断罪を拒む者
「……事実を確認する前に、誰かを責めるのは違うと思います」
言い終えた瞬間、後悔した。
いや、発言したことを後悔したわけじゃない。
もう少し言い方があったんじゃないか。
王族に対して、あまりにも正面から言いすぎたんじゃないか。
そんな考えが、一度に頭を駆け巡ったのだ。
王立総合学園の中央広間。
学園交流会に集まった学生や来賓たちの視線が、俺に集中していた。
目の前には、第二王子ルシアン殿下。
その隣にはエミリア。
少し離れた場所には、ヴィオレッタとセシリアがいる。
誰も口を開かない。
魔導灯の微かな作動音まで聞こえそうな静けさだった。
「……クレイヴェル、と言ったな」
やがて、ルシアン殿下が口を開いた。
「はい」
「君は、私が事実を確かめずに誰かを責めていると言いたいのか?」
声は静かだった。
だが、表情は険しい。
俺は一瞬、言葉に詰まった。
ここで「そうです」と答えれば、殿下を真正面から非難することになる。
だからといって、取り消せば何も変わらない。
「……殿下が、エミリアさんを心配されていることは分かります」
俺は、慎重に言葉を選んだ。
「ですが、今のお話には、まだ確認されていない部分があります」
「どの部分だ?」
「先週の魔導理論の授業です」
俺は、エミリアへ視線を向けた。
「教材を壊されたという話は、あの授業での出来事ですか?」
エミリアの肩が、ぴくりと動いた。
「……そう、です」
「授業中に?」
「はい」
「それは、誰から聞いた話でもなく、エミリアさん自身が経験したことなんですね?」
彼女は、少しだけ目を見開いた。
「……どうして、そんなことを聞くんですか?」
「確認したいからです」
俺は答えた。
「俺も、あの授業にいました。エミリアさんと同じ班だったから」
広間がざわめいた。
ルシアン殿下が、エミリアへ顔を向ける。
「同じ班だったのか?」
「……はい」
「なら、彼には事情を話しても構わないだろう」
エミリアは唇を噛んだ。
俺は、その様子を見ながら続けた。
「エミリアさんは、授業の途中で一度教室を出ましたよね」
「……ええ」
「体調が悪いと言って」
「……そうです」
「俺が覚えているのは、そこまでです。戻ってきたときに顔色が悪かったことも覚えています」
俺は一度、息を吸った。
「でも、教材が壊されるところは見ていません」
「……だったら」
エミリアが、小さく言った。
「見ていないなら、何も分からないじゃないですか」
「そうだね」
俺は頷いた。
「そのとおりだと思う」
彼女が、意外そうな顔をした。
周囲からも、戸惑ったような声が上がる。
俺は続けた。
「だから、俺が見ていないことを、見たようには話せない」
そして、ヴィオレッタへ視線を向けた。
「同じように、ヴィオレッタが何をしていたのかも、俺は直接見ていません」
「……シオン」
ヴィオレッタが、小さく俺の名を呼んだ。
「でも、調べれば分かることがあるはずです」
俺は、もう一度ルシアン殿下へ向き直った。
「それを確認させてください」
◇
「……待って」
最初に口を開いたのは、エミリアだった。
「どうして、私が疑われなきゃいけないんですか?」
その声は、先ほどよりも大きかった。
「私は、嫌がらせを受けたんです。怖い思いをしたんです。それなのに……!」
彼女の目に涙が浮かぶ。
周囲から、同情するような声が聞こえた。
「可哀想に……」
「そこまで問い詰めなくても……」
俺は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
確かに、俺の言葉は彼女を追い詰めているように聞こえるかもしれない。
だが。
「……エミリアさん」
俺は、できるだけ穏やかに言った。
「嫌がらせを受けたという話を、嘘だと決めつけたいわけじゃない」
「だったら……!」
「ただ、その相手がヴィオレッタだという部分は、確かめる必要があると思う」
エミリアは、言葉を止めた。
「本当に嫌がらせがあったなら、誰が何をしたのか調べるべきです。でも、違う人を責めてしまったら、別の被害者を作ることになります」
「……そんな」
エミリアが、ルシアン殿下を見た。
「殿下……」
ルシアン殿下は、すぐには答えなかった。
その表情には、迷いが浮かんでいる。
彼は、俺を見た。
「クレイヴェル。君の言い分は理解した」
「……ありがとうございます」
「だが、君に確認できることは限られているのだろう?」
「はい」
「ならば、ここで話を続けても結論は出ないのではないか?」
それは、もっともな指摘だった。
俺が答えようとした、そのとき。
「その件については、私から説明しましょう」
落ち着いた声が、広間の後方から響いた。
人々が振り返る。
そこに立っていたのは、アーネスト・フェルグ先生だった。
王立総合学園の魔導理論担当教師。
俺たちの研究を指導している人物でもある。
先生は、数枚の書類を手にしていた。
「フェルグ先生?」
ルシアン殿下が、驚いたように言った。
「失礼いたします、殿下」
アーネスト先生は、一礼した。
「交流会の運営に関わる教員として、この場の状況を確認しに参りました」
その言葉に続いて、もう一人の教員が姿を現した。
学園の教務を担当する年配の男性だった。
「殿下。学生間の問題については、学園側で調査する規則となっております」
教務担当の教師が、慎重に告げる。
「この場で結論を出されることは、お控えいただけますでしょうか」
広間の空気が、少し変わった。
ルシアン殿下は、眉をひそめた。
「私は、結論を出したつもりはない」
「承知しております」
教務担当の教師は、頭を下げた。
「ですが、来賓の方々もいらっしゃいます。学生の名誉に関わる問題ですので、正式な手順を踏む必要がございます」
ルシアン殿下は、しばらく黙った。
そして、静かに頷いた。
「……分かった」
俺は、胸の奥で息を吐いた。
少なくとも、これ以上一方的に話が進むことはなさそうだった。
だが。
「ただし」
ルシアン殿下が続けた。
「すでに多くの者が話を聞いている。曖昧なまま終わらせれば、かえって噂が広がるだろう」
確かに、そのとおりだった。
この場にいる人間の数を考えれば、今日の出来事は夕方までに学園中へ広まる。
明日には、王都の貴族たちの耳にも入るかもしれない。
「確認できることがあるなら、ここで明らかにしてほしい」
ルシアン殿下は、アーネスト先生へ向き直った。
「……可能か?」
アーネスト先生は、少し考えた。
「すべての疑惑について、この場で結論を出すことはできません」
そして、静かに続けた。
「ですが、少なくとも一件については、すでに確認を進めています」
◇
アーネスト先生が手にしていたのは、先週の授業記録だった。
「先週、魔導理論の実習では、基礎魔導回路の組み立てを行いました」
先生は、広間の中央に置かれた机へ書類を広げた。
「各班には、同じ規格の教材を配布しています。教材には管理番号があり、授業終了時に回収して状態を確認する決まりです」
エリオットが、小さく呟いた。
「……ああ、そうだった」
俺も思い出した。
授業の終わりに、各班の教材を確認してから返却した。
あのときは、単なる備品管理だと思っていた。
「エミリアさん」
アーネスト先生が、彼女へ声をかけた。
「あなたが壊されたと訴えているのは、授業で使用した教材で間違いありませんか?」
「……はい」
「いつ、破損に気づきましたか?」
「……教室へ戻ってきたときです」
「授業の途中で、体調不良を訴えて退出した後ですね?」
「……そうです」
先生は頷いた。
「その時点で、誰かに相談しましたか?」
「……いいえ」
「なぜですか?」
「……怖かったからです」
エミリアは俯いた。
「また何かされると思って……」
アーネスト先生は、責めるような口調にはならなかった。
「分かりました」
そして、書類へ目を落とした。
「ただ、記録を確認したところ、授業終了時の教材点検では、あなたの班に配布された教材に破損はありませんでした」
広間がざわめいた。
「……え?」
エミリアが、顔を上げた。
「そんな……」
「こちらが、当日の点検記録です」
先生は、一枚の書類を示した。
「班の代表者と担当教員が確認しています」
俺は、その書類に見覚えがあった。
授業の終わりに、エリオットが代表として記入したものだ。
あのとき、俺は回路を片づけていた。
「……エリオット」
俺が小声で呼ぶと、彼は頷いた。
「うん。僕が確認した」
エリオットは、一歩前へ出た。
「先生、発言してもいいですか?」
「どうぞ」
「僕は、その日の班の代表でした。教材を返却する前に、シオンたちと一緒に状態を確認しています」
エリオットは、少し緊張した様子で続けた。
「少なくとも、返却したときには壊れていませんでした」
エミリアが、首を振った。
「……でも、私が見たときは……!」
アーネスト先生は、静かに頷いた。
「あなたがそう感じたことまで否定するつもりはありません」
そして、言葉を続けた。
「ただ、現時点では、教材が実際に破損していたという記録はありません」
ルシアン殿下が、眉をひそめた。
「……それだけで、嫌がらせがなかったと断言できるのか?」
「いいえ」
アーネスト先生は、即座に答えた。
「記録だけで、すべてを断言することはできません」
俺は、思わず先生を見た。
「ですが、少なくとも、誰かが教材を壊したという主張を裏づける証拠にはなっていません」
その言葉に、広間が静かになった。
先生は続けた。
「さらに、もう一つ確認すべき点があります」
◇
「ヴィオレッタ・ローゼンベルクさん」
アーネスト先生が呼んだ。
「はい」
ヴィオレッタは、一歩前へ出た。
「あなたは、当該の授業時間中、別の教室にいたと説明していますね?」
「はい」
「その説明に間違いはありませんか?」
「ございません」
ヴィオレッタは、落ち着いた声で答えた。
「わたくしは、その時間、行政実務の講義を受けておりました」
「講義の途中で教室を出ましたか?」
「いいえ」
「確認できる方は?」
「担当の先生と、同じ講義を受けていた学生たちです」
ヴィオレッタは、そこで一度言葉を切った。
そして、はっきりと続けた。
「わたくし自身も、出席記録の確認をお願いしております」
アーネスト先生は頷いた。
「その件について、担当教員から回答を受けています」
彼は、別の書類を取り出した。
「当日の出席記録では、ヴィオレッタさんは行政実務の講義に出席しています」
ルシアン殿下が尋ねた。
「出席した後、途中で抜け出した可能性は?」
「その点も確認しています」
先生は答えた。
「講義では、途中で小課題を三回提出させています。ヴィオレッタさんの提出記録は、すべて残っています」
ヴィオレッタが、静かに続けた。
「加えて、わたくしはその日の講義で、隣席の学生と共同課題を行いました」
彼女は、セシリアを見た。
「セシリア」
「はい」
セシリアは、背筋を伸ばした。
「私も同じ講義を受けていました。ヴィオレッタ様は、最初から最後まで私の隣にいました」
俺は、その呼び方を聞いて、少しだけ安心した。
セシリアは、ヴィオレッタと親しい。
それでも、公的な場では彼女の立場を尊重している。
今の証言も、友人をかばうための感情的な言葉ではなかった。
実際に見たことを、はっきりと伝えている。
「……ですが」
ルシアン殿下が、慎重に言った。
「友人の証言だけでは、十分とは言えないのではないか?」
「そのとおりです」
ヴィオレッタは、すぐに頷いた。
ルシアン殿下が、わずかに目を見開いた。
「ですから、担当教員の記録も確認していただきました」
彼女は、まっすぐに殿下を見た。
「わたくしの言葉を信じてほしいと申し上げているのではありません」
広間が静まり返った。
「わたくしが、どこで何をしていたのか。その事実を確認していただきたいのです」
俺は、ヴィオレッタを見つめた。
彼女は、少しも目を逸らさなかった。
誰かに助けを求めるだけではない。
自分の名誉を守るために、自分の言葉で立っている。
それが、俺の知っているヴィオレッタだった。
アーネスト先生が、静かに告げた。
「当該時間帯の行動記録と複数の証言を照合した限り、ヴィオレッタさんが魔導理論の教室へ移動し、教材を破損させたという可能性は極めて低いと判断できます」
ざわめきが広がった。
今度は、先ほどとは違う種類のざわめきだった。
「……じゃあ、誰が?」
「そもそも、壊されてなかったんじゃ……」
「でも、エミリアさんは……」
エミリアは、顔を青くしていた。
「……違います」
彼女が、小さく呟いた。
「私は……確かに……」
ルシアン殿下が、彼女を見た。
「エミリア?」
「……私、見たんです」
「何を?」
「……ヴィオレッタ様が、教室の近くにいるところを」
俺は、思わず顔を上げた。
それは、今まで聞いていた話と違う。
「……エミリアさん」
俺は、慎重に尋ねた。
「さっきは、戻ってきたときに教材が壊れていたと言っていましたよね」
「……はい」
「ヴィオレッタが壊しているところを見たんですか?」
エミリアは、答えなかった。
「それとも、教室の近くで見かけただけですか?」
「……それは」
彼女の視線が揺れる。
「……だって」
声が震えた。
「……あの人しか、いないと思ったから」
広間が、静まり返った。
俺は、胸の奥が重くなるのを感じた。
それは、証言ではない。
推測だ。
しかも、その推測は、すでに確認された記録と食い違っている。
「……エミリア」
ルシアン殿下が、低い声で呼んだ。
「君は、ヴィオレッタが教材を壊すところを見たのか?」
エミリアは、唇を噛んだ。
「……いいえ」
「では、なぜ彼女がやったと?」
「……だって」
彼女は、俯いた。
「……私のことを嫌っていると思ったから」
その言葉に、ルシアン殿下は何も答えなかった。
◇
「……一つ、よろしいでしょうか」
今度は、ヴィオレッタが口を開いた。
ルシアン殿下が顔を上げる。
「何だ?」
「わたくしからも、エミリアさんに確認したいことがございます」
ヴィオレッタは、エミリアへ向き直った。
「エミリアさん」
「……はい」
「あなたは、わたくしがあなたを嫌っているとお考えなのですね」
エミリアは、黙ったままだった。
「ですが、わたくしは、あなたにそのようなことを申し上げた覚えはございません」
「……でも」
「何か、わたくしの言動で不快に感じたことがあったのなら、聞かせてください」
ヴィオレッタの声は、穏やかだった。
だが、そこには逃げ道を塞ぐような厳しさもあった。
「……ヴィオレッタ様は」
エミリアが、ようやく口を開いた。
「……殿下と、昔から親しいんですよね」
ヴィオレッタは、一瞬だけ目を瞬かせた。
「……ええ。王家と公爵家の交流がございますから」
「……だから」
エミリアは、拳を握り締めた。
「……私が殿下と一緒にいるのが、気に入らないんでしょう?」
俺は、思わず息を止めた。
ヴィオレッタも、驚いたように目を見開いた。
「……それが、理由なのですか?」
エミリアは、答えなかった。
「わたくしが、殿下と親しくしているあなたを妬んでいると?」
「……だって」
「エミリアさん」
ヴィオレッタは、静かに言った。
「わたくしは、殿下とあなたの交友関係について、口を出したことはございません」
エミリアが、顔を上げた。
「……でも!」
「そして、今後も口を出すつもりはありません」
ヴィオレッタは、はっきりと告げた。
「殿下がどなたと親しくなさるかは、殿下ご自身がお決めになることです」
ルシアン殿下が、わずかに顔を伏せた。
エミリアは、言葉を失った。
俺は、そこでようやく理解した。
彼女は、ヴィオレッタを恐れていたのかもしれない。
公爵家の令嬢。
幼い頃から王子と面識がある女性。
自分にはないものを、当たり前のように持っている相手。
その存在が、彼女には脅威に見えたのだろう。
だが。
それは、誰かを傷つけていい理由にはならない。
「……わたくしからも、一つ申し上げます」
ヴィオレッタは、少しだけ声を強めた。
「わたくしは、あなたを嫌っておりません」
エミリアが、顔を上げた。
「ですが」
ヴィオレッタは続けた。
「していないことを、したと言われるのは、とても悲しいことです」
その言葉に、広間が静まり返った。
「わたくしにも、守りたいものがあります」
彼女は、まっすぐにエミリアを見た。
「家の名誉だけではありません。わたくし自身の誇りも、友人たちとの関係も、これまで積み重ねてきたものも」
その声は、わずかに震えていた。
俺は、初めて気づいた。
ヴィオレッタは、ずっと平静だったわけじゃない。
平静であろうとしていたのだ。
「ですから、どうか」
彼女は、静かに言った。
「確かめていないことを、事実として語らないでください」
エミリアは、俯いた。
もう、何も言い返さなかった。
◇
「……フェルグ先生」
ルシアン殿下が、重い声で呼んだ。
「はい」
「教科書の件と、階段の件については?」
アーネスト先生は、慎重に答えた。
「現在、学園側で確認を進めています」
「……まだ結論は出ていないのか」
「はい。ただし、少なくとも今回の教材破損について、ヴィオレッタさんが関与したとする根拠は確認できません」
ルシアン殿下は、目を閉じた。
長い沈黙が流れた。
やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。
「……分かった」
その声には、先ほどまでの強さがなかった。
「本件については、学園側の正式な調査に委ねる」
広間がざわめいた。
「そして、現時点で確認されていない疑惑を理由に、ヴィオレッタを非難することは控えてほしい」
ルシアン殿下は、周囲を見渡した。
「私自身も、軽率な判断をした可能性がある」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
王子という立場で、それを口にするのは簡単ではないはずだ。
だが、ヴィオレッタの表情は変わらなかった。
当然だ。
ここで終わりにされては困る。
すでに彼女の名誉は、大勢の前で傷つけられている。
「……殿下」
ヴィオレッタが、静かに口を開いた。
「一つ、お願いがございます」
「……何だ?」
「正式な調査の結果については、今回の件を聞いた方々にも分かる形でお知らせいただきたいのです」
ルシアン殿下は、目を見開いた。
ヴィオレッタは続けた。
「疑惑だけが広まり、訂正が届かなければ、わたくしはこれからも疑われ続けることになります」
その言葉に、教務担当の教師が頷いた。
「もっともなご要望です」
そして、ルシアン殿下へ向き直る。
「調査結果は、学園として適切な形で公表いたします」
ルシアン殿下は、静かに頷いた。
「……それがよいだろう」
俺は、ようやく肩の力を抜いた。
すべてが解決したわけではない。
だが、少なくとも。
ヴィオレッタが、根拠のない疑惑によって一方的に責められる状況は止められた。
◇
騒ぎが収まった後。
中央広間の人々は、少しずつ交流会の展示へ戻り始めた。
ただ、先ほどまでの賑わいは戻らない。
誰もが、今起きた出来事について考えているようだった。
俺は、壁際で大きく息を吐いた。
「……疲れた」
「そりゃそうだよ!」
エリオットが、勢いよく言った。
「第二王子殿下に、あんなふうに話しかけるなんて!」
「……俺も、途中で帰りたくなった」
「帰らなくてよかったじゃない」
リシアが、静かに言った。
俺は、彼女を見た。
「……そうかな」
「ええ」
リシアは頷いた。
「ただし、少し危なっかしかったわ」
「……だよな」
「でも、自分が知っていることと、知らないことを分けて話したのはよかったと思う」
エリオットも頷いた。
「うん。あれなら、先生も話を続けやすかったと思う」
俺は、苦笑した。
「……二人がいてくれて助かったよ」
そのとき。
「シオン」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、ヴィオレッタが立っていた。
その隣には、セシリアもいる。
「……ヴィオレッタ」
俺が呼ぶと、彼女は少しだけ微笑んだ。
「少し、話せるかしら?」
「ああ」
エリオットが、すぐに一歩下がった。
「じゃあ、僕たちは展示に戻ってるね!」
「……エリオット」
俺が呼び止めようとしたときには、すでにリシアも歩き始めていた。
セシリアも、ヴィオレッタへ何かを囁いてから離れていく。
残されたのは、俺とヴィオレッタだけだった。
「……今日は、ありがとう」
ヴィオレッタが言った。
「いや、俺は大したことしてないよ」
「そんなことないわ」
彼女は、静かに首を振った。
「誰も口を開けなかったあの場所で、最初に声を上げてくれたでしょう?」
俺は、少しだけ目を逸らした。
「……怖かったけどな」
「そうでしょうね」
ヴィオレッタは、くすりと笑った。
「殿下に向かって、あんなことを言うんですもの」
「……もう少し考えてから話せばよかった」
「でも、言ってくれた」
その声が、少しだけ柔らかくなった。
俺は、彼女を見た。
ヴィオレッタは、窓の外へ視線を向けていた。
「……正直に言うとね」
彼女が、小さく呟いた。
「少し、怖かったの」
俺は、何も言わなかった。
「自分がしていないことを、したと言われて」
ヴィオレッタは続けた。
「何を説明しても、言い訳だと思われるかもしれない。そう考えると、どうすればいいのか分からなくなってしまって」
彼女は、少しだけ笑った。
「公爵家の娘なのに、情けないわね」
「……そんなことない」
俺は、すぐに答えた。
ヴィオレッタが、こちらを見た。
「怖いものは、怖いだろ」
俺は続けた。
「俺だって、怖かった」
「……シオンも?」
「ああ。今でも、殿下に目をつけられたんじゃないかって心配してる」
ヴィオレッタは、一瞬きょとんとした。
そして、小さく笑った。
「……ふふっ」
「……笑うところか?」
「ごめんなさい」
彼女は、口元を押さえた。
「でも、少し安心したの」
「……何で?」
「シオンも、怖かったんだと思って」
その言葉に、俺は首を傾げた。
ヴィオレッタは、窓の外へ視線を戻した。
「怖くない人が助けてくれるのと、怖くても助けてくれるのは、少し違う気がするから」
俺は、返す言葉を失った。
そんなふうに考えたことはなかった。
「……ありがとう、シオン」
ヴィオレッタは、もう一度言った。
今度は、まっすぐに俺を見て。
「今日のこと、忘れないわ」
俺は、少しだけ照れくさくなって視線を逸らした。
「……大げさだよ」
「大げさではないわ」
彼女は、静かに微笑んだ。
その笑顔は、昨日よりもずっと自然だった。
◇
一方。
王立総合学園の別棟。
人通りの少ない廊下を、エミリアが一人で歩いていた。
足取りは、重い。
先ほどの出来事が、頭から離れなかった。
ルシアン殿下の表情。
周囲の視線。
ヴィオレッタの言葉。
そして、シオンという少年。
「……何なのよ」
エミリアは、小さく呟いた。
「……どうして、あんな……」
自分が間違っていたのか。
そんな考えが、頭をよぎる。
だが、すぐに打ち消した。
ヴィオレッタは、すべてを持っている。
家柄も、地位も、周囲からの信頼も。
それなのに。
どうして、自分だけが責められなければならないのか。
「……私だって」
エミリアは、拳を握り締めた。
「……私だって、幸せになりたいだけなのに」
そのとき。
「エミリアさん」
背後から、声がした。
振り返ると、一人の教師が立っていた。
見覚えのある顔だった。
だが、名前はすぐに思い出せない。
「……先生?」
教師は、穏やかに微笑んだ。
「少し、お話ししませんか?」
エミリアは、戸惑った。
「……何のお話ですか?」
「今日のことです」
教師は、静かに答えた。
「あなたにも、言い分があるでしょう?」
エミリアは、目を見開いた。
そして、ゆっくりと俯いた。
「……聞いて、くれるんですか?」
「もちろんです」
教師は、優しく頷いた。
「ここでは、人目が気になるでしょう。静かな場所へ行きましょうか」
エミリアは、しばらく迷った。
だが、やがて小さく頷いた。
「……はい」
二人は、廊下の奥へ歩いていった。
その姿を、見ている者はいなかった。
◇
夕暮れ。
王立総合学園の正門付近では、交流会を終えた来賓たちが馬車へ乗り込んでいた。
俺は、エリオットとリシアとともに、校舎を出た。
「……結局、展示の説明をほとんどエリオットに任せちゃったな」
俺が言うと、エリオットは笑った。
「大丈夫! むしろ、いっぱい説明できて楽しかったよ!」
「……そうか」
「でも、今日はすごい一日だったね」
リシアが、静かに言った。
「ええ。まだ終わったわけではないけれど」
俺は頷いた。
教材の件については、ヴィオレッタの関与を否定する材料が揃った。
だが、教科書や階段の件は、まだ調査が続いている。
それに、エミリアがなぜあんな話をしたのかも、完全には分かっていない。
「……なあ」
俺は、二人へ声をかけた。
「何?」
「……今日のこと、どう思う?」
エリオットは、少し考えた。
「……難しいね」
そして、続けた。
「エミリアさんが嘘をついたのか、それとも何かを勘違いしたのか。そこは、まだ分からないと思う」
リシアも頷いた。
「ただ、ヴィオレッタが疑われた理由は、ずいぶん曖昧だったわ」
「……そうだな」
俺は、夕焼けに染まる校舎を見上げた。
もし、あの場で何も言わなかったら。
ヴィオレッタは、どうなっていただろう。
公爵家の令嬢だから、大丈夫だったかもしれない。
あるいは、身分が高いからこそ、もっと大きな問題になっていたかもしれない。
分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
俺は今日、初めて。
自分が知っていることを、誰かを守るために使った。
魔法でもない。
戦気でもない。
ただ、見たことを話しただけだ。
それでも、少しは役に立てたのかもしれない。
「……シオン」
リシアが、俺を呼んだ。
「何?」
「今日は、よく頑張ったと思うわ」
俺は、少しだけ笑った。
「……ありがとう」
エリオットが、横から顔を出した。
「僕もそう思う!」
「……お前は、さっきから元気だな」
「だって、友達が頑張ったんだもん!」
俺は、思わず笑った。
夕暮れの風が、校舎の間を吹き抜ける。
今日の出来事は、まだ終わっていない。
むしろ、ここから新しい問題が始まるのかもしれない。
それでも。
俺は、少しだけ前を向けた気がした。
誰かが傷つけられそうになったとき。
怖くても、声を上げることができる。
それを、今日初めて知った。
そして。
この日、俺が踏み出した小さな一歩が。
ヴィオレッタとの関係を、少しずつ変えていくことになるとは。
まだ、思ってもいなかった。




