められた。


「クレイヴェル君」


「はい」


「昨日は、よく発言しましたね」


 先生は、いつもの落ち着いた表情で言った。


「……ありがとうございます」


「ただし、ああいう場では、自分の発言がどのような影響を与えるか、十分に考える必要があります」


「……はい」


 俺は、素直に頷いた。


 それは、俺自身も感じていたことだった。


 もし、確認できないことまで断言していたら。


 もし、感情に任せて殿下を非難していたら。


 状況は、もっと悪くなっていたかもしれない。


「先生」


 俺は、少し迷ってから尋ねた。


「……エミリアの件は、どうなるんですか?」


 アーネスト先生は、少しだけ表情を曇らせた。


「現在、教務側で本人から事情を聞こうとしています」


「……そうですか」


「ただ、今朝から本人と連絡が取れていません」


 俺は、顔を上げた。


「……え?」


「寮にも確認しましたが、昨夜から戻っていないようです」


 胸の奥が、冷たくなった。


「……行方が分からないんですか?」


「現時点では、そういうことになります」


 先生は、慎重に答えた。


「学園側でも確認を進めています。君たちが独自に探す必要はありません」


「……分かりました」


 俺は頷いた。


 だが、頭の中では、昨日のエミリアの姿が浮かんでいた。


 あのとき、彼女は何を考えていたのだろう。


 自分の嘘が明らかになることを恐れていたのか。


 それとも、何か別の事情があったのか。


 今の俺には、分からなかった。


     ◇


 昼休み。


 武術訓練場の隣にある休憩所。


 カイルとディーンは、午前の訓練を終えて腰を下ろしていた。


「……なあ、ディーン」


 カイルが、水筒を傾けながら言った。


「昨日の交流会でさ、ちょっと気になることがあったんだ」


「何だ?」


「武術実演が終わった後、俺、裏門の近くにいたんだよ」


 ディーンが、顔を上げた。


「裏門?」


「ああ。実演用の木剣を倉庫へ戻す途中でな」


 カイルは、少しだけ考えた。


「そのとき、エミリアを見かけたんだ」


「……エミリア?」


「昨日、騒ぎになった子だよ」


「それは分かっている」


 ディーンは、眉をひそめた。


「いつ頃だ?」


「夕方。交流会が終わる少し前だったと思う」


「一人だったのか?」


「いや」


 カイルは、首を振った。


「先生らしい人と一緒だった」


 ディーンの表情が変わった。


「……先生?」


「たぶんな。学園の教員が着てる上着だったし」


「顔は?」


「よく見えなかった。背中しか見てないから」


 カイルは、少しだけ困ったように笑った。


「そのときは、何とも思わなかったんだけどさ」


 ディーンは、しばらく黙った。


 そして、静かに言った。


「……それ、教務に伝えた方がいい」


「え?」


「エミリアが今朝から見つからないって話がある」


 カイルは、目を見開いた。


「……本当か?」


「ああ。訓練場で、先生たちが話しているのを聞いた」


 カイルは、すぐに立ち上がった。


「じゃあ、今から行こうぜ」


 ディーンも立ち上がる。


「待て。まず、何を見たのか整理しろ」


「何で?」


「見たことと、想像したことを混ぜるな」


 ディーンは、真面目な表情で言った。


「昨日の件で、それがどれだけ危険か分かっただろ」


 カイルは、一瞬黙った。


 そして、頷いた。


「……そうだな」


 彼は、指を折りながら確認した。


「昨日の夕方。裏門の近く。エミリアが、教員らしい人と一緒に歩いていた」


「それから?」


「……それだけだ」


「馬車に乗るところは見たか?」


「見てない」


「相手の顔は?」


「見てない」


 ディーンは頷いた。


「それでいい。分からないことは、分からないと伝えよう」


 カイルは、少しだけ笑った。


「……お前、ほんと騎士向きだな」


「まだ騎士じゃない」


「でも、なれると思うぜ」


 ディーンは、少しだけ目を逸らした。


「……早く行くぞ」


 二人は、教務棟へ向かって歩き始めた。


     ◇


 昼過ぎ。


 王立総合学園の庭園。


 ヴィオレッタは、セシリアとともに、石造りの東屋にいた。


 庭園には秋の花が咲き、木々の間を穏やかな風が吹いている。


「……ヴィオレッタ様」


 セシリアが、少し心配そうに声をかけた。


「本当に、よろしいのですか?」


「ええ」


 ヴィオレッタは、静かに頷いた。


「殿下が直接お話ししたいとおっしゃっているのですもの」


「ですが、昨日のことを考えると……」


「心配してくれてありがとう」


 ヴィオレッタは、微笑んだ。


「でも、わたくしも、きちんとお話ししたいと思っていたの」


 そのとき、庭園の入口に人影が現れた。


 ルシアンだった。


 護衛の騎士を少し離れた場所に待機させ、一人で東屋へ近づいてくる。


「……ヴィオレッタ」


 彼は、静かに呼んだ。


 ヴィオレッタは立ち上がり、礼をした。


「ルシアン殿下」


「……昨日の件について、話がしたい」


「承知しております」


 ルシアンは、少しだけ視線を落とした。


 そして、深く息を吸った。


「……まず、謝罪させてほしい」


 ヴィオレッタは、何も言わなかった。


「私は、君の言葉を十分に確かめず、大勢の前で疑惑を口にした」


 ルシアンは続けた。


「それが、どれほど君の名誉を傷つける行為だったのか、昨日は理解できていなかった」


 彼は、まっすぐにヴィオレッタを見た。


「……申し訳なかった」


 そして、頭を下げた。


 セシリアが、息を呑んだ。


 第二王子が、公爵家の令嬢に対して頭を下げている。


 それは、決して軽い行為ではなかった。


 ヴィオレッタは、しばらく黙っていた。


 やがて、静かに口を開いた。


「……殿下」


「何だ?」


「謝罪のお言葉は、ありがたく受け取ります」


 ルシアンが、少しだけ顔を上げた。


「ですが」


 ヴィオレッタは、続けた。


「わたくしが望んでいるのは、謝罪だけではございません」


 ルシアンは、黙って彼女を見た。


「今回のようなことが、二度と起こらないようにしていただきたいのです」


 彼女の声は、穏やかだった。


 だが、そこには確かな強さがあった。


「誰かが傷ついたと訴えたとき、その声に耳を傾けることは大切です」


 ヴィオレッタは続けた。


「ですが、その訴えによって疑われる者にも、同じように耳を傾けていただきたいのです」


 ルシアンは、静かに頷いた。


「……そのとおりだ」


「身分が高いから信じる。身分が低いから信じる。そのどちらも、正しい判断ではないと思います」


 ルシアンは、目を伏せた。


「……私は、そのことを分かっているつもりだった」


「存じております」


 ヴィオレッタは、静かに答えた。


「殿下が、身分にとらわれない学園を望んでいらっしゃることも」


 そして、少しだけ表情を和らげた。


「ですから、今回のことを、どうか忘れないでください」


 ルシアンは、ゆっくりと頷いた。


「……約束する」


 ヴィオレッタは、静かに礼をした。


「ありがとうございます」


 ルシアンは、少しだけ迷ってから尋ねた。


「……君は、私を許してくれるだろうか」


 ヴィオレッタは、すぐには答えなかった。


 秋の風が、東屋を吹き抜ける。


「……今すぐ、すべてを忘れることはできません」


 彼女は、正直に答えた。


「ですが、殿下が今回のことを真摯に受け止めてくださるのであれば、わたくしも前を向きたいと思います」


 ルシアンは、静かに頷いた。


「……ありがとう」


 それ以上、彼は何も言わなかった。


     ◇


 同じ頃。


 王都の外れにある古い通りを、一台の馬車が走っていた。


 窓には厚い布がかけられ、外から中の様子は見えない。


 車内には、エミリアが座っていた。


 その向かいには、昨日、学園の廊下で声をかけてきた教師がいる。


「……先生」


 エミリアが、小さな声で尋ねた。


「本当に、これで大丈夫なんですか?」


 教師は、穏やかに微笑んだ。


「心配はいりません」


「でも、私……学園に戻らなかったら……」


「今は、少し休むことが必要でしょう」


 エミリアは、膝の上で手を握り締めた。


「……私、どうすればいいのか分からなくて」


「無理に答えを出す必要はありません」


 教師は、静かに言った。


「あなたには、まだ選べる道があります」


 エミリアは、顔を上げた。


「……選べる道?」


「ええ」


 教師は、窓の外へ視線を向けた。


「学園だけが、あなたの世界ではありませんから」


 その言葉に、エミリアは少しだけ安心したような表情を浮かべた。


 だが、すぐに不安が戻る。


「……殿下は、私のことを……」


 そこで言葉を止めた。


 教師は、何も急かさなかった。


 しばらくして、エミリアが呟いた。


「……私、殿下に嫌われたくなかったんです」


 声が震えた。


「ヴィオレッタ様がいると、いつか殿下は私のことなんて見なくなるんじゃないかって……」


 教師は、静かに聞いていた。


「……だから」


 エミリアは、唇を噛んだ。


「……あんなことを……」


 それ以上は、言えなかった。


 教師は、少しだけ身を乗り出した。


「エミリアさん」


「……はい」


「人は、誰でも間違えるものです」


 穏やかな声だった。


「大切なのは、その後に何を選ぶかです」


 エミリアは、ゆっくりと顔を上げた。


「……私にも、まだ何かできるんでしょうか」


「もちろんです」


 教師は、微笑んだ。


「あなたには、まだ知らない可能性がある」


 馬車は、王都の外れへと進んでいく。


 やがて、賑やかな通りを抜け、古い倉庫が並ぶ一角へ入った。


 エミリアは、不安そうに窓の布へ手を伸ばした。


「……ここは?」


「少し静かな場所です」


 教師は、そう答えた。


 馬車が止まる。


 外から、御者が扉を開ける音がした。


「さあ」


 教師は立ち上がった。


「こちらへ」


 エミリアは、迷いながらも、その後に続いた。


 馬車の外には、古い石造りの建物があった。


 看板はない。


 窓も、ほとんど閉ざされている。


「……先生」


 エミリアが、立ち止まった。


「ここで、何をするんですか?」


 教師は振り返った。


 そして、穏やかな声で答えた。


「あなたの話を、もう少し詳しく聞かせてもらいます」


 その笑顔は、学園で見せたものと変わらなかった。


 エミリアは、ゆっくりと頷いた。


 そして、建物の中へ入っていった。


 重い扉が、静かに閉まった。


     ◇


 夕方。


 王立総合学園の魔導実習棟。


 俺は、授業を終えた後も、研究室に残っていた。


 机の上には、先日から調べている魔導回路の資料が広げられている。


 だが、今日はどうにも集中できなかった。


「……シオン」


 リシアが、資料を閉じた。


「さっきから、同じところを読んでるわよ」


「……そうか?」


「ええ。三回目」


 エリオットが、横から顔を出した。


「僕も気づいてた!」


「……言ってくれよ」


 俺は、苦笑した。


 そのとき、研究室の扉が勢いよく開いた。


「シオン!」


 カイルだった。


 その後ろには、ディーンもいる。


「……どうした?」


 俺が尋ねると、カイルは少し息を整えた。


「エミリアのことで、気になることがある」


 俺は、顔を上げた。


「……エミリア?」


 ディーンが、一歩前へ出た。


「昨日の夕方、カイルが裏門の近くでエミリアを見かけた」


「……本当か?」


「ああ」


 カイルが頷いた。


「教員らしい人と一緒だった」


 俺は、思わず立ち上がった。


「……誰か分かるか?」


「いや。顔は見てない」


 ディーンが、すぐに補足した。


「それ以上は分からない。馬車に乗ったところも確認していない」


「……そうか」


 俺は、ゆっくりと頷いた。


 リシアが、眉をひそめた。


「その話、先生には?」


「伝えた」


 ディーンが答えた。


「教務で正式に報告してきた。必要なら、また事情を聞かれると思う」


 エリオットが、小さく呟いた。


「……先生と一緒なら、何か相談してたのかもしれないね」


「そうだな」


 俺は頷いた。


「ただ、今は何も分からない」


 カイルが、少しだけ拳を握った。


「……でも、もし困ってるなら、助けたいよな」


 俺は、彼を見た。


 カイルは、真面目な顔をしていた。


「エミリアが悪いことをしたかもしれないのは分かる。でも、だからって行方が分からなくなっていいわけじゃないだろ?」


「……ああ」


 俺は、静かに頷いた。


 ディーンも、腕を組んだ。


「だからこそ、勝手に探し回るのは危険だ。今は学園側に任せるべきだと思う」


「……分かってるよ」


 カイルは、少しだけ不満そうに答えた。


「でも、何か分かったら教えてくれ」


「もちろんだ」


 ディーンが頷いた。


 俺は、二人を見つめた。


 カイルは、困っている人を放っておけない。


 ディーンは、何をすべきかを冷静に考える。


 二人とも、俺とは違う形で物事に向き合っている。


 それが、少し頼もしかった。


     ◇


 しばらくして。


 研究室の扉が、軽く叩かれた。


「シオン、いるかしら?」


 聞き慣れた声だった。


「……ヴィオレッタ?」


 俺が扉を開けると、彼女が立っていた。


 今日は、いつもの学園制服姿だった。


「少しだけ、いい?」


「ああ。どうした?」


 ヴィオレッタは、室内を見渡した。


「あら、みんな揃っているのね」


 カイルが、すぐに笑った。


「おう! ちょうどシオンと話してたところだ!」


 ディーンが、軽く頭を下げた。


「ローゼンベルク様。昨日は大変でしたね」


「ありがとう、ディーン」


 ヴィオレッタは、静かに微笑んだ。


「でも、もう大丈夫よ」


 リシアが、少しだけ表情を和らげた。


「……それなら、よかったわ」


 ヴィオレッタは、俺へ視線を向けた。


「……シオン」


「何?」


「少し、二人で話せるかしら?」


 その瞬間。


 エリオットが、ぱっと顔を上げた。


「じゃあ、僕たちは図書室に行ってくるね!」


「……え?」


 俺が声を上げる前に、リシアも立ち上がった。


「私も、調べたい資料があるから」


 カイルが、にやりと笑った。


「お、何だ何だ?」


「カイル」


 ディーンが、すぐに肩を掴んだ。


「行くぞ」


「えー、何だよ!」


「邪魔をするな」


 ディーンは、そう言ってカイルを引っ張っていった。


 最後にエリオットが、意味ありげに笑う。


「じゃあ、また明日!」


 扉が閉まった。


 研究室には、俺とヴィオレッタだけが残された。


「……あいつら」


 俺が呟くと、ヴィオレッタは小さく笑った。


「気を遣ってくれたのね」


「……そうみたいだな」


 俺は、少しだけ頭をかいた。


     ◇


 研究室の窓から、夕陽が差し込んでいた。


 ヴィオレッタは、机の上に置かれた魔導回路を眺めていた。


「……これが、シオンたちの研究?」


「ああ。まだ途中だけどな」


「難しそうね」


「説明すると、もっと難しくなるかもしれない」


「ふふっ。エリオットみたいなことを言うのね」


 俺は、思わず笑った。


 しばらく、穏やかな時間が流れた。


 やがて、ヴィオレッタが口を開いた。


「……今日、ルシアン殿下から謝罪を受けたわ」


「……そうか」


「ええ」


 彼女は、静かに頷いた。


「きちんと、ご自身の言葉で謝ってくださった」


「……よかったな」


「そうね」


 ヴィオレッタは、少しだけ微笑んだ。


 だが、その表情には、まだ複雑なものが残っていた。


「……すぐに全部忘れられるわけじゃないけれど」


「……うん」


「でも、前へ進もうと思うの」


 俺は頷いた。


「それでいいと思う」


 ヴィオレッタは、少しだけ黙った。


 そして、俺へ向き直った。


「……シオン」


「何?」


「昨日、あなたが声を上げてくれたとき」


 彼女は、少しだけ視線を落とした。


「……本当に、嬉しかったの」


 俺は、返す言葉を探した。


「……大したことはしてないよ」


「また、それを言うのね」


 ヴィオレッタは、少しだけ頬を膨らませた。


「……いや、だって」


「わたくしにとっては、大したことだったの」


 その声は、いつもより少しだけ強かった。


 俺は、思わず黙った。


 ヴィオレッタは、少しだけ照れたように笑った。


「……ごめんなさい。変な言い方をしてしまったわ」


「いや……」


 俺は、首を振った。


「……ありがとう」


 ヴィオレッタが、目を瞬かせた。


「……どうして、シオンがお礼を言うの?」


「……何となく」


 自分でも、うまく説明できなかった。


 ただ、彼女が少しでも安心できたなら。


 昨日の自分の行動にも、意味があったのだと思えた。


 ヴィオレッタは、そんな俺を見て、小さく笑った。


「……変なの」


「……お互い様だろ」


「そうかもしれないわね」


 二人で、少しだけ笑った。


 夕陽が、彼女の金色の髪を柔らかく照らしていた。


 その横顔を見て、俺はふと思った。


 昨日までと、何かが違う。


 ヴィオレッタは、以前から親しい友人だった。


 気兼ねなく話せる相手でもあった。


 だが、今は。


 彼女が笑っていることに、少しだけ安心する。


 彼女が傷ついていないか、気になる。


 そんな感覚が、以前よりも強くなっていた。


「……シオン?」


 ヴィオレッタが、不思議そうに首を傾げた。


「……何でもない」


 俺は、慌てて視線を逸らした。


 彼女は、少しだけ不思議そうな顔をした後、微笑んだ。


「……そう」


 その笑顔を見て、俺は思った。


 これからも。


 彼女が困っていたら、力になりたい。


 それが、友人としての気持ちなのか。


 それとも、別の何かなのか。


 今の俺には、まだ分からなかった。


     ◇


 夜。


 王都の外れにある古い石造りの建物。


 エミリアは、小さな部屋の椅子に座っていた。


 机の上には、温かい飲み物が置かれている。


 窓の外は、すでに暗い。


 扉の向こうから、足音が聞こえた。


 やがて、教師が入ってきた。


「……少しは落ち着きましたか?」


 エミリアは、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


「それはよかった」


 教師は、穏やかに微笑んだ。


「今夜は、ここで休んでください」


「……学園には、いつ戻れるんですか?」


 教師は、少しだけ考えた。


「……今は、戻らない方がいいでしょう」


「……でも」


「大丈夫です」


 教師は、静かに言った。


「あなたのことは、こちらで考えています」


 エミリアは、不安そうに俯いた。


「……先生」


「何でしょう?」


「……私、これからどうなるんですか?」


 教師は、すぐには答えなかった。


 そして、穏やかに微笑んだ。


「……それは、あなたがこれから何を選ぶかによります」


 エミリアは、顔を上げた。


 教師は、机の上に一枚の紙を置いた。


「まずは、これを読んでみてください」


「……これは?」


「あなたの今後についての、いくつかの提案です」


 エミリアは、紙へ視線を落とした。


 そこには、見慣れない文字や記号が並んでいた。


 彼女には、その意味が分からなかった。


「……先生、これ……」


「今は、分からなくても構いません」


 教師は、静かに答えた。


「いずれ、説明します」


 エミリアは、もう一度紙を見た。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「……分かりました」


 教師は、満足そうに微笑んだ。


「では、今夜はゆっくり休んでください」


 そう言って、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 エミリアは、一人になった。


 机の上の紙を、もう一度見つめる。


 見慣れない記号。


 意味の分からない文章。


 そして、最後に書かれた短い一文。


 彼女には読めなかった。


 だが、その文字列が、なぜかひどく気になった。


 エミリアは、そっと紙を裏返した。


 そして、窓の外へ視線を向けた。


 遠くには、王都の灯りが見えている。


 その向こうに、王立総合学園がある。


 ルシアン殿下がいる。


 ヴィオレッタがいる。


 シオンがいる。


「……私、どうすればよかったんだろう」


 小さな呟きは、誰にも届かなかった。


 夜の静けさの中で、エミリアは膝を抱えた。


 彼女が姿を消したことは、まだ学園の一部の者しか知らない。


 だが、その失踪は。


 やがて、王都で起こる別の事件へと繋がっていくことになる。


 そのことを、この夜、知る者はいなかった。

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